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翼持つ女神の神話

 うわお。

 振り向いたフェリスは、思わず、そんな形に口を開けた。

 ここまで現実離れした美形って、本当にいるんだ。


 夜のような漆黒のケープ。

 つややかな仮面も黒。

 その装いにはほとんど何の装飾もなかったが、飾り立てる必要すらない美貌というものがあるのだと、感動にも似た心境でフェリスは悟っていた。

 仮面で上半分が隠されてはいるが――いや、それゆえにこそ――女心をそそらずにはおかない、端整な顔立ち。


(すごく、素敵な人)


 ちらりとそう思い、慌てて胸中でかぶりを振る。


(待て待て! 油断しちゃだめ。

 今、この人……あたしのこと、翼持つ女神、って呼んだ……)


 美形に見惚れる少女の心と、油断を捨てぬ戦士の心。

 フェリスの中には、幼いころから、常にそのふたつが同居していた。

 もっと幼い頃には、激しくぶつかり合い、軋み合ったこともある。

 今はもう、乗り越えた。

 ――少なくとも、そのつもりでいる。


「まあ」


 フェリスは、つんとした口調で言った。

 そうしながらも、視線だけは素早く周囲を探り、人混みの中からドナーソン将軍の姿を見つけ出そうとしている。

 だが、将軍の姿は、踊る人々の波間にかき消えたように、もはやどこにも見当たらなかった。

 あきらめて、目の前の男に、改めて注意を戻す。


「なぜ、わたくしをそんなふうにお呼びになるのです?」


「暗闇の中で」


 仮面の向こうから、明るい鳶色の目がフェリスを見下ろし、笑いかけた。  


「蝋燭のわずかな明かりに照らされた、あなたの姿に目を奪われました。

 慌てふためく人々の中にあって、あなたは微動だにせず、短剣を手に身構えておられましたね」


(しまった、見られたか――!)


 笑みを絶やさないまま、フェリスは内心で冷や汗を流した。

 誰の目にも留まらなかったつもりだったが、目撃者がいたとは。

 短剣を所持していたこと。――これは、大した問題ではない。

《輝けるマーズヴェルタ》の城内において武装は禁じられているが、貴族であれば、秘密裏に護身用の短剣を持ち歩くことは、半ば黙認されているのだ。

 問題は、それを抜いて・・・しまった・・・・ということ。

 皇帝のおわします部屋で、許しを得ずに刃を抜く――

 これは、明らかになれば、極刑もまぬかれないほどの大罪なのである。


「まあ……」


 こうなっては、あくまでもそらっとぼけるしかない。


「それでは、あの瞬間、本当に《翼持つ女神》が降臨なさったのかもしれませんわね」


 にっこりと微笑んでやる。

 短剣を収めているのは足首だ。

 こうしていれば、確かめようがあるまい。

 まさか、公衆の面前で婦人のドレスをめくってみせろなどと言い出すつもりもないだろう……


 フェリスは、男の鳶色の目をじっと見据えた。

 男もまた、フェリスの瞳をまっすぐに覗き込んでくる。

 視線が、絡み合う。

 一瞬、冷えた胸が、再びどきどきと打ち始めた。  

 男の目には、奇妙に真剣な光があった。

 まるで、こちらの底意を探り、見抜こうとするかのような――


「そうかもしれませんね」


 だが、そう微笑み返してきたときには、その鋭い光は嘘のようにかき消えている。


「私としたことが」


 彼は、自分の胸に手を当てた。

 優雅な仕草だ。

 付け焼刃の作法ではなく、洗練された動作が身にしみついている。


「何と無作法な真似をしているのでしょう? 名乗りもせずに、このように気安く、若い女性に話しかけるとは。

 失礼をお許し下さい、姫君。私はウォリスタ伯、キリエ・フラウスと申します」


「キリエ……」


 あれ? どこかで聞いた名だな。

 フェリスは一瞬、そういぶかしみ――

 ついで、あっと目を見開いた。  


 キリエ・フラウス。《無冠の貴公子》。  

 イーサンたちが噂をしていた、御前試合の出場者だ。


(この人……こいつ……も、容疑者の一人か)


 フェリスの目つきが鋭くなった。

 もはや、ときめきは地平の彼方に消え失せている。

 整った容貌も、女心を蕩かすような声音も、フェリスの身体の中心を貫いて通る、強靭な一本の芯をぐらつかせることはない。

 それは、辺境の戦士の本能。

 ――味方か、それとも、敵か?


