第11話 甚助の過去
船が港を離れ始めた頃、甚助が操舵室から出てきた。
自動操舵に切り替えたのか、彼は甲板の端に腰を下ろし、煙草に火をつけた。潮風に紫煙が流されていく。
「あんた、東京から来たって言ったな」
甚助が慎一に話しかけてきた。
「ええ」
「なんで八雲島なんかに? 観光なら、もっといい島がいくらでもあるだろう」
慎一は、あかねのことを簡潔に説明した。大学の友人が島に帰ったこと、心配で様子を見に来たこと。
甚助は、じっと慎一を見つめた。その目に、複雑な感情が浮かんでいる。
「友人想いなんだな」
そう言って、甚助は遠い海を見つめた。
「俺にも、そんな時代があった」
甚助の声が、過去を語り始めた。
「三十年前、俺は島で一番の漁師だった。腕もいいし、度胸もあった。そして、美しい妻がいた」
甚助の顔に、かすかな笑みが浮かんだ。しかし、それはすぐに苦渋の表情に変わった。
「妻の名は、真珠。海女の家系の娘でな、海を誰よりも愛していた」
慎一は、甚助の話に耳を傾けた。
「ある年の祓水祭の後、真珠の様子がおかしくなった。毎晩、海を見つめて立っている。『呼ばれている』と言ってな」
甚助の手が、無意識に何かを握りしめる動作をした。
甚助の手を見て、慎一は息を呑んだ。
その手は、無数の傷跡で覆われていた。古い傷、新しい傷、そして奇妙なことに、一部の傷は青く変色している。まるで、水が傷口から染み込んだような色。
「気になるか?」
甚助が、慎一の視線に気づいた。
「これはな、三十年間、同じ夢を見るたびにできる傷だ」
甚助は苦笑いを浮かべた。
「夢の中で、俺は真珠を海から引き上げようとする。だが、掴んだ瞬間、真珠の体は水になって指の間から零れ落ちる。必死に掬おうとして、海底の岩で手を切る。目が覚めると、現実でも傷が増えている」
慎一は、甚助の狂気の深さを理解した。夢と現実の境界が、もはや曖昧になっているのだ。
「そう、三十年前、俺は真珠を必死に止めた。部屋に鍵をかけ、窓に板を打ち付けた。でも、ある朝……」
甚助の声が震えた。
「真珠の体が、透けていた。皮膚の下を、水が流れているのが見えた。そして、彼女は笑っていた。『やっと、本当の姿になれる』と」
慎一は、あかねの姿を思い出した。同じだ。同じことが、三十年前にも起きていた。
「その夜、真珠は海に入った」
甚助が続けた。
「俺は追いかけた。海に飛び込んで、必死に彼女を掴もうとした。でも、真珠の体は俺の手をすり抜けた。水になって、海に溶けていった」
甚助は立ち上がり、海を見下ろした。
「それ以来、俺はこの船で島と本土を往復している。水と人間を繋ぐ船頭として」
「なぜ、続けているんですか?」
慎一の問いに、甚助は振り返った。
「真珠を探しているんだ。海の中に溶けた真珠を。いつか、また人間の形を取り戻してくれると信じて」
甚助の目に、狂気じみた希望が宿っていた。
「でも、同時に知っている。それが不可能だということも」
甚助は、慎一を見つめた。
「あんたを見ていると、三十年前の自分を思い出す。大切な人を救おうとして、結局は自分も飲み込まれていく」
「俺は……」
「いいんだ」
甚助が遮った。
「人は、愛する者のためなら、どんな地獄にも飛び込んでいく。それが、人間の業というものだ」
甚助は操舵室に戻っていった。その背中は、三十年の歳月の重みで曲がっていた。
しかし、慎一は見逃さなかった。
甚助の首筋に、かすかに鱗のような模様が浮かんでいることを。彼もまた、少しずつ水に侵食されているのだ。
水と人間を繋ぐ船頭。
それは、単なる職業ではない。甚助自身が、水と人間の境界に立つ存在になっているのかもしれない。




