第19話 潮待庵の温もり
『潮待庵』は、集落の中ほどにある、風情ある日本家屋だった。
玄関には「民宿」の看板がかかり、軒下には干された魚の干物がぶら下がっている。庭には手入れの行き届いた植木があり、小さな池では鯉が泳いでいた。
「いらっしゃいませ」
引き戸を開けると、初老の女性が満面の笑みで迎えてくれた。
小柄で、腰が少し曲がっているが、その動きは機敏で、目には若々しい輝きがあった。エプロンからは、美味しそうな出汁の香りが漂っている。
「お待ちしておりました。私、この宿を営んでおります、キヨと申します」
キヨは深々と頭を下げた。
お待ちしておりました――その言葉に、慎一は、わずかな引っかかりを覚えた。
予約をした覚えは、なかった。島へ来ることを決めたのは、つい数日前で、宿の手配などしていない。あかねが、先に伝えてくれていたのだろうか。それとも、この島では、船で来る客の宿は、最初から決まっているのか。
考えすぎだ、と慎一は思い直した。小さな島だ。渡海丸が客を運べば、自然と、この一軒しかない宿に泊まることになる。それだけのことだろう。
それでも、キヨの「お待ちしておりました」には、一見の旅人を迎える言葉にしては、どこか、もっと深い、もっと長いあいだ待っていたような響きがあった。
「まあまあ、玄関先で立ち話もなんですから、どうぞお上がりください」
促されて靴を脱ぐと、板間がピカピカに磨かれているのが分かった。古い建物だが、隅々まで丁寧に手入れされている。
「お部屋にご案内する前に、お茶でも飲んで一息つかれてはいかがですか?」
キヨが居間に案内した。
八畳ほどの和室で、大きな座卓が置かれている。窓からは小さな中庭が見え、ししおどしの音が心地よく響いていた。
「どうぞ、楽にしてください」
皆が座ると、キヨが手際よくお茶を入れ始めた。
急須から注がれるお茶は、見たことのない青緑色をしていた。
「これは、島で採れる特別なお茶です」
キヨが説明した。
「『潮茶』と呼んでいます。海のミネラルを含んだ土で育つので、独特の風味があるんですよ」
慎一が一口飲むと、確かに普通のお茶とは違っていた。
爽やかな苦味の後に、かすかな甘みが広がる。そして、どこか懐かしい味がした。
「美味しい……」
月島が感嘆の声を上げた。
「こんなお茶、初めて飲みました」
「それは良かった」
キヨが嬉しそうに微笑んだ。
「実は、このお茶には疲労回復の効果もあるんですよ。船旅でお疲れでしょうから、ゆっくり飲んでくださいね」
お茶請けに出された菓子も、島の特産品だった。
「これは『波花』といいます」
薄い煎餅のような菓子で、表面に波の模様が刻まれている。
「もち米と海藻を使った、伝統的なお菓子です。サクサクして美味しいですよ」
老人が一口食べて、目を丸くした。
「これは……懐かしい味だ」
「あら、召し上がったことがあるんですか?」
「いえ、初めてなんですが……なぜか、懐かしく感じます」
キヨが優しく微笑んだ。
「それは、きっと心が島を受け入れてくださった証拠ですね」
慎一も、波花を口に運んだ。確かに、どこか懐かしい味がした。母の作る菓子でも、祖父母の家の味でもないのに、舌の奥が、知っている、と告げている。
ただ、奇妙なのは、いくら食べても、満たされないことだった。サクサクとした食感、ほのかな甘み。美味しいのに、口の中に、かすかな水気だけが残り、空腹が、ちっとも癒えない。一枚、また一枚と手が伸びる。底のない、奇妙な飢え。
慎一は、ふと、自分が、もう五枚も食べていることに気づいて、手を止めた。こんなに食べたのに、満腹感がない。むしろ、食べる前より、何かを欲している気さえする。
「お口に合ったようで、よかった」
キヨが、にこやかに、皿に波花を足した。その笑みは、慎一がどれだけ見ても、寸分変わらなかった。
お茶を飲みながら、キヨは島の話をしてくれた。
春には山桜が咲き乱れ、夏は海水浴客で賑わい、秋には豊漁を祝う祭りがあり、冬は温暖で過ごしやすい。一年を通じて、島は豊かな自然の恵みに満ちているという。
「人口は少ないですが、みんな家族のように仲良く暮らしています」
キヨの話を聞いていると、まるで桃源郷のような場所に思えてきた。
ただ、ひとつだけ。慎一は、この島に来てから、墓を、一度も見ていないことに、ふと気づいた。これだけ古い集落なら、どこかに墓地があるはずなのに。聞いてみようか、と思って、やめた。せっかくの、いい気分に、水を差したくなかった。




