憧れの地
リオネス帝国の建国以来、御前試合が行われる場所は、ただ一ヶ所と決まっていた。
帝都の郊外に築かれた、壮麗な白亜の闘技場。
この巨大な建築物の基部は、歴史家たちによれば《大戦》以前からこの地に存在するもので、今はもう失われた建材や工法が用いられているという。
だからこそ、最大で六万人という桁外れの人数を収容することができ、興奮した群集の地鳴りのような拍手と足踏みにも、揺らぐことさえないのだ。
戦士たちが戦う、巨大な円形の地面の周囲を、段々になった観客席がぐるりと取り巻いている。
今、その観客席のほとんど全面が、御前試合を見物につめかけた人々の姿で埋め尽くされていた。
この日を心待ちにしていた帝都の市民たちはもちろん、近隣の都市の住民たち、さらには、この試合を見物するためだけに遠方から旅をしてきた者たちもいる。
民衆のための席とは区切られた貴賓席に居並ぶのは、いずれ劣らぬ帝国の重鎮たちだ。
その側には、招待を受けた他国の大使たちも顔を揃えている。
そんな貴賓席の一角にだけ、まるで切り取られたようにぽっかりと無人の区画があった。
重武装の兵士たち、魔術師たちに周囲を固められた、その区画の中心には、リオネス帝国の主たる皇帝、ルーシャ・ウィル・リオネスが座を占めている。
今日、ルーシャがまとっているのは、遠目にもあでやかな金襴のドレスだ。
彼女は臣下たちにかしずかれ、ゆったりと微笑みをたたえたまま、試合の開催を告げる刻限を待っている。
観客たちのうち、無言を貫いているのは皇帝その人のみではないかと思われるほど、人々の興奮のどよめきはいよいよ高まり、ついには最高潮に達しようとしていた。
その内容のほとんどは、出場者たちの下馬評である。
今にもそこらじゅうで賭けが始まりそうな勢いだが――現に、今頃、非合法の賭博場は大盛況だろう――この会場内では、そういった光景は一切見られなかった。
通路に、武装した兵士たちが等間隔に立ち並び、目を光らせている。
この会場において、御前試合を賭けの対象とする行為を、ルーシャは厳重に取り締まらせていた。
御前試合は、単なる娯楽のための見世物などではない。
五百年前にこの世界を救った《翼持つ女神》に、最高の剣士たちによる闘いを捧げるための、聖なる儀式なのだ――
「ああ……あなた、どうしましょう」
観客席の一角――
貴賓席ではなく、市民たちと同じ一角で石段に腰掛け、しきりに首を振りながら言ったのはキャッサだ。
「もうすぐ、始まりますわね。わたくし、今からもう胸がどきどきして、居ても立ってもいられませんわ。ティアさんではないけれど、試合が始まったら、倒れてしまいそう。
ラインスさんのことはもちろんですけれど、わたくしは女ですから、フェリスさんのことがどうしても心配で――」
いつもおっとりとにこやかなキャッサが、こんなふうに不安をあらわにするのは珍しい。
だが、それも無理はなかった。
周囲の人々のあいだから漏れ聞こえてくる会話に、しょっちゅうフェリスの名前が登場するのである。
リオネス帝国の歴史上、御前試合に女性が出場した例は皆無ではない。
だが、それはやはり稀有な事例であり、物珍しさから人々の口の端に上るのも当然のことと言えよう。
「前回、女が出たのは……えーっと、いつだっけか? 確か、雪の降らなかった年だから……」
「おう、そうそう! そのときも確か、どっかの貴族の娘だったよなぁ」
「そんときゃ、1回戦で負けちまったって。まあ、仕方がないやね」
「そりゃ、そうだ! そもそも女が、剣ぶん回して男に勝とうなんてのが無理な話だ。今回だって、きっと――いでぇっ!?」
ごっ、と重い音がして、一瞬にして涙目になった男が、きっと振り返る。
「おい、殺すぞ!? 何しやが……」
もともと厳つい顔を限界まで厳つくしたガストンと目が合ってしまった男は、文句の続きを口の中に引っ込め、肩をすぼめてこそこそと前を向いた。
「ふん。戦場のにおいを嗅いだこともない若造が、百年早いわ」
固めていた岩のような拳を解き、吐き捨てたガストンは、傍らでしきりに両手を揉み絞っているキャッサの肩をそっと抱く。
「キャッサ、何も心配することはない。あの子の強さは、本物だ」
「でも……」
ガストンの力強い保証に、きつく寄せていた眉を幾分かゆるめて、しかし、まだ心配そうに、キャッサ。
「フェリスさんは確かに、戦場での経験はとても豊富でしょう。
けれど、これほど大勢の人に囲まれて試合をするのは、初めてなのではありませんか?
