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1 Night and City 〜夜の底で〜

 どこからか拾ってきたような戸板を立てて、ありあわせの布やビニールシートで囲っただけに見える屋台。

 ここは、新宿の裏のほうだろうか。

 まだ、空は明るみはじめていない。

 ヨウジは、カウンターにうつぶせて眠り込んでいたらしい。


「お兄さん、大丈夫?」


 誰かに話しかけられて、目が覚めた。

 顔を上げてみると声をかけたのは屋台の主人で、ほかに人はいなくなっていた。

 最初はおばあさんだと思っていた。

 いま見ると、昔おかまでもやっていたのだろう、そういう男の人だった。

 もう身の回りをかまう余裕がないという感じで、古びたシャツやセーターを何枚も着こんでいる。


「……ごめんごめん、あんたが仕舞えないね、いま帰るから」

「あたしはいいのよ、朝までここにいるしかないんだもの……もうお酒はいいから、お茶でも飲む?」


 何年前からそこにあるのかわからないストーブの上で、ヤカンがちりちりと鳴っている。


「いや、お茶はいいよ、もうすぐ始発が出るから、歩いていく」


 そう言ってヨウジは立ち上がり、店を出ようとした。

 足元がふらついて転びかけた。

 安普請(やすぶしん)の店を壊してはいけないと、一瞬、壁に手をつくのを遠慮した。

 からだが腰から地面に落ちた。


「ぜんぜん大丈夫じゃないじゃないの! いいから休んでいきなよ」


 新宿は怖い街だというイメージがあり、それは間違いではないが、親切な人間もいる。


「平気、平気」


 ヨウジはコートから何枚か千円札を出してカウンターの上に置き、歩き始めた。




(ほんのちょっとだけ飲んで、帰ろうと思ったんだよな。

 店のボトルが、バレンタインのファイネストだったから……一本は飲まなかったか)


 午前二時をまわってから、二軒目に行ったところまでは覚えている。


(それから……バーボンにいったんだな、あれが悪かった)


 建物の壁をつたうようにして、少しずつ歩いていく。

 腹の中のものを出せば楽になるのがわかった。

 かろうじて、道端でそんなことはしたくないと思った。

 排水溝を見つけ、いくらかましかと思い、そこで吐いた。

 胃液の味がして苦しかった。

 しかし、それでかなり意識がはっきりした。

(酒を飲んで吐いちゃうなんて、何年ぶりだろう……)


 JRの改札を通って、洗面所に入る。

 うがいをして、顔を洗った。

 鏡を見ると、意外にすっきりした顔をしている。


(痛みや……苦しみで、顔が洗われている……か)


 どこかで、そんな言い回しが頭に入ったらしい。

 ヘンなブンガクみたいだなとヨウジは思った。

 そんないいもんじゃねえよと呟いた。

 それから背筋を伸ばし、できるだけ真っ直ぐに、ゆっくりと階段を上り始めた。


(おれは、やけ酒を飲んでいるわけじゃない)


