第26話 優等生は“二人きりの買い物”を聞くだけで少しだけ平静を失う
月曜日の朝、朝比奈ことりはいつもより十分早く教室へ入った。
別に、落ち着かないから早く来たわけではない。
そう自分に言い聞かせながら、席へ鞄を置き、ノートを取り出し、提出物の確認をする。
いつも通り。
いつも通りの動きだ。
けれど、胸の奥だけが少しだけ落ち着かなかった。
理由は分かっている。
土曜日。
藤宮みずきと影山涼太が、二人で買い物へ行ったこと。
“行ったらしい”ではない。
ほぼ確定だ。
金曜の時点で、みずきが勢いそのままに誘っていた。影山くんも、最終的には断らなかった。
そして月曜日の朝になれば、みずきのことだから何かしら空気に出る。
「……別に、ただの買い物です」
小さく呟いて、自分のペンケースの位置を整える。
ただの買い物。
部活用品と雑貨を見るだけ。
そういう名目だったはずだ。
でも、それが“ただの買い物”に見えなくなることくらい、ことりにも分かっている。
相談でもなく。
委員の仕事でもなく。
事件でもなく。
理由があっても、それでもやっぱり“二人で行く時間”だ。
それを思うと、心の奥が少しだけざわつく。
嫉妬、というほど露骨なものではないと思いたい。
でも、落ち着かないのは事実だった。
「おはよー!」
元気すぎる声が教室の入口から飛び込んできた。
ことりは反射的に顔を上げる。
藤宮みずき。
そして、その後ろから少し遅れて入ってくる影山涼太。
やっぱり一緒ではない。
そこは少しだけ安心した。
だが、みずきの顔が問題だった。
明らかに機嫌がいい。
しかも“何かあったのを隠したいけど隠しきれていない人”の顔をしている。
あれは分かる。
ことりは静かなタイプだが、人の表情の変化を見るのは得意な方だった。
「……ああ」
思わず小さく息が漏れる。
だめだ。
あれはたぶん、楽しかったのだ。
影山くんの方を見る。
影山くんは影山くんで、いつも通りに見える。
でも、いつもよりほんの少しだけ、みずきに向ける目線が自然な気がした。
自然、というのは変な言い方かもしれない。
ぎこちなさがない、という意味に近い。
ことりはそこで初めて、自分の胸のざわつきがどこから来ているのか、かなりはっきり理解してしまった。
――自分が知らない時間が、もうあの二人の間に一つある。
それが少しだけ、悔しかった。
◆
「朝比奈、おはよ!」
みずきが席へ来る。
「おはようございます」
「今日ちょっと眠そう?」
「そんなことは」
「あるよ」
みずきはにやっと笑った。
この笑い方をする時は、だいたい自分が優位だと分かっている時だ。
ことりは少しだけ困る。
「藤宮さんの方が、今日は機嫌がよさそうですね」
「えー、そう?」
「はい」
「まあ、ちょっとね」
隠す気があるのかないのか分からない返事だ。
ことりは一瞬だけ迷い、それから静かに聞いた。
「土曜日、どうでしたか」
みずきが目を丸くする。
「え、聞くんだ」
「聞きますよ」
「へえ」
みずきは少しだけ肩をすくめた。
「楽しかった」
即答だった。
ことりは一瞬だけ言葉を失う。
そこをぼかさないのか。
もっと冗談っぽく流すと思っていた。
「そうですか」
「うん」
みずきは続ける。
「普通に買い物しただけだけど、でも、普通じゃなかったっていうか」
「……」
「影山って、ほんとに自然に荷物持つし、ちゃんと見てくれるし、困るよね」
ことりの手が、無意識にノートの端を少しだけ強く押さえた。
困る。
その言い方は、たぶん自分にも分かる。
「朝比奈」
「はい」
「顔、ちょっとだけ固い」
「そんなことありません」
「あるって」
みずきは言ったあと、少しだけ表情をやわらげた。
「でも、ごめん。自慢したいとかじゃないから」
その一言は、思っていたより真面目だった。
ことりは少しだけ驚く。
みずきは本当に、ただ勝ち誇りたいだけではないらしい。
むしろ、自分でも気持ちの整理がついていないまま、でも楽しかったことは隠せない、そんな感じに見えた。
「……分かっています」
ことりは静かに答える。
「ただ、少しだけ」
「うん」
「羨ましいとは、思いました」
自分で言ってしまってから、少しだけ頬が熱くなる。
でも、今さらきれいに取り繕うのも違う気がした。
みずきは一瞬黙り、それから小さく笑う。
「そっか」
「はい」
「じゃあ、朝比奈も行けばいいじゃん」
「え」
「影山と」