きっと、とても緊張するでしょうし、実力を出し切ることができるかどうか……」
「ご心配には及びません」
不意に、そう言い放ったのは、それまでは無言でガストンの隣に座っていたグウィンだった。
同時に注目してくるガストンとキャッサを、表情を窺わせない金色の目で見返し、静かに続ける。
「この大観衆が、あいつの味方になるでしょう」
夫妻は、顔を見合わせた。
ガストンが何事か聞き返そうとして――そのまま口を噤む。
彼だけではない。
あれこれとやかましく取り沙汰をしていた周囲の人々、その全てが、干潟が潮に呑まれるように次々と口を閉ざしていった。
皇帝が、片手を上げている。
布告もなく、ただ、それだけの動作によって、数万の人間の視線を惹き付け、沈黙させる――
ルーシャは微笑み、立ち上がった。
いよいよ、時が来た。
彼女は、ずっと、この時を待っていたのだ。
* * *
「……おっ?」
薄暗い中、一心に型の動作を繰り返していたフェリスは、不意にそんな声を漏らして動きを止め、きょろきょろした。
この部屋に入ってからずっと、途切れることなく伝わってきていた地鳴りのようなどよめきが、波が引くように静まっていったのだ。
『フェリスデール・レイド殿!』
壁に埋め込まれた伝声管から、係官の声が響く。
「はい!」
と、この声が聞こえるたびに思わず返事をしてしまうのだが、相手にそれが聞こえているのかどうかは、よく分からなかった。
今、フェリスがいるのは《控えの間》と呼ばれる石造りの小部屋だ。
小部屋といっても、一辺がゆったり十数歩はある。
全ての出場者が、こことまったく同じつくりの部屋にいるはずだ。
出入り口は、廊下から入ってくるときにくぐった小さな扉――今は、しきたりに則って、外からも内からも施錠されている――と、試合場に出て行くための大きな扉のふたつだけ。
窓はなく、外の様子は見えない。
ただ、天井近くにあけられた、横に細長い明かり取りのおかげで、薄暗いながらも不自由はない程度の明るさはあった。
『只今、皇帝陛下が、御前試合の開催を宣言されました。
程なく、入場となります。ご準備を!』
《控えの間》は、出場者本人の他には何人たりとも足を踏み入れることが許されない聖域とされている。
そのため、外からの指示はすべて、伝声管を通して行われるのだ。
「了っ解っ……!」
ついに、来た。
フェリスは湧き上がる興奮を抑え切れずに、兜の下で笑みを浮かべ、手にした剣を勢いよく振るった。
静謐な空気を刃が切り裂き、ぶんっ、と音を立てる。
迷いの欠片もない太刀筋は、いかなる防御をも打ち破る気魄に満ちていたが、今、フェリスが手にしている剣は、真剣ではない。
リューネ一の腕前とうたわれる鍛冶屋のグラース親方が、マクセスからの依頼を受け、手ずから鍛えてくれた模擬剣だ。
フェリスが普段使っている剣と、重さも、重心の位置も、寸分違わぬように拵えられている。
その出来は、振るっているうちに、刃を潰した模擬剣であることを忘れてしまうほどだった。
『新年祭の御前試合には、真剣ではなく、模擬剣を用いる』
このきまりは、第一回目の試合からずっと守られてきたものだ。
皇帝の御前で真剣を抜くことは許されないからだとか、新年を祝う祭を血で穢すことは不吉だからとか、《翼持つ女神》そのひとが戦場以外での流血を好まないからだとか、色々な説があるが、本当のいわれははっきりしていない。
(でも、とにかく、それがいいよ。うん)
ぎゅっと模擬剣の柄を握り、目の前に高々と掲げて、フェリスはひとりごちた。
(このきまりがあったからこそ、あたしは、御前試合に出たいと思ったんだ。
だって、誰も死ぬことなしに、思いっきり技を尽くして戦うことができるなんて、最高じゃない――!?
