↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
水に取られた ー八雲島水籠記ー(改訂版)  作者: 大西さん
第2章 八雲島への航路
PR
19/23

第19話 潮待庵の温もり

『潮待庵』は、集落の中ほどにある、風情ある日本家屋だった。


玄関には「民宿」の看板がかかり、軒下には干された魚の干物がぶら下がっている。庭には手入れの行き届いた植木があり、小さな池では鯉が泳いでいた。


「いらっしゃいませ」


引き戸を開けると、初老の女性が満面の笑みで迎えてくれた。


小柄で、腰が少し曲がっているが、その動きは機敏で、目には若々しい輝きがあった。エプロンからは、美味しそうな出汁の香りが漂っている。


「お待ちしておりました。私、この宿を営んでおります、キヨと申します」


キヨは深々と頭を下げた。


お待ちしておりました――その言葉に、慎一は、わずかな引っかかりを覚えた。


予約をした覚えは、なかった。島へ来ることを決めたのは、つい数日前で、宿の手配などしていない。あかねが、先に伝えてくれていたのだろうか。それとも、この島では、船で来る客の宿は、最初から決まっているのか。


考えすぎだ、と慎一は思い直した。小さな島だ。渡海丸が客を運べば、自然と、この一軒しかない宿に泊まることになる。それだけのことだろう。


それでも、キヨの「お待ちしておりました」には、一見の旅人を迎える言葉にしては、どこか、もっと深い、もっと長いあいだ待っていたような響きがあった。


「まあまあ、玄関先で立ち話もなんですから、どうぞお上がりください」


促されて靴を脱ぐと、板間がピカピカに磨かれているのが分かった。古い建物だが、隅々まで丁寧に手入れされている。


「お部屋にご案内する前に、お茶でも飲んで一息つかれてはいかがですか?」


キヨが居間に案内した。


八畳ほどの和室で、大きな座卓が置かれている。窓からは小さな中庭が見え、ししおどしの音が心地よく響いていた。


「どうぞ、楽にしてください」


皆が座ると、キヨが手際よくお茶を入れ始めた。


急須から注がれるお茶は、見たことのない青緑色をしていた。


「これは、島で採れる特別なお茶です」


キヨが説明した。


「『潮茶』と呼んでいます。海のミネラルを含んだ土で育つので、独特の風味があるんですよ」


慎一が一口飲むと、確かに普通のお茶とは違っていた。


爽やかな苦味の後に、かすかな甘みが広がる。そして、どこか懐かしい味がした。


「美味しい……」


月島が感嘆の声を上げた。


「こんなお茶、初めて飲みました」


「それは良かった」


キヨが嬉しそうに微笑んだ。


「実は、このお茶には疲労回復の効果もあるんですよ。船旅でお疲れでしょうから、ゆっくり飲んでくださいね」


お茶請けに出された菓子も、島の特産品だった。


「これは『波花』といいます」


薄い煎餅のような菓子で、表面に波の模様が刻まれている。


「もち米と海藻を使った、伝統的なお菓子です。サクサクして美味しいですよ」


老人が一口食べて、目を丸くした。


「これは……懐かしい味だ」


「あら、召し上がったことがあるんですか?」


「いえ、初めてなんですが……なぜか、懐かしく感じます」


キヨが優しく微笑んだ。


「それは、きっと心が島を受け入れてくださった証拠ですね」


慎一も、波花を口に運んだ。確かに、どこか懐かしい味がした。母の作る菓子でも、祖父母の家の味でもないのに、舌の奥が、知っている、と告げている。


ただ、奇妙なのは、いくら食べても、満たされないことだった。サクサクとした食感、ほのかな甘み。美味しいのに、口の中に、かすかな水気だけが残り、空腹が、ちっとも癒えない。一枚、また一枚と手が伸びる。底のない、奇妙な飢え。


慎一は、ふと、自分が、もう五枚も食べていることに気づいて、手を止めた。こんなに食べたのに、満腹感がない。むしろ、食べる前より、何かを欲している気さえする。


「お口に合ったようで、よかった」


キヨが、にこやかに、皿に波花を足した。その笑みは、慎一がどれだけ見ても、寸分変わらなかった。


お茶を飲みながら、キヨは島の話をしてくれた。


春には山桜が咲き乱れ、夏は海水浴客で賑わい、秋には豊漁を祝う祭りがあり、冬は温暖で過ごしやすい。一年を通じて、島は豊かな自然の恵みに満ちているという。


「人口は少ないですが、みんな家族のように仲良く暮らしています」


キヨの話を聞いていると、まるで桃源郷のような場所に思えてきた。


ただ、ひとつだけ。慎一は、この島に来てから、墓を、一度も見ていないことに、ふと気づいた。これだけ古い集落なら、どこかに墓地があるはずなのに。聞いてみようか、と思って、やめた。せっかくの、いい気分に、水を差したくなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。