第82話 みんなで過ごした一日のあとほど、“次は二人がいい”が心に残りやすい
帰りの電車は、思っていたより静かだった。
いや、車内そのものが静かだったわけではない。
夏休み前の休日らしく、買い物帰りの家族連れもいるし、部活帰りらしい学生もいる。ドアの近くでは小さな子どもが紙袋を抱えて眠そうにしていた。
それでも、影山涼太の周りだけは、少し落ち着いた空気になっていた。
今日一日、ずっと誰かの声が近くにあった。
図書館では、朝比奈ことりと本棚のあいだで静かに話した。
文房具売り場では、藤宮みずきが「デート未満みたいなの、けっこう好き」と笑った。
休憩スペースでは、黒瀬レナが「静かな場所の方が危ない気がする」と言った。
書店の奥では、白鳥つばさが「みんな後戻りできないところにいます」と静かに告げた。
全部が違う。
なのに、全部が胸の中に残っている。
「……疲れた」
思わず小さく漏らすと、隣に立っていたみずきが笑った。
「それ、今日何回目?」
「数えてない」
「絶対十回くらい言ってる」
「言ってないだろ」
「顔では言ってた」
その言い方が妙にいつも通りで、少しだけ助かる。
ことりは少し離れた吊革につかまりながら、やわらかく言った。
「でも、今日は本当にいろいろありましたから」
「いろいろ、で済ませるのか」
レナが窓の方を見たまま呟く。
「黒瀬さんは、どうでしたか」
ことりが聞くと、レナは一瞬だけ黙った。
「……疲れた」
「影山くんと同じですね」
「そこ一緒にしなくていい」
レナはそう返したが、声に棘はなかった。
つばさは向かい側に立ち、買った本の入った紙袋を両手で持っていた。
「疲れたということは、それだけ密度が高かったということだと思います」
「白鳥ちゃん、今日もまとめが硬い」
みずきが笑う。
「硬いでしょうか」
「ちょっと硬い。でもまあ、分かる」
みずきは窓に映る自分たちをちらっと見てから続けた。
「楽しかったよね、今日」
それは軽い言葉だった。
でも、誰もすぐには茶化さなかった。
楽しかった。
たしかにそうだ。
面倒で、落ち着かなくて、何度も返事に困って、それでも楽しかった。
「……そうですね」
ことりが最初にうなずく。
「楽しかったです」
「まあ」
レナも短く言う。
「悪くはなかった」
「レナ、それかなり高評価のやつ」
「うるさい」
つばさは少しだけ目元を緩めた。
「私も、来てよかったです」
最後に、全員の視線が影山へ向く。
「……なんで俺を見るんだよ」
「中心人物だから」
みずきが即答する。
「まだそれ言うのか」
「言うよ。今日なんて完全に中心だったじゃん」
否定したい。
だが、否定しきれない。
図書館でも、買い物でも、休憩でも、書店でも。
結局、自分は誰かと少しずつ二人になっていた。
「……楽しかったよ」
影山は諦めてそう答えた。
みずきが満足そうに笑う。
ことりは少しだけ安心した顔をする。
レナは目を逸らす。
つばさは、静かにその反応まで見ていた。
◆
駅で別れる時、空気は少しだけ名残惜しいものになった。
みんなで一日過ごした。
十分すぎるくらい話した。
それなのに、別れ際になると、まだ何か言い残したような気がする。
「じゃあ、また連絡するね」
みずきが手を振る。
「何をだよ」
「いろいろ」
「雑だな」
「でも、たぶんすぐ送る」
その“すぐ送る”が、ただの連絡予告ではないことくらい、影山にももう分かる。
ことりは小さく会釈した。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ」
「本、ちゃんと読んでみます」
「ああ」
それだけの会話なのに、図書館での時間がふっとよみがえる。
レナは少し遅れて、短く言った。
「……また」
「ああ。また」
「今の“また”、軽いね」
「重く言われても困るだろ」
「それはそう」
レナは少しだけ口元を緩めた。
つばさは最後に影山を見た。
「先輩」
「何」
「今日のこと、ちゃんと覚えておいた方がいいと思います」
「覚えてるよ」
「ならいいです」
「何がだよ」
「たぶん、あとから効いてくる日なので」
つばさはそう言って、軽く頭を下げた。
あとから効いてくる日。
その言い方は、妙にしっくりきた。
五人は駅前でそれぞれの帰り道へ分かれた。
影山が一人になったのは、その少しあとだった。
◆
家に帰ると、部屋は当然ながら静かだった。
靴を脱ぎ、鞄を置き、買った文房具を机の上に出す。
水を一杯飲んで、ようやく息をついた。
「……静かだな」
自分の部屋なのだから当たり前だ。
でも、今日はその静けさが少しだけ物足りない。
少し前まで、この部屋は一人でいるための場所だった。
学校のざわつきから離れて、家事をして、課題をして、静かに一日を終える場所。
それが今は違う。
ことりが最初に来て、静かに机へなじんだ。
みずきが入ってきて、一気に空気を動かした。
レナが壁際で落ち着き、つばさが全体を見ながらそこへ座った。
その記憶があるせいで、自分の部屋なのに、たまに誰かの気配を思い出してしまう。
影山は椅子に座り、今日買ったシャープペンを手に取った。
みずきが選びながら笑っていた付箋。
ことりが持っていた文庫。
レナが休憩スペースで飲んでいたスポーツドリンク。