あまりにもあっさり言われて、ことりは本気で止まった。
「そ、それは……」
「嫌なの?」
「嫌ではありません」
「じゃあ誘えば?」
「そんな簡単に言わないでください」
少しだけ本気で返してしまう。
みずきはそれを見て、やっぱり笑った。
「うん、でも朝比奈って、そういう時にちゃんと考えすぎるんだよね」
「考えますよ」
「私は考える前に言っちゃうから」
「それは知っています」
二人とも、少しだけ笑った。
やっぱり不思議だと思う。
こうして恋の方向では競合しそうなのに、相手をまったく嫌いになれない。
それはたぶん、相手もちゃんと本気だからだ。
適当にふざけているだけなら、こんなふうに静かに話せない。
◆
午前の授業は、ことりにしては珍しく少しだけ集中しにくかった。
先生の話は入っている。
ノートも取っている。
でもその合間に、土曜のことを想像してしまう。
ショッピングモール。
並んで歩く二人。
みずきが「これどう思う?」と聞いて、影山くんが少し困った顔で答える場面。
見たわけではない。
でも、容易に浮かぶ。
なぜなら最近の影山くんが、そういうことをしそうな人だと知ってしまったから。
「……」
自分で考えて、自分で少し落ち込む。
たぶん、問題はそこだ。
影山涼太は、“誰にでも優しい人”ではない。
その時、その相手だけをちゃんと見る。
だからこそ、近くにいる側は“自分だけを見てもらえた”ように感じてしまう。
自分もそうだった。
最初の紙袋の件からずっと、そうやって少しずつ距離を変えてきた。
だからこそ、みずきとの買い物に“知らない時間”を感じてしまう。
それが今の自分には少しだけ、強かった。
◆
昼休み、ことりは委員の仕事で先生に呼ばれた。
資料整理と、来週の校内掲示の買い出し確認。
いつもなら一人で済ませるところだが、その日は筆記具の補充やファイルの購入も必要だと言われる。
「放課後で間に合うかな……」
職員室を出ながら、小さく呟く。
文具店は駅前にある。
放課後に一人で行くのは、もちろん問題ない。
ないのだが。
そこで不意に、朝のみずきの言葉がよみがえる。
じゃあ、朝比奈も行けばいいじゃん。影山と。
「……」
立ち止まる。
そんなつもりではなかった。
でも今、自分は少しだけ、その言葉を真面目に考えてしまっていた。
委員の買い出し。
これなら理由としては自然だ。
変に私的ではない。
でも、完全に公的でもない。
つまり、頼み方次第では“二人で行く時間”になる。
ことりは自分の手の中のメモを見下ろした。
ファイル、ボールペン、色画用紙、クリップ。
別に一人で運べない量ではない。
でも、“一人でできるかどうか”と、“誰かに一緒に来てもらいたいかどうか”は別だ。
「……」
ほんの少しだけ、深呼吸する。
言えるだろうか。
影山くんへ、放課後、一緒に買い出しへ来てほしいと。
ただの手伝いとしてではなく、でもその時間が少しだけ特別に感じられるような頼み方で。
ことりは自分でも驚くくらい、緊張しているのを感じていた。
◆
放課後。
教室の空気が少しずつゆるみ始める中で、ことりはなかなか席を立てなかった。
みずきは部活へ向かった。
レナは先に出た。
つばさは図書室だろう。
残っているのは、影山くんと自分を含めて数人だけ。
今しかない。
「影山くん」
呼ぶと、影山が顔を上げる。
「ん?」
その反応が自然すぎて、余計に緊張する。
「少し、お願いがあるんですが」
「何」
ことりは一度だけ息を整えてから言った。
「委員の買い出しで、放課後に文具店へ行かなければならないんです」
「へえ」
「それで、その……」
言葉が少しだけ詰まる。
影山は急かさない。
ただ、待っている。
その待ち方がやさしくて、だからこそことりはちゃんと言いたくなった。
「もし、時間が合えば、少しだけ付き合ってもらえませんか」
言えた。
言ったあとで、自分の心臓がどくんと鳴る。
かなり遠回しだ。
でもことりには、これが精一杯だった。
これ以上露骨だと、自分の方がもたない。
影山は一瞬だけ目を瞬かせた。
「文具店?」
「はい」
「重いのか」
「そこまでではないです」
「じゃあ人手ってわけでもないのか」
「……はい」
そこまで言われると、意味がかなりはっきりしてしまう。
ことりは少しだけ視線を落とした。
「すみません。やっぱり変でしたよね」
「いや」
影山がすぐに言う。
「変ではない」
「でも」