「翼持つ女神よ、あなたのお名前をうかがってもよろしいですか?」  


 キリエの問いかけに、フェリスは、うっと言葉に詰まった。

 断じて、ここで名乗るわけにはいかない。

 フェリスデール・レイド――

 マクセス・レイド将軍の娘。

 名乗りを耳にした貴族たちの反応が、まるで目に見えるようだ。


『あの《冷血》の娘御か――!?』


『辺境の怪物どもを相手に剣を振り回す、野蛮な姫だそうだぞ!』


『あの父にして、あの娘ありということか』


『血は争えぬものですわねえ、ほほほほほ』


(う……うっわああああ! 駄目だ、絶対言えないッ!)


 そして、名乗れない理由は他にもある。


(女の出場者は珍しい。

 まだ、帝都では、ほとんど評判にはなってないようだけど……『フェリスデール・レイドが御前試合に出場する』って情報を、もしも、こいつが、噂か何かで知っていたとしたら……)


 油断はできない。

 今、目の前にいるこいつが、連続殺人事件の真犯人だという可能性もあるのだ。


 ためらいが居心地の悪い沈黙にとってかわる、その寸前の絶妙なタイミングで、キリエが、不意に両腕を広げた。


「ああ、これは無粋なことを。

『仮面をつけるとき、人は、その者ではなくなる』――

 今宵は、あなたを、翼持つ女神とお呼びしてもよろしいでしょうか?」


「畏れ多いことですわ」


「今宵は、月が美しい。ご一緒に、庭園に出てみませんか?」


 こいつ、どういうつもりだろう、とフェリスは思った。

 まあ、着飾った自分の見てくれには、多少の自負はある。

 ドレスは上物、キャッサさんに化粧もしてもらったし、物心ついた頃から剣を握り続けたためにごつごつと節くれだった手も、上等な手袋がかろうじて隠してくれている。

 こんなふうに――自分を《辺境の戦乙女》や《隊長》としてではなく、ひとりの娘として見てくれる――男性と話すチャンスなんて、めったにないのだ。

 あたしは、まだ、たったの十七歳。

 同じ年頃の娘たちと同じように、男の人と散歩をしたり、お喋りを楽しむことがあったっていいはずだ……  

 だが、相手が同じ出場者であるという事実が、フェリスに、拭えない警戒心を抱かせていた。


「三の庭の大噴水は、月光を受けると水晶のように輝く。

 流れ落ちる水は、さながら月の神の御髪のようです。

 もっとも、あなたの金の髪のきらめきには及ばぬかもしれませんが……」


「噴水?」


 思わず呟いて、慌てて口をつぐむ。

 マーズヴェルタに招かれるような名門の貴婦人で、噴水を珍しがる者などいるはずがない。

 めったなことを口にして、育ちがばれたら大変だ。  


 だが、大噴水というのは、非常に気になった。  

 フェリスが生まれ育ったガイガロス砦には、そんな優雅な代物はない。

 兵士たちの生命線となっている城内の水汲み場は、灰色の石を組んだだけという、質実剛健の極みたいな造りだ。


『こんなもの、水圧を利用したただの飾り物だ。何を騒いでいる?』


 帝都の街の広場で、初めて噴水というものを見たときは、あまり感動しすぎて、グウィンに馬鹿にされた。

 ここの噴水は、あれよりもすごいのだろうか。


「いかが?」


 キリエがすくい上げるように腕を差し出し、穏やかに微笑みかける。


「ええ……でも」


 乾いた下くちびるを舐め、慣れない口紅の味わいに顔をしかめそうになりながら、フェリス。


「わたくし、連れがおりますの」


「ティンドロック卿ガストン・ユーザ殿ですね?

 今しがた、あちらで奥方とともにお見かけしました。

 ドナーソン将軍と、何やら話し込んでおられましたよ」


(ドナーソン将軍と!?)