つばさが静かに戻した評論書。
それぞれ、ばらばらだ。
ばらばらなのに、全部同じ一日の中にあった。
「みんなで楽しいのに」
影山は机に肘をつき、小さく呟いた。
「そのあと、二人の時間が欲しくなるのは……ずるいだろ」
言ってから、自分で少しだけ嫌になる。
誰か一人のことを考えているわけではない。
でも、誰か一人ずつとの時間を思い出している。
ことりと、もう少し本棚の間で話していたかった。
みずきと、もう少し買い物を続けてもよかった。
レナと、もう少し静かな場所に座っていてもよかった。
つばさと、もう少しあの続きを聞いてもよかった。
それが、かなりまずい。
みんなで過ごした一日のあとほど、“次は二人がいい”が心に残りやすい。
影山は今、その言葉の意味を自分の部屋で痛いほど感じていた。
◆
その頃、ことりも自室で本を机に置いていた。
影山に選んでもらった一冊。
正確には、二人で棚の前に立っていた時に、影山が「朝比奈向きかも」と言ってくれた本。
それだけで、その本が少し特別に見える。
「……単純ですね」
ことりは小さく笑った。
でも、嫌ではない。
みんなで出かけた一日は楽しかった。
みずきの明るさに何度も笑ったし、レナの静かな言葉にも少し安心した。つばさの冷静な視点には、やっぱり何度も感心した。
それでも、自分の中でいちばん残っているのは、本棚の間で影山くんと話した時間だった。
静かな場所だと、少しだけ素直になりやすい。
そう言えたこと。
そして、影山くんがそれをちゃんと受け取ってくれたこと。
「……次は」
そこまで言いかけて、ことりは少しだけ頬を押さえた。
次は、二人で。
そんな言葉が自然に浮かぶようになっている。
まだ送らない。
でも、いつか送るかもしれない。
その予感だけが、静かに胸の中へ残っていた。
◆
みずきは帰宅してすぐ、買った付箋を机に広げた。
「これ、完全に影山のせいで買ったやつだよね」
自分で言って、自分で笑う。
“おまえっぽいな”と言われただけ。
それだけで買うと決めてしまった。
単純だ。
でも、うれしかったのだから仕方ない。
「デート未満、かあ」
口に出すと、少しだけ照れくさい。
でも、本当にそうだった。
文房具を選んで、飲み物を見て、これどうかなと聞いて、影山がちゃんと答えてくれる。
それは正式なデートではない。
でも、ただの買い物でもなかった。
「……次はもうちょっと、ちゃんと言お」
みずきはスマホを手に取る。
すぐ送るのは少し早いかもしれない。
でも、早いのが自分らしいとも思う。
画面を開いて、影山とのメッセージ欄を見て、少しだけ迷う。
今日はやめておこう。
でも明日か明後日には、きっと何か送る。
“次は二人で”に近い何かを。
◆
レナは部屋で、買ったスポーツドリンクの空きボトルをゴミ箱へ入れた。
今日は疲れた。
間違いなく疲れた。
でも、帰ってきてから思い出すのは、やっぱり休憩スペースの端での会話だった。
静かな場所の方が危ない気がする。
そう言った自分の声を思い出して、レナはベッドに座ったまま顔をしかめる。
「……何言ってんだろ」
でも、嘘ではない。
人の少ない場所で、影山と少し離れて座って、急かされずに話す。
その時間が、思っていたよりずっと落ち着いた。
そして、落ち着くからこそ危ない。
またそういう時間が欲しいと思ってしまうからだ。
「……別に、次とか考えてないし」
そう言いながら、レナはスマホを見た。
もちろん、まだ何も送らない。
送る理由もない。
でも、理由がなくても少し話したいと思っている自分がいる。
そこが一番面倒だった。
◆
つばさは、帰宅後に今日の行動を簡単にメモしていた。
誰がどこで誰と離れたか。
誰がどんな表情をしていたか。
どの言葉が空気を変えたか。
以前なら、それは完全に観察記録だった。
でも今は違う。
自分自身の項目がある。
書店の奥。
影山先輩と二人。
「外から見ているだけでは嫌になってきている」と伝えた。
つばさはペンを止める。
「……書くと、かなり本音ですね」
声に出す。
けれど、それでよかった。
今日一日で、みんなが前へ出た。
ことり先輩も、みずき先輩も、レナ先輩も。
そして自分も。
その事実を、影山先輩はたぶんちゃんと感じている。
つばさはメモの最後に一行だけ足した。
次は、全員が二人の時間を望み始める。
それは予測であり、自分自身への確認でもあった。
◆
夜、影山のスマホは結局、何度か震えた。
みずきからは、買った付箋の写真。
ことりからは、今日借りた本の礼。
つばさからは、参考資料リストの修正版。
レナからは、かなり短く。
今日は疲れた。けど、悪くなかった。
影山はそれぞれに返信しながら、また机へ突っ伏したくなった。
「……ほんとに、静かじゃないな」
夏休みは、もっと静かなものだと思っていた。
学校がなくなって、会う機会が減って、少し落ち着くのかもしれないと。
だが実際は逆だ。
教室の外で会うからこそ、ひとつひとつの時間が濃くなる。
みんなで過ごした一日のあとだからこそ、個別の時間が強く残る。
影山はスマホを伏せ、天井を見上げた。
今日の楽しかった一日が、もう次の約束の気配を連れてきている。
そのことを、彼はもう分かってしまっていた。




