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第三章 行春散華(五)

 しばし酒を酌み交わし、料理を口に運びながら二人は途切れることなく話し続けていたが、ふと仲成が口をつぐんだ。薬子はわずかに小首を傾げる。

「兄上?」

「入内の件、見事だったな」

 仲成は声の調子を落としながら、それでも笑みを浮かべて妹に囁いた。薬子は艶然と微笑する。

「兄上の計画なさったことですもの」

 そう言ったのは、薬子の長女、祐子を東宮御所に挙げる計画についてのことだった。二十日ほど前、薬子が縄主に持ちかけたのである。祐子は現在十六歳。どちらかというと薬子よりも縄主の気性を継いだらしく、素直で大人しい娘で、容姿もそこそこといったところである。

 東宮安殿が、母乙牟漏、正妃帯子など、式家とつながりが強いことは前にも述べた。乙牟漏が亡くなってからは、妻帯子にその面影を探そうとしたが、彼女もまた呆気なく亡くなり、彼の周囲には現在式家の女性はいない。縄主も、薬子の父種継も、乙牟漏とは従兄の関係にある。その辺りをそれとなく安殿に伝えてみてはと、彼女は夫に助言をした。それが、どうやら功を奏したとみえた。

「東宮もとても乗り気になられて、準備が整い次第、すぐに傍によこすように、と仰ったそうですわ」

「よし」

 満足げに、仲成は頷く。その眸の底が、ちらりと光った。

「あとはそなたの美しさが頼りだな」

「まあ―――」

 薬子は袖で口元を隠し、目を細めた。

「わたくしも、もう五児の母ですもの」

「なあに、そんなことは問題にもならん」

 仲成は酒を胃に流し込む。

「かえって、そこがよいかもしれぬ。東宮は、どちらかというと子供っぽいお人柄だそうではないか。むしろ、十以上も年若の神野親王の方が落ち着いておられるとか」

「ええ。縄主もそのように申しておりましたわ。癇癪を起こすと手がつけられぬ、とか」

 祐子を東宮御所に入れる。それが計画の第一歩である。しかし、仲成は更に第二歩目を画策している。

 それは、薬子を東宮に近づけることである。

 人妻であり、三男二女をもうけ、しかもまだその子らは元服前という状態の彼女を、出仕させるのは難しい。それなら、むしろ娘の付き添いという形で、東宮に引き合わせてしまうほうが手っ取り早い。もし、そこまで首尾よくことが運ばなかったとしても、娘を入れることは決してマイナスにはならぬ。

 東宮は、一度欲しがるとそれが誰のものであろうと、手に入れなければおさまらない気性の持ち主だという。女性に関してははっきりと式家びいきの東宮が、この薬子の美しさに心を動かされないはずはない。

 仲成の計画を、薬子はあっさりと受諾した。十六歳のとき、二十四歳の縄主に嫁いだ彼女は、夫を評して、

「退屈な男ですわ」

と仲成にこぼした。

 もちろん家では子供を産み育て、ソツなくよき妻・よき母を装っている。おそらく縄主は、妻の自分への愛情を毫も疑ってはいまい。しかし、実直さが取り柄といってもよいような夫に、薬子は少しも愛情を感じていなかった。今でも、薬子が愛する男性は、ただひとり、同母兄仲成だけだった。異母兄妹なら結婚も可能だ。しかし、同母兄妹ではそうもいかない。

 兄を想いながら他の男の下へ嫁ぎ、今、あわよくば東宮を篭絡せんとしている―――

 薬子はそれでも平気だった。それが、兄仲成のためになるのならば。七十歳で今や死の床についている桓武帝と契れと言われても従っただろうと、彼女は思う。

『兄上、わたくしがおりますわ。わたくしが―――』

 父種継が亡くなったとき、仲成はまだ弱冠二十一歳だった。いよいよこれから出仕を果たして―――と、野心を燃やしていた仲成を襲った、突然の不幸。父の死もさることながら、種継が桓武の側近として重きをなしていた頃にはちやほやとしていた人々の、手の平を返したような変節ぶりに、どれほど悔しい思いをしたことか。

 しかも母方に目をやってみても、勢力がないどころか、二人の母親は乱に連座して幽閉死した道麿という男の娘で、とても後ろ盾となるような力はなかった。そんな中で、二人きりの同母兄妹として、二人は寄り添いあいながら生きてきたのである。

 そしていつしか、薬子は兄を愛した。仲成もまた、美しく一途なこの妹を愛おしみ―――

 愛おしみつつ、利用した。

『構いませんわ、わたくしは。兄上のためでしたら、どんなことでも』

 美しい眸で真っ直ぐに自分を見つめる、一途な妹を。

 仲成は、もうじき四十歳。それだけに、彼は焦りを覚えていた。

 その激しい羨望は、同じ式家の、藤原緒嗣に向けられている。

 行動力があり、機知に富んでいた父種継が、桓武の厚い信頼を受けて参議に昇ったのは、四十五歳のときだった。しかし、彼はどちらかというと策略家という型ではなかった。桓武への仕え方も非常に正攻法で、彼の役に立つために奔走していた。

 それに対して、同じ式家でも、百川の流れはそれとは少し異なっている。百川は他戸親王、井上皇后を策略によって陥れ、桓武を帝位につけた立役者であり、また長女旅子を桓武に嫁がせ、その死後には次女帯子が安殿に嫁いでいる。

 うまくやったものだ、と仲成は面白くない思いがある。

 帯子が嫁いですぐ、旅子は死亡した。三十歳の若さだった。桓武が緒嗣を元服させて従六位下に叙し、内舎人に任命したのはその後すぐ、緒嗣がまだ十七歳のときである。十七歳という年齢は、世に出るには非常に早い。仲成の目には、父の功と、姉の早世をうまく糸口にして桓武に取り入った、と見える。しかも妹(帯子)は安殿に嫁いでいた。彼女の早世は計算違いというところだろうが、緒嗣はその後桓武の信任を得て極めて順調に出世の階段を駆け上り、昨年三十一歳にして参議の地位に達している。その出世速度の方が通例と比して異例なのだが、仲成はそれを横目で見ていて、激しい焦燥感がある。

 桓武の傍近くに当然のように控える緒嗣の姿を目にするたび、

『何としてもあの男を―――』

と、身の内にじりじりした炎が燻るのである。

「まあ、とにかく」

 空になった杯に、今度は手酌で酒を注ぎながら、仲成はにやりと笑った。

「次の話を楽しみにしているよ、薬子」


     ☆


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