第五章 登極(五)
神野はぱさりと資料の束を文机の上に置いた。昼緒嗣たちと話をした執務室から、妻戸を隔てた私室に移っている。
日は暮れかかっていた。神野は先ほど軽く夕食を済ませたばかりである。
「冬嗣、そこにいるか」
「はい」
隣の一室からすぐに返事があり、本人が姿を現す。神野の前に少し離れて腰を降ろした。
「―――まずいな、あれでは……」
独り言のようにいい、神野は視線を投げる。冬嗣も頷いた。
「内侍所のことですね」
昼間、神野は園人との話を早めに切り上げ、冬嗣を連れて安殿の下に行った。神野本人が顔を出すと、安殿は幾分機嫌を直したが、やはり不服そうに言う。
「いくら何でも、おれに何の断りもなくおれの作ったものに手を出すのは失礼だろう。そう思わんか」
要するに局外に置かれたことが気に入らないのだ。
理不尽ともいえる介入だが、神野は逆らわなかった。一礼し、丁寧に謝罪する。
「申し訳ございません。―――ただ、観察使を廃止しようというのではないのです。わたしも先刻進言を受けたばかりですので、まだひとつの案というところで……」
内容を詳しく説明すると、安殿はやっと機嫌を直し、そうか、と言った。
「別に改良したいならしていいんだ。主上はお前なんだからな。ただ、一言言ってくれるのが礼儀というもんだと言ってるだけだ」
「―――はい」
というような具合で、一旦は収まったのであるが……
安殿に情報が伝わったのは言うまでもなく薬子を通して、である。彼女はいま内侍所のある別殿(温明殿)に戻っている。
天皇である神野の傍近くに、薬子が控えているのはまずい。冬嗣もそれについては同じ意見だった。だが彼女を遠ざけたりすれば、安殿の機嫌を損ねることは明らかだ。
安殿の機嫌を損ねては、非常に厄介である。もともと気の変わりやすい安殿は、譲位して位を退いた瞬間には、
「ああ、これでおれものんびり出来るよ」
などと呟いても、数日のんびりすればもうそれに飽きてしまう。苛々するとそれがすぐ身体の不調になり、それが更に苛々を増幅するのである。
そんな兄安殿と神野が衝突らしい衝突も起こさずにきたのは、ひとえに神野が徹底して己れを厳しく抑えてきたからに他ならない。物心ついた頃から、ほとんど神野は安殿に逆らうことなく生きてきた。安殿の方が完全に上の地位にあり、神野は少なくとも公式にはほとんど何の力も持たぬ状態だった今までは、それでもどうにかうまくいった。
だが今は、朝廷の頂点は神野なのである。もし安殿が、うるさく政治に介入してくるようになれば―――下手をすると朝廷が二つに割れてしまう。
いや、既に割れているのか―――
台閣を見ても、仲成、葛野麿、真夏―――真夏は少し異質かもしれないが―――はいわば「安殿派」である。そもそも重臣たちの目には、安殿よりも十二歳も年若で、息子ほどの年齢の新帝がどのように映っているのだろうか……
黙り込んでしまった神野に、冬嗣は柔らかな口調で言った。
「それについては、少しずつ考えてゆかれればよいと思いますよ。位に即かれて、まだ数日ではありませんか」
神野は苦笑する。
「―――そうだな、何も案がないなら、こんなのは単なる愚痴だ」
「たまには愚痴もよろしいでしょう。―――何か飲み物などお持ちしましょうか」
「いや」
神野はしばらく沈黙してから、冬嗣を見上げた。
「真夏は、君から見てどういうものなのかな」
思いもよらぬ問いに、冬嗣は困ったような笑みを浮かべる。
「さて……」
軽く顎を上げた。
「わたしは兄真夏とはひとつ違いですから、あまり参考にはならないと思いますけれども……」
「君は喧嘩したりはしないだろう」
断言めいた物言いに、冬嗣は笑う。元のように神野に向かいあって腰を降ろした。
「それは誤解というものでございます」
「そうなのか?」
問い返しながら、少し足を崩す。
「幼い頃には、やれそっちの方の菓子が少し大きいだの、自分の文巻を断りもなく勝手に読んだだの、よくつまらぬことで掴みあいの喧嘩をしたものでしたよ」
神野は首を傾げた。
「どうも……想像できないな」
「まだ、元服前のことですから」
「ふうん……」
不思議そうに神野が呟くと、冬嗣は少しきまり悪そうな表情になる。
「十二歳も年が離れておられたら、それも難しいのでございましょうね」
たとえば神野が五歳なら安殿は十七歳であるし、十二歳の時は二十四歳である。もともと、掴みあいの喧嘩をするような機会はなかったことになる。―――とは言え、安殿からすれば十四歳年下の妹高志がかなりぽんぽんと口喧嘩をしているのだから、それはやはり結局は性格の問題なのかもしれないが。
「……時機を、逃したな」
小さく笑って、神野は呟いた。
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