第32話 四日目の朝の異変
目が覚めると、枕が湿っていた。
寝汗かと思って触れた指先に、さらりとした感触が残る。べたつかない。舐めると、かすかに、塩の味がした。
枕元の時計を見て、慎一は眉をひそめた。秒針の音が、遅い。チッ、と、次のチッ、までの間が、わずかに、間延びしている。耳のせいだ、と思おうとした。けれど、一度そう聞こえてしまうと、もう、世界そのものが、半拍だけ遅れて回っているように感じられた。
閉めて寝たはずの窓が、開いていた。
洗面所の鏡に、自分の顔があった。目の下に、薄い隈。首筋に、青い筋が一本、皮膚を透かして浮いている。血管にしては、青すぎた。指で押すと、脈に合わせて、とくん、とくん、と、何かが流れていた。
慎一は蛇口をひねった。手のひらに、水を受ける。
――吸い込まれた。
水が、皮膚の下へ、染み込んでいく。スポンジが水を吸うように、音もなく。慌てて手を引いた時には、手のひらが、薄く、向こうが透けて見えるほどに、半透明になりかけていた。その下で、青いものが、ゆっくりと脈打っている。
声が、出なかった。
慎一は手を振った。指先から、水滴が散った。だが、その滴は、床に落ちても、はじけなかった。球のまま、ころりと転がり、乾きもせず、排水口のほうへ、ひとりでに、這っていった。
慎一は、それを、ただ見ていた。自分の体から出たものが、自分の意志と関わりなく、どこかへ帰ろうとしているのを。
蛇口を、固く締めた。震える手を、何度もタオルで拭った。拭いても、拭いても、また滲んでくる。それを、見ないことにして、慎一は、階下へ降りた。
食堂では、いつものようにキヨが、朝食の支度をしていた。
「おはようございます」
「あら、羽生さん。今朝は少し顔色が……」
キヨが心配そうに慎一を見た。
「大丈夫ですか?」
「ええ、ちょっと疲れが出たみたいで」
「そうですか。今日はゆっくりなさってくださいね」
ほかの宿泊客も、ぽつぽつと集まってきた。だが、今朝は、誰もが、どこか様子がおかしかった。
老人は、窓の外を、ぼんやりと見つめている。昨日までの朗らかさが、ない。中年男性は、例の写真を見つめたまま、箸に手を伸ばそうともしない。月島は、首筋の絆創膏を、何度も、指で確かめていた。
慎一と目が合うと、月島は、はっとしたように身を乗り出した。
「羽生さん、あの……」
声が、掠れていた。
「私、看護師なんです。だから、分かるんです。私の体、おかしい。傷が、治らない。それどころか、絆創膏の下から、水が……。これ、普通じゃない。あなたも、気をつけて。この島、何かが――」
「月島さん」
キヨの声が、やわらかく、けれど有無を言わさず、割り込んだ。いつのまにか、月島のすぐ後ろに立っている。その手が、月島の肩に、そっと置かれた。
「お顔の色が、すぐれませんねえ。お部屋で休まれたほうが」
月島の表情が、すうっと、抜け落ちた。今しがたまでの必死さが、嘘のように消える。
「……ええ。そうですね。少し、休もうかしら」
月島は、ぼんやりと立ち上がり、キヨに付き添われて、部屋へ戻っていった。その足取りは、もう、あの人形のように、ぎこちなかった。
慎一は、声をかけそびれた。背中に、冷たい汗が伝っていた。月島は、何を言おうとしたのか。そして、なぜ、途中で、人が変わったように静かになったのか。
「皆さん、お疲れのようですね」
キヨが、戻ってきて、気を遣って声をかけた。
「今日は祭りの準備もお休みですから、のんびり過ごされてはいかがですか」
朝食は、いつものように美味しそうに整えられていた。だが、慎一は、味噌汁を一口含んで、箸を止めた。
塩辛いような、それでいて、妙に甘い。舌の上に、ざらりとした感触が残った。細かい砂が、沈んでいるような。
「あの、今日の味噌汁……」
「ああ、今日は特別な味噌でしてね」
キヨが、先回りするように微笑んだ。
「祭りの前に頂く、厄除けの味噌汁ですよ」
そうですか、と慎一は頷いた。けれど、舌に残ったあの感触は、海の底の砂を、そのまま啜ったかのようだった。




