夫の記録
妻は、最近よく町を歩く。
誰かを探しているように見える、と彼は思う。
朝、彼女は台所に立ちながら、何度も同じ方向を見る。窓の外。海のほう。崖のほう。そこに何かがあるように。
彼は声をかけない。
かけても意味がないと知っているからだ。
「また誰かが消えたの」
ある夜、彼女は言った。
彼は頷かなかった。否定もしなかった。
この町で最近、失踪届は出ていない。彼はそれを知っている。役場の掲示板も、回覧板も、目を通している。
だが彼女の言葉を遮ると、彼女は深く黙る。
その沈黙は、以前にも見たことがある。
兄の話をするときの顔だ。
彼は兄を知らない。結婚する前の事故だ。ただ写真は見た。古いアルバムの中で、少年はいつも少し離れて立っている。
「あなたは悪くない」
義母が言ったという言葉を、彼は何度も聞かされた。
そのたびに、彼は返事を探す。
だが正しい返答は見つからない。
彼女はときどき、夜中に手を洗う。
何かを落としたあとみたいに、強く、長く。
石鹸の匂いが消えても、まだ洗っている。
彼は水を止める。
彼女は驚いた顔をする。
「どうしたの?」
彼は笑う。
何もない、と言う。
何もないはずだ。
彼はそう思う。
この町では、誰も消えていない。
少なくとも、記録の上では。
だが彼女の手のひらには、何かが残っているらしい。
彼は、それを見たことがない。
見ないほうがいいのかもしれない、とも思う。
町は静かだ。
静かすぎる。
彼は、ときどき考える。
あの事故の日、誰が最初に崖の下へ降りたのか。
彼女ではない。
それは確かだ。
だが、それを誰が確かめたのかは――
彼は知らない。