 なんだ、取り逃がしたと思ったら、ティンドロック卿が捕まえてくれていたのか。

 ティンドロック卿のことだから、おそらく、あの歯に衣着せぬ物言いで、ドナーソン将軍を問い質してくれているだろう。

 ならば。 

 フェリスはにっこりと笑い、できるかぎり典雅な仕草でキリエの腕をとった。


「喜んで、ご一緒させていただきますわ」


 二番人気の《無冠の貴公子》――あたしは、こっちを探ってやろう。


(そのついでに、噴水も見物する、と。一石二鳥だね!)


 皇帝の城の噴水だ。

 さぞかし素晴らしいものに違いない。

 後で思いっきりグウィンに自慢してやろう、と考えて、フェリスは満足げに微笑んだ。



     *     *     * 



「ああ、グウィンさん!」


「夫人……」


 人混みのあいだを縫いながら《臙脂の間》に戻ってくるキャッサの表情を目にしたとたん、グウィンの胸中に、嫌な予感が広がった。

 表向きは平静を装ったが、表情に気遣わしげな色が滲み出ることまでは抑えられない。


「フェリスは、どこに?」


「それが……どこにも、姿が見えませんの。心配になって、今、ぐるりと探してみたのですけれど、見当たりませんのよ」


 キャッサは、手袋をはめた手を揉み絞っている。


「だから、もしかしたら、こちらに戻っていらしたのではないかと思って……」


「いえ、こちらでも、姿を見てはおりません」


 まったく、あの馬鹿者がっ、と、グウィンは思わず内心で毒づいた。

 出場者たちが顔を揃えるマーズヴェルタに登城するのは、敵地の中枢に乗り込むようなものだ。

 決して軽はずみな行動は取らず、単独行動も控えるようにと、昨夜から、あれほどしつこく念を押しておいたのに。


「ティンドロック卿は?」


「それが……ドナーソン将軍と、ばったり顔を合わせてしまって……

 今も、すっかり話し込んでいますの」


 ならば、ドナーソン将軍が直接仕掛けてくるという可能性はないということか。

 唯一の救いだ。

 グウィンは、目まぐるしく思考を巡らせた。


 たとえ何者かの不意討ちを受けたとしても、むざむざとやられるフェリスではない。

 必ず、一矢報いようとするだろう。

 それならば、何らかの騒ぎが起こるはずだ。

 一瞬で気絶させられるなどして拉致されたという可能性もあるが、周囲にこれだけの人目がある場所で、誰にも気付かれずに人ひとりを攫うなど、そうそうできることではない。

 ましてや、先ほどの――畏れ多くも――リオネス帝国皇帝ルーシャ陛下の言葉を信じるならば、《青の広間》には、彼女の配下たちが大勢潜んでいるはずだ。

 彼ら全ての目をごまかすなどという芸当は、おそらく不可能。

 ならば――


「どうしましょう、わたくしたちがフェリスさんから目を離したせいだわ。単なる行き違いなら、よろしいのですけれど……」


「落ち着いてください、夫人。《青の広間》から、この扉を通らずに、外に出る方法はありますか?」


「それは……」


 手袋をはめた指を頬に当てて天井を見上げ、《青の広間》のほうを振り返って、あっと口を開けるキャッサ。


「奥に、通路がありますわ」


「どこに続いているのですか?」


「確か……お庭のほうに出られたと思うのですけれど」


 皆まで聞かず、グウィンは身をひるがえす。


「グウィンさん!?」


「あの馬鹿者のことですから」


 一瞬だけ足を止めて、振り返らないまま、グウィンは呟いた。


「舞踏会に嫌気がさして、庭に逃げ出したとしても、驚くにはあたりませんな。

 ――ティンドロック卿に、お伝え願います」


 そして彼は、一陣の黒い風のように去る。


「ああ……どうしましょう」


 おろおろと呟く、キャッサ。

 そこへ――


「どうなさいましたの?」


 ひょい、とキャッサの顔を、横手から覗き込んだ者がある。

 一瞬、キャッサは、それが誰であるのか分からなかった。

 その人の姿は、つい先ほどまで・・・・・・・とは、まったく違っていたからだ。

 青灰色のきらめくネットをかけた、まっすぐな銀色の髪。

