後編
陽翔は相変わらず美咲の側を離れようとしなかった。
大輝が風呂に入れようとすると、「ママと入る!」と走って逃げる。
買物の途中、知り合いと立ち話をしていると、服の裾を引っ張り早く帰ろうと急かす。
美咲がトイレから出ると、必ずドアのすぐそばで待っている。
友人との電話を終えると、「誰とお話してたの?」と必ず聞いてくる。
両手を広げ、満面の笑みで美咲に抱きついてくる陽翔。
愛おしいはずのその重み。
(違う……陽翔は、陽翔だわ)
だが、美咲の脳裏に芽生え始めた違和感は、少しずつ大きくなっていった。
ある週末の午後。
「陽翔、パパと公園に行こうか」
大輝に誘われた陽翔は、大きく首を振った。
「イヤ! ママと行く!」
いつものように父親を拒否する陽翔に、美咲はイラっとした。
「たまにはパパと行ってきなさい!」
思わず怒鳴り声を上げてしまった。
陽翔はびっくりした顔をしたかと思うと、顔をくしゃくしゃにして泣き始めた。
「どうしたんだよ、急に」
大輝が陽翔を抱いて宥めようとしたが、陽翔はその手を振り払い、美咲に駆け寄ってきた。
抱きつこうとした陽翔を、反射的に美咲は避けた。
勢い余った陽翔が床に転がる。
「うわぁぁぁぁん」
「なにやってんだよ!」
大輝が慌てて陽翔を抱き上げた。
「頭を打ったんじゃないか? 病院、行くぞ!」
ハッとした美咲は、財布とスマホを鞄に入れると大輝の後を追った。
陽翔は幸いにも、たんこぶが一つできただけだった。
泣き疲れたのか、美咲の首に腕を回し、ぐったりと眠っている。
首筋に寝息がかかる。
美咲はゾクっと身震いした。
そんな美咲の態度に、大輝が大きなため息をついた。
「なぁ、どうしたんだよ。最近おかしいぞ」
「そんなことないわ」
美咲は力なく小さな声で答えた。
会計係に呼ばれ、支払いを済ませる。
その間も、陽翔は美咲に張り付いたまま、離れようとしなかった。
「お母さん子なのね。可愛い息子さんじゃないですか。お大事にどうぞ」
三歳になった陽翔は幼稚園に通い始めた。
保育園の時とは違い、大泣きすることはなかった。
美咲がずっと家にいるとわかっているせいかもしれない。
ほんの数時間とはいえ、陽翔と離れられることに、美咲は心底ホッとしていた。
だが、陽翔は幼稚園から帰ると、美咲を質問攻めにした。
「ボクが幼稚園にいってる間、ママは何してたの?」
「誰かと会った?」
「ボクのこと考えてた?」
普通の三歳児もこんなことを言うのだろうか。
美咲の違和感は深まるばかりだった。
ある日、陽翔は幼稚園で作った工作を持ち帰ってきた。
金色の折り紙で作った王冠だった。
「ママにあげる!」
陽翔は小さな腕を伸ばし、美咲の頭にそれを乗せた。
「ママ、お姫さまみたい! ボクのお姫さま!」
こころなしか、左の口角が上がっているように見えた。
嫌な汗が、背中を伝い落ちていく。
美咲は頭上に乗せられた紙の王冠を掴み、まるめてゴミ箱に捨てた。
「うわぁぁぁん」
泣き出した陽翔を無視し、キッチンに向かった。
帰宅した大輝は驚いた。
陽翔がリビングの隅にうずくまり、しくしくと泣いている。
美咲は少し離れた食卓で、ぼんやりと座っていた。
「陽翔、どうしたんだ?」
優しく話しかけながら抱き起こそうとしたが、膝を抱え体を丸めたまま動こうとしない。
大輝は憤慨した顔を美咲に向けた。
「一体、どうしたんだよ!」
美咲は緩慢な動作でゴミ箱を指差した。
大輝がゴミ箱を覗くと、金色の紙が出てきた。
パッと顔を上げた陽翔が走り寄り、それを奪い取った。
「さわっちゃダメ! これはママのおうかん!」
「おうかん?」
「ママはボクのお姫さまなの! ボクとけっこんするの! パパなんかどっかいっちゃえ!」
陽翔は美咲に走り寄り、膝によじ登ろうとした。
美咲はとっさに立ち上がった。
陽翔は尻もちをついた。
「やめて……私はお姫様なんかじゃないわ!」
「美咲!」
大輝が美咲の肩を掴んだ。
「何を言ってるんだ!」
「あなたになんか、わからないわっ!」
美咲は両手で顔を覆い、絶叫した。
「あっちへ行って!」
大輝は後ずさりした。
「最近、おかしいぞ」
「そんなこと、ない」
「陽翔を避けようとしてるだろ」
「普通じゃ……ないのよ」
「何がだよ」
答えられなかった。
陽翔があの男に似ているなど、言ったところで、大輝が信じるはずはない。
自分自身ですら、陽翔にあの男を重ねているだけなのではないかと疑っているのだから。
大輝はため息をつきながら首を振った。
陽翔は、二人の会話を黙って見つめていた。
美咲は、最低限の世話しかしなくなった。
陽翔が抱きつこうとすると、顔を背けた。
陽翔は泣きもせず、そんな美咲を見つめていた。
家の中も荒れていった。
「しばらく陽翔を連れて実家に行ってくるよ」
「ダメ!」
美咲は思わず叫んでいた。
大輝が眉をひそめた。
「……何がダメなんだよ」
「それは……」
「お前、陽翔に触れるのも、触られるのも嫌がってるじゃないか。
離れて冷静になった方がいいだろう?」
「ダメなのよ!」
「だから、なんでだよ!」
陽翔は大輝に懐いていない。
むしろ嫌がっている。
二人だけにしたら……一体どうなってしまうのか。
言いようのない不安が込み上げてくる。
「言ってくれなきゃ、わからないよ!」
声を荒らげる大輝の前に、陽翔が立ちふさがった。
「ママを泣かすな! パパなんかいらない!」
大輝は息をのんだ。
「そんなに……パパが嫌なのか?」
「ママだけいればいいもん!」
まっすぐ見つめてくる陽翔から、大輝は目をそらした。
「……俺の方が、少し離れた方がいいのかもしれないな」
大輝は疲れたように呟いた。
「今日は俺だけ実家にいく。落ち着いたら電話するから」
大輝は旅行鞄に荷物を詰め始めた。
「待って」と言わなければならない。
このままでは、陽翔と二人きりになる。
けれど、声が出なかった。
大輝はそれきり何も言わず、家を出て行った。
ため息が出た。
何も考えられなかった。
玄関で立ち尽くす美咲の指に小さな手が触れた。
「パパがいなくても、ボクがいるよ」
可愛い息子が無邪気に笑った。