「朝比奈が一人で行けるのは知ってる」
ことりの指先が少しだけ震える。
やっぱり、この人はちゃんと見ている。
「でも、それでも付き合ってほしいってことだろ」
ことりはゆっくり顔を上げた。
影山の表情は、困っているようでいて、でも逃げていない。
その言葉をちゃんと受け取ったうえで、返そうとしている顔だった。
「……はい」
小さく答える。
影山は少しだけ息をついてから言った。
「時間合わせる」
短い言葉。
でも、ことりには十分すぎるくらいだった。
「え」
「行く」
「いいんですか」
「誘ったのおまえだろ」
たしかにそうだ。
でも、まさかこんなにまっすぐ返してくれるとは思っていなかった。
ことりは何か言おうとして、少しだけ言葉を失った。
胸の奥が一気に熱くなる。
「……ありがとうございます」
やっとそれだけ言うと、影山は少しだけ視線を逸らした。
「礼は、買い物終わってからでいい」
「でも」
「まだ何もしてないし」
その言い方がまた、影山くんらしい。
ことりは小さくうなずいた。
「じゃあ、あとで昇降口で」
「分かった」
それだけの約束。
それだけなのに、ことりは自分の中で何かが少しだけ前に進んだ気がした。
◆
駅前の文具店までは、歩いて十分ほどだ。
夕方の光はやわらかく、道の端に伸びる影も長い。
ことりは委員のメモを手に持ち、影山と並んで歩いていた。
静かだった。
でも、気まずくはない。
「何買うんだ」
影山が聞く。
「ファイルと、ボールペンと、クリップと、色画用紙です」
「ちゃんと仕事だな」
「そうです。今日は本当に」
「いや、分かってる」
少し笑うような声だった。
ことりもつられて少しだけ笑う。
「でも、私、一人で行けたんですよ」
「うん」
「なのに誘いました」
「うん」
「それも分かってますよね」
ここまで言ってしまうと、かなり恥ずかしい。
でももう、途中で止められなかった。
影山は少しだけ歩幅を緩めてから答える。
「分かってる」
「……そうですか」
「だから来てる」
その返事で、ことりはまた少しだけ顔が熱くなる。
この人は、たぶん本当にずるい。
まっすぐ受け取って、でも余計に騒がない。
逃げ道を残してくれるようでいて、ちゃんと意味は受け取っている。
そういう返し方をされると、自分の方だけがうれしくなってしまって困る。
文具店で買い物自体はすぐに終わった。
必要な物をそろえて、会計を済ませるだけ。
けれど、帰り道が少しだけ長く感じる。
「……こういうの」
ことりがぽつりと言う。
「うん?」
「少しだけ、分かりました」
「何が」
「藤宮さんが、勢いで誘ってしまう気持ちです」
影山が一瞬だけ止まる。
「おい」
「でも私は、ああいう言い方はできません」
「それは知ってる」
「だから、今日ちゃんと頼めてよかったです」
ことりはそう言って、小さく笑った。
静かで、でもかなり本音に近い笑いだった。
影山は少しだけ目を細め、それから短く言う。
「それならよかった」
その返しも、ことりには十分だった。
自分はたぶん、前より少しだけ勇気を出せるようになっている。
影山くんがちゃんと受け止めてくれると、もう知ってしまったからだ。
「また、お願いしてもいいですか」
気づけば、そんな言葉まで出ていた。
影山が少しだけ困ったように笑う。
「委員の買い出しならな」
「それ、ずるいです」
「何で」
「分かって言ってますよね」
「いや」
「絶対少しは分かってます」
そのやり取りに、二人とも少しだけ笑った。
駅前の夕方は、行きよりも少しだけやわらかく見えた。
◆
家へ帰る電車の中で、ことりは手元の買い出し袋を見下ろした。
中身はただの文具だ。
ファイル、ボールペン、クリップ、色画用紙。
なんの特別さもない。
でも、その袋を持って歩いた帰り道は、自分の中でちゃんと特別な時間になっていた。
みずきに先を越されたような気がして、少し落ち着かなかった。
だから自分も動いた。
その結果、ちゃんと誘えて、ちゃんと来てもらえて、ちゃんと意味を受け取ってもらえた。
「……私も、ちゃんと誘えた」
小さく呟く。
その声は、自分でも少し驚くくらいうれしそうだった。
優等生は、遠回しに誘おうとして、結局いちばん真面目な言い方になる。
でもたぶん、それが今の自分にはいちばん合っている。
焦らなくていい。
派手じゃなくていい。
それでも、少しずつ前へ進めばいい。
そう思えた帰り道だった。