ようし、もう、思いっきり戦って、必ず優勝してやるわ!
《紫のケモノ》だろうが《魔性》だろうが、何だろうが……
絶対に誰も、あたしを止めることはできない!)
圧倒的な自信を支えるのは、これまでの日々。
この日を迎えるまで、毎朝、毎晩、この武装をまとい、この模擬剣を握って、鍛錬を繰り返してきた。
任務の合間を縫っては、何百回もの練習試合も戦ってきた。
そんな日々の証として、模擬剣の柄に巻かれた革は擦り切れ、てのひらの形にへこんでいる。
ちょうど、本物の愛剣と同じように。
体調は万全。
闘志も充分。
しっくりと身になじんだ兜に鎧、己の腕の延長のように振るうことのできる剣。
そして――
『フェリスデール・レイド殿! 時間です。扉が開きます! 御武運を!』
「はいっ!」
フェリスは模擬剣を鞘に収め、鎧に覆われた胸の辺りを軽く押さえた。
そこには、グウィンから貰った、白い羽がある――
次の瞬間、ガン、と巨大な掛け金が外される音がして、試合場に面する扉が開き始めた。
まばゆい光の筋がまっすぐに射し込んできて、フェリスの顔に当たった。
(翼持つ女神さま――)
フェリスには、それが、女神からの激励のように感じられた。
深く息を吸い込むと、全身に白い炎が満ちるような気がした――
(よしっ!)
大股に、踏み出していく。
怒涛の歓声が耳に届いた。
「……うわぁ……!」
フェリスは、兜の下で、目を見開いた。
広大な観客席を埋め尽くす、人、人、人。
これほど大勢の人間たちが自分を見下ろしている光景に、フェリスはこれまでに出会ったことがなかった。
そして、それは、初出場の者全員がそうであったろう。
この状況を可能にする構造を持った建造物は、他に、どこにもないのだから。
(何これ、何これ……! すごいっ! すごすぎる!)
定められた出場者の人数は、《大戦》のおりに降臨したと伝えられる十二柱の神々にちなみ、十二人。
皇帝の座所を要として、開かれた扇の骨の延長線上にあたる場所に、それぞれの出場者の《控えの間》がある。
今や、そこから――ドナーソン将軍を除く――十一人の出場者が姿を現していた。
恒例の十二人でないことを不吉とする声も無いではなかったが、これまでにも、急な病気や怪我で人数が欠けた例は、皆無ではない。
邪悪な魔術に関わった者のあとを無理に穴埋めするというのも、逆に縁起が悪かろうということで、今回は十一人の出場者が《翼持つ女神の剣》をかけて戦うこととなったのである。
(そして……この中の誰かが、今回の事件の真犯人である可能性が高い……)
フェリスは鋭い眼差しで、他の出場者たちを見回した。
よく見知った、ラインスとキリエの顔もある。
仮面舞踏会の夜に、ちらりと見かけたような気がする顔もある。
そして、今、初めて見る顔もある。
(いや……今、こんなこと、ごちゃごちゃ考えたって仕方がないわ。
余計なことは何も考えずに――ただ、戦って、勝てばいい!)
