第22話 豊かな夕食
宿に戻ると、食堂からいい匂いが漂ってきた。
「お帰りなさい。ちょうど夕食の準備ができましたよ」
キヨが、エプロンで手を拭きながら出てきた。
食堂には、すでに他の宿泊客が集まっていた。
皆、部屋で休んで元気を取り戻したようで、和やかな雰囲気が漂っている。
「すごい……」
テーブルに並んだ料理を見て、月島が感嘆の声を上げた。
新鮮な刺身の盛り合わせ、煮魚、天ぷら、酢の物、小鉢の数々。どれも丁寧に作られ、美しく盛り付けられている。
「今日は、皆さんの歓迎の意味を込めて、特別にたくさん作りました」
キヨが嬉しそうに言った。
「この刺身は、今朝獲れたばかりの魚です。アジ、タイ、イカ、それにこれは島でしか食べられない『潮魚』という魚です」
潮魚と呼ばれた魚は、銀色に輝く美しい魚だった。
慎一が一切れ口に入れると、驚くほど甘みがあった。とろけるような食感で、今まで食べたどの魚とも違う味わい。
「美味しい」
そう言いながら、慎一は、奇妙なことに気づいた。
噛んでも、噛んでも、口の中に、生温かい水が湧いてくる。潮魚の身からなのか、自分の唾液なのか分からない。その水は、飲み下しても飲み下しても、また湧いてくる。そして、どれだけ食べても、胃の腑が、ちっとも満たされない。まるで、水を食べているような、奇妙な空腹感だけが残る。
「でしょう? 潮魚は、七つの潮が交わる場所でしか獲れない貴重な魚なんです」
キヨが説明してくれた。その笑顔を見て、慎一は、ふと、落ち着かない気持ちになった。
キヨの笑みは、ずっと、まったく同じだった。慎一がどう動いても、どの角度から見ても、口角の上がり方も、目の細め方も、寸分違わず同じだった。精巧な面をかぶっているような、あるいは、見えない糸で、いつも同じ形に吊り上げられているような。
気のせいだ、と慎一は箸を進めた。酒のせいで、少し、神経が過敏になっているのだろう。
煮魚も絶品だった。甘辛い煮汁が、白身魚によく染み込んでいる。骨まで柔らかく煮込まれていて、丸ごと食べられた。
「これは、私の祖母から教わった煮方なんです」
キヨが懐かしそうに語った。
「百年以上前から、同じ作り方で作っています」
そう言ったあと、キヨは、ふと、箸を止めた慎一の顔を、じっと見た。その目に、一瞬、歓迎とは違う色がよぎった。慈しみのような、あるいは、申し訳なさのような。
「……羽生さん。あんた、誰かに、似てらっしゃる」
キヨは、エプロンの裾を、そっと握った。
「うちの、息子にね。もう、ずっと昔に亡くした子なんやけど。あんたみたいに、本ばっかり読んで、難しいことを、楽しそうに話す子で。ご飯を、いつも、こうやって、よう食べてくれた」
その声には、嘘のない温もりがあった。慎一の皿に、キヨは、いちばん大きな煮魚の身を、そっと取り分けた。母親が、息子にするように。
「たんと、お食べなさい。痩せてしまわんように」
慎一は、礼を言った。この女将は、本当に、自分を気にかけてくれている。社交辞令ではない、母親のような情が、確かに、そこにあった。慎一は、胸が温かくなった。
その温もりが、後になって、どんな意味を持つことになるのか。この時の慎一には、まだ、知るよしもなかった。
「お優しい方ですね、羽生さんは。そういう方ほど……」
その先を、キヨは言わなかった。代わりに、また柔らかく微笑んだ。目尻に、かすかに、光るものがあった。慎一は、聞き返しそびれた。
天ぷらも、カラッと揚がっていて、野菜の甘みが引き立っている。
「この野菜は、すべて島で採れたものです。土が良いから、野菜も美味しく育つんですよ」
老人が、しみじみと言った。
「こんなに美味しい食事は、何年ぶりだろう」
目に涙を浮かべている。
中年男性も、黙々と箸を進めていた。美味しいものを食べて、少し生気を取り戻したようだ。
「あの、お酒もありますよ」
キヨが、一升瓶を持ってきた。
「島の地酒です。『海神』という名前で、すっきりした味わいが魚料理によく合います」
慎一は少し迷ったが、せっかくなので一杯いただくことにした。
冷やされた酒は、確かにすっきりとした味わいで、魚の旨味を引き立てた。
「いい酒だ」
老人も、久しぶりに美味しい酒を飲んだという顔をしている。
食事が進むにつれて、座は和やかになっていった。
キヨが島の昔話を聞かせてくれ、あかねが子供の頃の思い出を語り、老人が若い頃の旅の話をした。
古くからの知り合いが集まったような、温かい雰囲気。
慎一は思った。
これが、島の魅力なのかもしれない。
人と人の距離が近く、温かいもてなしがあり、美味しい食事を囲んで語り合う。都会では失われてしまった、人間らしい暮らし。