 ただ、何かを使い果たしたいんだろう、そう考えた。

 これから仕事に行く。少なくとも月末まで休みはない。




 ヨウジは、むかしやったことのあるシューフィッターの仕事をしている。

 百貨店などに入っている靴屋に出向で行って、靴の見立てをするのだ。

 自分がマスターをやっていた酒場を閉めて、しばらくぶらついていた。

 店の権利を持っていた人間が、仕事のつてを紹介してくれた。


 年末といっても、そう売上げは伸びていない。

 元気なのは、流行のブーツを買いに来る女の子たちだけだ。

 すり減った靴を買い替えに来る勤め人たちは、財布の中身がたよりない。

 幸いにもというか、まあまあの数の接客ができて、午前中は立ち通しだった。

 半分がた、酔いは抜けてきたような気がする。


「三十分だけ、出てきます」

 社員の人にことわって、遅い昼休みに入った。

 一時間でもいいのだが、自分の売上げが減るだけだ。

 つなぎ程度の仕事でもいい加減にはできない、その性格だけは変わらない。

 ほかに何が変わったといって、違う仕事をしているのと、以前より酒を飲むようになったこと、それからもうひとつある。


 まだ食事をする気力はなく、お茶でも飲んで休んでいようと思った。

 この街に来てから二週間が経ち、それほど混んでいないカフェを見つけていた。

 お茶だけで長居をしても怒られないところだ。

 そういう場所をいくつか確保したころに仕事の期間は終わり、また次の土地に行くことが多い。


 ヨウジはミルクティーを頼み、運ばれてきたそれにはあまり手をつけず、一本だけ煙草を喫った。

 それから、背筋を伸ばして腕を組んだ。

 肩の力を抜き、軽く椅子の背にもたれ、目を閉じる。

 眠ってしまうことはないが、これだけでもいくらか疲れがとれる。

 最近、丸まってうずくまるよりこのほうがいいことに気づいた。


 寝不足にはちがいない。

 頭のうしろがぼうっと暖かくなってくる。

 厨房から聞こえてくる物音やウェイトレスの声が混ざり合って、少し遠くなる。

 なにも考えていないのだが、そのざわめきはやはり『GG』を思い出させる。

 ヨウジがマスターを務め、ジロウが料理を作り、コウがシェーカーを振っていた店。


(最近、いくらなんでも飲み過ぎだな)

(どうせなら、ジロウの店に顔を出すか……)


『GG』はなくなったわけではなく、ジロウが権利を継いだのだ。

 名前を消したくないので使わせてほしいと言われて、ヨウジはこう答えた。


(おれがつけたわけじゃないし、何の権利もないんだから、関係ないよ。

 でも、店にとって屋号ってのは大切なもんだし、ジロウとサキちゃんの城なんだから、新しくつけたほうがいいよ)


 そこでジロウは、ドラゴン・レディーという名前を考えてきた。


(なんだそれ、サキちゃんのことか? キャバクラみたいだな、ひっくり返したほうがよくないか、レディー・ドラゴン)


 少しは、ヨウジに名付け親の権利があることになるだろうか。

 それが、ヨウジが『GG』と呼ばれていた店に関わった、いまのところ最後の記憶だ。




「駄目になるなら、一緒にそうなっていけばいいじゃないか」


 隣の席に座った男女の会話が聞こえてくる。

 ヨウジが眠っていると思っているのかもしれない。

 それ以前に、どうでもいいのだろうけれど。


「好きで一緒にいるって、そういうことじゃないのか」


(……おいおい、昼間から人前でする話かよ)


「なんとか言ってくれよ」


 喋っているのは男性だけだ。ヨウジは、頭の中で女性の代わりに返事をした。


(あんたのそういうところが、苦手なんだけど……)


 その女性は、低く抑揚のない声で、小さく答えた。


「そういうことじゃないんだよね、とにかくあたしはもういいから」


(こりゃいかんわ、終わってる……)


 女性の側がここまで冷めてしまっているのなら、もう何を言っても無理だとヨウジは思った。他人のことだとよくわかる。


「……それでいいのか、お前はその程度なのか」


「あなたがそんなふうに言うって自体、もう仕方ないってことじゃない」


 彼女は、とにかくこの場から逃げ出したいようだ。


「あっ、あたし電話に出るから」


 携帯を出し、話し始めるふりをしながら、店を出ていった。

 これきり戻らないんだろうなとヨウジは思う。

 男もおそらく半分はそう思っているのだろうけれど、店を出るきっかけがないのか、そのまま待つ姿勢になっている。

 ヨウジは、組んでいた腕を解いた。

 別に演技をする必要はないのだが、いま目が覚めたというような感じで首をまわし、伸びをしてから店を出た。




(疲れるな)

(おれと……ユカリは、あそこまでかっこ悪くはなかった)

(でもまあ、他人から見れば同じようなもんだろうか……)


 そう考えても胸の中が痛まないのを、確認したような気がヨウジはした。


(さあ、仕事だ)


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