第3話 あかねの違和感
「百合川さん?」
慎一が声をかけると、あかねはびくりと震えた。深い水の底から急に引き上げられたような反応だった。
「あ……羽生くん」
あかねの声は、いつもよりかすれていた。そして、その目には異様な恐怖が宿っていた。瞳孔が開き、焦点が定まらない。
近づくと、かすかに潮の香りがした。いや、それは単なる潮の香りではない。もっと有機的な、海辺に打ち上げられた何かが腐敗し始めた時のような、生と死の境界の匂い。
「大丈夫か? 顔色が……」
慎一が立ち上がりかけると、あかねは首を振った。その動きで、首筋に奇妙な痣のようなものが見えた。青黒い、水に長時間浸かったような痕。誰かに水中で首を絞められた跡のようでもあった。
慎一は、あかねの異変に気づき始めていた。
入学当初のあかねは、明るく社交的な学生だった。サークルの新歓にも積極的に参加し、よく笑い、友人も多かった。髪は艶やかで、肌も健康的な色をしていた。
しかし、二年生の夏休み明けから、彼女は変わった。
まず、水を飲まなくなった。昼食時も、ペットボトルを持ってはいるが、決して口をつけない。友人が心配して勧めても、「今は喉が渇いていないから」と断る。
「ねえ、覚えてる?」
慎一の隣の席で論文を読んでいた田中由香里が、小声で話しかけてきた。
「先月の飲み会でのこと」
慎一は思い出した。ゼミの歓迎会で、居酒屋に行った時のことだ。
「あかねちゃん、すごく変だったよね」
由香里が続けた。
「乾杯の時、ビールのジョッキを持ったまま固まっちゃって。みんなが飲み始めても、じっとグラスを見つめてた」
「それで?」
「私が『飲まないの?』って聞いたら、『これ、生きてる』って」
慎一は眉をひそめた。
「生きてる?」
「そう。ビールの泡を見て、『泡の中に、小さな顔が見える』って。気味悪がって、結局一口も飲まなかった」
由香里の話は続いた。
「それだけじゃないの。この前、学食でも変なことがあって」
ある日の昼食時、あかねは味噌汁を前にして震え始めたという。
「『声が聞こえる』って言い出して。味噌汁から声が聞こえるって」
「どんな声?」
「『助けて』『苦しい』『ここから出して』……そんな声が聞こえるって」
由香里は、その時のあかねの様子を思い出したのか、少し青ざめた。
「あかねちゃん、スプーンを持つ手が震えてて、結局その日は何も食べずに帰っちゃった」
慎一は、あかねを見た。彼女はまだ水筒を見つめている。
そして、他の学生たちの噂も、慎一の耳に入ってきていた。
「百合川さん、雨の日は絶対に外に出ないんだって」
「傘を差しても?」
「うん。雨粒が肌に触れるのが怖いって」
「この前、急な夕立に遭った時、パニックになって泣き出したらしいよ」
「図書館で勉強してた時、窓の外で雨が降り始めたら、耳を塞いで『やめて、やめて』って呟いてたって」
次第に、あかねは「水恐怖症の変わり者」というレッテルを貼られるようになった。
しかし、慎一は気づいていた。これは単なる恐怖症ではない。彼女の反応は、水を恐れているのではなく、水に「呼ばれている」ことを恐れているように見えた。