フェリスが、模擬剣の柄をぐっと握り締めたと同時、
『今、ここに集い、戦いを捧げる者の名を《翼持つ女神》に奏し奉る!』
誰が発しているのか分からない、豊かな声がとどろいた。
どこから聞こえてくるのかも判別がつかないが、これだけの人間が集まった広大な空間の隅々にまで、反響しながら朗々と響き渡っている。
おそらくは、皇帝の布告官のうち最も良い声をした者と、《拡声》を使うことができる魔術師が組んでの仕事であろう。
『力優れたる戦士、その名は、ガイアス!』
名を呼ばれた出場者は、拳で胸を叩く仕草をし、観衆は熱狂的な叫びでこれに応えた。
出身地も、身分も、家の名も述べずに、ただ戦士の実力を讃え、その者が与えられた名のみで呼ばわるのも、御前試合の伝統だ。
同じように、次々と出場者の名が呼ばれていく。
順番の決め方は非常に分かりやすかった。
年長の者から順に呼ばれるのだ。
特に人気の高い出場者のときは、歓声もいっそう大きなものになった。
出場者本人の反応は様々で、皇帝に対して礼をする者もあれば、観客席に向かって手を振る者、手にした盾をがんがんと叩いて気合いを入れる者、空を仰ぐ者、そのまま微動だにしない者もいる。
『力優れたる戦士、その名は、キリエ!』
《無冠の貴公子》の名が呼ばれた途端、女たちの黄色い声が、男たちの歓声を圧倒しかけた。
キリエは優雅に一礼し、ちらりとフェリスのほうを見たようだったが、フェリスは気付かなかった。
(あ、キリエのほうが、ラインスさんより年上なんだ)
そんな、まったくどうでもいい感想を心の片隅に抱きながら、何度も深呼吸を繰り返す。
頭にかっと血が昇るような、逆に血の気が引いていくような、この感覚。
一呼吸ごとに深く、身震いがこみ上げてくる。
この感覚には、覚えがあった。
かつて、ガイガロス砦の中庭に面した閲兵台で、マクセスの傍らに立ち、初めて、整列した兵士たちの姿を眼下に見下ろした時のこと。
全ての兵士たちの眼が、一斉に自分に注がれ――
自分の一挙手一投足、服装、表情の細部に至るまで、全てが見られていると感じた。
その者の足元からのびる道が、勝利へと続く道なのか、それともそうではないのかを一瞬にして見極める、厳格な眼差しだ。
ラインスの名が呼ばれ、湧き上がる歓声に彼が敬礼で応えたことに、フェリスはほとんど気付いてもいなかった。
目と耳には入っていたのかもしれないが、意識には届いていなかった。
『力優れたる戦士、その名は――』
彼女は、全神経を集中し、その瞬間のみを待っていた。
最年少にして、この試合で唯一の、女性の出場者。
その名が呼ばれた瞬間、一瞬の、全き静寂が訪れることをフェリスは予期していた。
そう、初めて閲兵台に立ったあの時と、同じように――
『フェリスデール!』
フェリスは、顔を上げた。
すうっ、と、右手を上げる。
その、奇妙にゆったりとした動きを、観客たち全員の視線が、吸い寄せられるように追った――
「おい」
誰かが、呟いた。
「あの子……笑ってる……」
満面の笑みとともに突き上げられたフェリスの手は、力強く、拳を握っていた。
観客たちがどよめく。
突き上げた拳を、フェリスは、降ろさなかったのだ。
それは、勝者の仕草。
――勝利宣言。
やがて一角から湧き起こった拍手が、波のうねりのように会場中に広がり、そこに歓声と足踏みとが加わって、凄まじいとどろきになった。
興奮に満ちた大喝采は、しばらくのあいだ、止むことはなかった。
「これは……」
周囲にまじって手を叩きながら、もはや感心を通り越し、呆れ返ったように呟いたのはガストンだ。
彼の前では、先程フェリスをこき下ろしていた男が、やられたというように頷きながら、惜しみない拍手を送っている。
背後のガストンを気にしてのことではない。
フェリスの堂々たる態度と、彼女が作り出した試合場の空気に、彼もまた呑まれたのだ。
「とんでもないな。あれほどの、クソ度胸……あっという間に、観衆の心を惹き付けてしまいおった……」
「昔からです」
グウィンの唇に、かすかな笑みがある。
「あいつには……あいつこそが、必ず勝つのだと、人々に信じさせる力がある。
力を失いかけた兵士たちが、あいつの言葉で武器を掴み、立ち上がる姿を何度も見ました。
あいつは、いつでも、人の心を動かす……」
「まるで皇帝陛下のようだな」
思わずそう呟いてから、ガストンは慌てて口を押さえた。
場合によっては、不敬罪と糾弾されかねない発言だ。
だが幸いなことに、周囲の観客たちは残らず熱狂的な雰囲気に酔いしれており、彼の言葉を聞きとがめた者はいないようだった。
「心おきなく戦え、フェリス」
嵐のごとき大歓声の中、誰に聞かれることもない言葉を、グウィンは、静かに口にした。
「ずっと、お前が夢見てきた戦いだ。お前は、必ず勝つだろう――」




