第29話 16年前の真実
北半球の政府直属・特級遺伝子および抗体研究施設。
白銀に輝く広大な無菌室の奥深くで、特級遺伝子研究のチーフディレクターである霧島理沙が、興奮冷めやらぬ様子で巨大なモニターを叩いていた。
「タケル君! ついに分かったわ、あなたのあの『パッチワーク細胞』の謎が!」
呼び出された御手宮タケルは、理沙の尋常ではないテンションに少し後ずさりした。彼女のスタイリッシュな白衣の下のタイトな服が、荒い呼吸に合わせて上下している。
「謎って……この前の、俺の細胞が北の赤ん坊と南の大人で混ざってるってやつですか?」
「ええ! 私は過去五十年にわたる、南半球への男児輸送記録をすべて洗い直したの。そして、十六年前……あなたを乗せた輸送用無人ドローン船のデータに、恐るべき事実を見つけたわ」
理沙は知的なメガネをくいっと押し上げ、真剣な眼差しでタケルを見つめた。
「タケル君。あなたは十六年前、天候悪化による輸送の遅れで、本来の期限である『一歳の誕生日』をわずかに過ぎてから、ゼロ・シェルを通過していたのよ」
「え……?」
タケルは息を呑んだ。北に残った男児が一歳を過ぎると、壁の致死システムによって例外なく絶命する。それはこの世界の絶対的なルールだったはずだ。
「じゃあ、なんで俺は生きてるんですか……?」
「奇跡よ。いえ、南半球の医療機関の執念ね」
理沙はモニターに当時のカルテらしきデータを映し出した。
「壁を目前にして北で一歳を迎えてしまった瞬間、あなたの心肺は一度完全に停止した。でも、南の搬入ゲートで待ち受けていた医師たちが、即座に必死の蘇生措置を行ったの。過酷な環境を生き抜く南の男たちの意地と生命力が、壁のルールを打ち破ったのよ」
タケルは自分の分厚い胸板にそっと手を当てた。力強く脈打つ心臓。これが一度止まっていたなんて、想像もつかなかった。
「さらに興味深いのはここからよ」
理沙の瞳が、狂気的な探求心でギラリと光った。
「死の淵から蘇生する過程で、あなたの体内には壁の致死システムに対する『抗体』のようなものが作られたと推測できるわ。北の環境を記憶した細胞と、南の致死システムを乗り越えた細胞が融合し、不可視の壁を無効化する力を持った……」
理沙はジリジリとタケルに歩み寄り、その筋肉質な腕に両手を絡ませた。
「つまり、あなたの身体の隅々をもっと深く、細胞レベルで調べ尽くせば、新薬が作れるかもしれないってことよ! さあタケル君、今日は朝まで寝かさないわよ。服を脱いでベッドへ!」
「話の飛躍が怖いっての! 今日はもう帰ります!」
タケルは迫り来る天才美人女医の暴走を間一髪で振り切り、研究室から全速力で逃げ出した。
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高度に自動化された、静かで清潔な北半球のマンションの一室。
タケルが自宅のリビングに戻ると、母の玲子と妹の芽衣が夕食のバイオ培養食の準備をしていた。
「おかえりなさい、タケル。理沙さんのところで何か分かったの?」
玲子が穏やかな目元を和ませて尋ねてくる。タケルは少し躊躇いながらも、研究所で聞かされた十六年前の真実――自分が一歳を過ぎてから壁を越え、一度死にかけていたことを静かに打ち明けた。
話を聞き終えた瞬間、玲子の手から小さな皿が滑り落ち、カチンと鈍い音を立てた。
「そんな……」
玲子は両手で口元を覆い、大きな瞳から大粒の涙をボロボロとこぼし始めた。
「お母さん……?」
芽衣が驚いて駆け寄るが、玲子は膝から崩れ落ち、嗚咽を漏らした。
「ごめんなさい……全部、私のせいだったのね。タケルを南へ送り出さなきゃいけないって分かっていたのに……ギリギリまで、一日でも長く一緒にいたくて、手放せなかった……っ」
男児を出産し、一歳までに南へ手放すという「確実な別れ」。玲子はその引き裂かれるような痛みに耐えきれず、結果として我が子を死の危険に晒してしまったのだと、激しい後悔に苛まれていた。
「私が、もっと早く送っていれば……そんな恐ろしい目に遭わせずに済んだのに……っ」
泣き崩れる玲子の華奢な背中を見て、タケルはゆっくりとしゃがみ込んだ。そして、南半球の過酷な環境で鍛え上げられた、分厚く温かい両手で、母の震える肩をしっかりと包み込んだ。
「タケル……?」
「泣かないでよ、母さん。俺は今、こうして生きてるだろ」
タケルは玲子の涙を指ですくい取り、真っ直ぐな瞳で微笑みかけた。
「母さんがギリギリまで俺を愛してくれたから、輸送が遅れた。でも、そのおかげで俺は壁をすり抜ける力を手に入れて、北半球へ来ることができたんだ」
タケルは玲子と芽衣を交互に見つめ、力強く言い切った。
「逆に、母さんのおかげなんだよ。あの遅れがなかったら、俺たちは一生、画面越しでしか会えないままだった。俺たちはまた、こうして直接会って、触れ合えている。ありがとう、母さん。感謝しているよ」
タケルの放つ、生身の男としての圧倒的な包容力と優しさ。
その言葉を聞いた瞬間、玲子の中で、十六年分の後悔が溶け出し、同時に息子に対する底なしの「母性」が限界を突破して爆発した。
「ああっ……タケルーーーッ!!」
玲子はタケルの広い胸にダイブするように抱きつき、彼の匂いと温もりを全身で吸収し始めた。
「なんて、なんていい子に育ったの! もう絶対に離さないわ! 今日は一緒のベッドで寝ましょう! お母さんが昔みたいに添い寝してあげるから!」
「えっ!? いや、母さん、流石に十七歳の息子と添い寝は……!」
タケルが顔を真っ赤にして慌てるが、玲子の力は尋常ではない。そこへ、二人のやり取りを見ていた芽衣が、顔を真っ赤にして猛烈に割り込んできた。
「ちょっと! ズルい! お母さんだけ抜け駆け禁止! 私もお兄ちゃんと一緒に寝るもんっ!」
「芽衣!? お前まで何言ってんだ!」
「いいじゃない! 家族なんだから!」
感動の涙から一転、北半球のマンションのリビングは、タケルを巡る激しいスキンシップの嵐に包まれた。




