第七章 疾風迅雷(一)
○前章までの流れ
帝位を退き、太上帝となって平城京に住む安殿と、平安京にあって帝として朝廷を統べる神野。安殿は政治への口出しをやめず、神野は帝として対応を迫られる。自らの直轄機関として「蔵人所」を設置して腹心である冬嗣をその長に起用し、安殿の寵姫薬子を長とする内侍所をおさえようとする。次第に意のままにならなくなっていく朝廷に安殿は腹を立て、ついに平城京への遷都を宣言する。「二所朝廷」の対立はもはや取り返しのつかない局面を迎えるが、安殿はなおも「朝廷がいう事を聞かないのは台閣の連中が自分をないがしろにしているからであって、弟である神野は自分の言うことなら何でも聞くはずだ」と信じていた。
平城京からの使者を迎えて、朝廷に驚愕が走った。
「遷都だと―――何を馬鹿な!」
使者の口上を聞くや、蔵人頭野足は顔を真っ赤にして傍らの冬嗣に囁いた。冬嗣も顔色を変えて、神野がいる高御座の方を見やる。九月に入って、彼はようやく体調を回復していた。だがさすがに今、端目にもその表情が堅いのが判る。
太上帝の正式な詔である。謁見は正殿で行われ、使者は居並ぶ重臣たちを前に、ゆっくりと文面を読み上げている。半年前に新設されたばかりの「蔵人所」なる得体の知れぬ機関の長には、正式な座などまだない。冬嗣も野足も、玉座の斜め後方、目立たぬ場所に、こっそりと同席している。
次いで、冬嗣は参議に序列されている仲成に視線を走らせた。
険しい表情だ。無論、取り繕っている可能性もないわけではないが―――
「遠路はるばる、大儀であった」
ざわめく室内に、神野の声が響いた。
しん、と空間が静まりかえる。
「緒嗣」
「は」
「使者どのを丁重にもてなすように」
「―――は」
堅い表情のまま緒嗣は立ち上がり、使者を促して正殿を出ていった。
息づまるような沈黙が正殿に充ちる。
突然、神野は立ち上がった。高御座から、ぐるりと一同を見渡す。
「聞いての通り、これは太上帝命令である」
はっきりと神野は言った。その細身の、しかも病み上がりの身体のどこから出るのかと思われるような、凛とした声である。
「我々は直ちに検討に入らねばならない。謁見の儀はこれにて終了とする。―――大儀」
終了が宣言されるや、仲成が早足に正殿を退出するのが冬嗣の眼に入った。おそらく、平城京に使者を送るつもりなのだ。
☆
「右大臣(内麿)と、坂上将軍を呼べ」
高御座から降り、神野は冬嗣に囁いた。尖った声だ。唇が微かに震えている。
「はい。直ちに」
冬嗣が一礼すると、神野は野足にも何事か耳打ちした。それが何だったのかを冬嗣は聞きそびれたが、そのまま踵を返し、父の下へ向かったのである。




