1 用務員、魔王になる。
木から下りられなくなっている子猫がいる――。
学生たちからそんな報せを浮けた用務員の透は、その現場へと急行した。
場所は校庭にある桜の木。
見上げれば、天辺近くの枝の上で、白い子猫がぷるぷると震えているのが見える。
これは急いで助けてやらねば。そう考えた透は、すぐさま木を登り始めた。
「ね、猫ちゃ~ん、待っててくださいね~……!」
言葉通りの猫撫で声で呼びかける透。
考えてみれば、木登りなんて中学生の頃以来である。
落っこちたらどうしよう。
そんな不安が頭を過ったが、今更な心配である。
透はご自慢の顔に必死の形相を張り付けて、ずれた眼鏡もそのままに、どうにかこうにか木を登る。
「長谷さーん! 気を付けてー!」
「落ちないでねー!」
下からは学生たちの声援が聞こえてくる。
「はーい! ありがとね!」
彼らの声に励まされ、元気と勇気をもらった透が、少しずつ子猫に近付いて行く。
あと少しで手が届きそうだ。
(もう、ちょっと……!)
足に力を込めて、ぐっと上へと体を押し上げる。
手を伸ばす。
すると指先が子猫のふわふわした体に触れた。そのまま手を伸ばし続け、そっと子猫の体を掴んでみる。
子猫は暴れたりせずに、大人しく透の手の中に収まった。
やった、と学生たちの声が聞こえる。
「よしっ」
透が安堵の表情を浮かべたその時、強い風が吹いた。
体がぐらりと傾き、木の幹から離れる。
落下する。
まずい、と透の表情が固まる。
(落ちるっ!)
せめて子猫だけはと胸に抱き、ぐっと目を瞑った次の瞬間。
――透の体が、眩い光に包まれた。
◇ ◇ ◇
「これより、新たな魔王の就任の儀を始める」
大勢の者たちが集う白く荘厳な広間に、女性とも男性ともとれる子供の声が響く。
声の主は、頭の天辺から足の先まで真っ白なローブの人物――ノアだ。
「……準備は良いな、ルイ」
ノアは目の前に跪く、竜の尻尾を生やした黒髪の少女に問う。
「はい」
彼女からはすぐに、はっきりとした返事があった。
力強いその声に、儀式を見守る者たちの表情が緩む。
ノアもまたそうだった。口元で笑みを作ると、ノアは手に持った杖の先端をルイに向けた。しゃらりと魔石の飾りが揺れ、光を放ち始める。
「緑の領地を守る我らが神ヴェルデの名の許に、新たに魔王とならん者を――」
ノアがそう言い始めた時だ。
ちょうどルイの真上――広間の天井付近に突然、強い光と空間の歪みが生じた。
「うわ~~~~っ!」
「みぃ~~~~っ!」
同時に、そんな情けない声の二重奏が響かせ、空間の歪みから何者かがポイッと吐き出された。
用務員の長谷透と、彼が助けた子猫である。
歪みから吐き出された二人の体は、重力に従って真っ直ぐに落下した。
「えっ、ちょっ⁉」
真下にいたルイはぎょっと目を剥いて、後ろに飛んで躱した。
素晴らしい反射神経である。
しかしタイミングがあまりにも悪かった。
「――ここに願う」
魔王就任の儀式、その最後の言葉をノアが告げる。
その瞬間、透の頭上に半透明な男が姿を見せた。
この領地を守護するヴェルデ神だ。
『何やらおかしな状況ではあるが――まぁいいか。認めよう』
ヴェルデ神はそう言うと、透に向かってキラキラした光の雨を降らせる。
光は、透の体に吸い込まれていく。
ややあって、透の体がカッと光を放ったと思ったら、
『これでお前が今代の魔王だ。この地のために、私のために、しかと励むが良い』
ヴェルデ神は満足げに笑って消えた。
「…………え?」
その場に残されたのは、困惑の表情を浮かべる者ばかり。
ほぼ全員の心境が奇跡的に「どうしてこうなった」で一致していた。
かくして儀式は完成し――顔が良いのが取り柄の用務員・長谷透は、魔王に就任してしまったのだった。