 髪色に合わせたような、銀の仮面。

 虹色の泡のような紋様を巧みに織り出した、群青のドレス。

 ただひとつだけ変わらぬものは、底知れぬ深みを思わせる青い眼差し――


「……あ……」


「あの少女を、探しているのですか?」


 言葉を失ったキャッサの前で、皇帝ルーシャ・ウィル・リオネスは、にっこりと微笑んだ。



     *     *     *



 三の庭の大噴水は、フェリスが想像していたよりも、遥かに壮麗な代物だった。

 どうどうと滝のような水音を立てて、噴き上げられた膨大な水が落ちてくる。

 噴出孔の角度に工夫があるのか、水は、まるでそれ自体がひとつの巨大な芸術作品のように、複雑に組み合わさるいくつもの弧を描いて、下の池に落ち込んでいた。

 月光が幾千万ものガラスの欠片のように砕け、跳ね飛ぶ水滴のひとつひとつを金剛石のごとくきらめかせている。


「すごい……」


 吸い寄せられるように石造りの手すりまで近付き、霧となったしぶきを肌に感じながら、フェリスは呟いた。

 普通の貴族の娘なら、こんなふうにせっかくのドレスを濡らすような真似は決してするまい。

 だが、フェリスにとっては、どんなドレスよりも、宝石よりも、この壮大な光景そのもののほうが美しく思えた。


「お気に召しましたか?」


「もちろん!」


 思わずいつもの調子で答えてから、おっと、と思い直し、いくぶん淑やかな口調で言い直す。


「実は、こちらの噴水を拝見するのは初めてですの。本当に、素晴らしいものですわね!」


 ちょうど水の束が落ちてくる場所には、漆黒の石で彫り上げられた、堂々たる神々の像が据えられていた。


(あれは《水瓶すいびょう持つ神》さま……あれが《花冠いただく女神》さま……

《青き御髪みぐしの女神》さまに《銀の瞳の神》さま――)


 フェリスは、噴水のまわりを手すりにそってゆっくりと歩いていきながら、神話が伝える神々の名を唱えていった。

 五百年前の《大戦》のおりに降臨し、今もどこかでこの世界を守り続けているという、十二の神々の姿だ。


 神話によれば、十二の神々は、創造神である男神オーリと女神イーレの息子たち、娘たちなのだという。

 この世界を創り出し、生きとし生けるものを生み出した創造神たちは、遥かな昔に、遠い別の世界に去った。

 だが、五百年前、この世界に《魔性》が来襲し、人々を苦しめていることを知った創造神たちは、星辰のかなたから子たる十二の神々を遣わし、人々を救ったのだ――


(そして……その筆頭が……)


 フェリスの視線は、自然と、一体の像に惹き付けられていった。

《翼持つ女神》。

 天空に向けて掲げた剣で、落ちてくる水を切り裂き、自ら生み出した飛沫の中にすっくと佇んでいる。

 五百年前に地上に降り立ち、剣を振るってこの世界を《魔性》の脅威から救った、偉大な女神――


(そして……あの剣エルベリオンの、最初の所有者……)


 つい先ほど、《青の広間》で一瞬だけ目にした《翼持つ女神の剣エルベリオン》の様子を、フェリスは脳裏に思い描いた。


 水晶でできているかのように透き通った刃。

 そこに彫り込まれた古代の文字。

 銀色に輝く護拳。

 細部に至るまで、この目にくっきりと焼き付いている。


 ――もちろん、あの剣が、本当に五百年前から伝わってきたものなのかどうかは分からない。

 長い歴史の中で、王族、皇族の権威を高めるために製作されたものなのかもしれない。

 だが、そんな疑念も、あの剣に込められた勝利への思い――

 これまでの御前試合で繰り広げられてきた、幾多の戦いの物語を色褪せさせるものではなかった。


「翼持つ女神の像を、ご覧になっているのですか」


「ええ」


 いつのまにか、キリエがすぐ傍らに来ていた。

 優勝への揺るぎない決意に燃える瞳を、慌てて笑みのかたちに細め、フェリスはそちらを見上げる。

 そう……わざわざ、こんなところまで出てきたのだ。

 そろそろ、仕掛けてみるとするか。



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