前編
「ママ、今日は誰と会うの?」
外出の支度をしている美咲の顔を、陽翔がひょいと覗きこんできた。
小首を傾げ、見上げる仕草がなんとも可愛い。
「大学の時のお友だちよ」
「ふぅーん。女の人?」
クローゼットに向かった美咲の後を追いかけてくる。
「そう。陽翔が産まれたときに来てくれた……って、覚えてないわよね」
ジャケットを羽織りながら、美咲は答えた。
「覚えてたら、天才だな」
大輝が陽翔をヒョイと抱き上げた。
「久しぶりなんだろ? ゆっくりおしゃべりしておいでよ」
「ありがとう。留守をよろしくね」
だがそのとたん、陽翔が手足をバタバタさせながら、大声で泣き始めた。
「いやぁー! はるちゃんも行く!!」
美咲と大輝は顔を見合わせた。
「またか」
大輝はため息をつきながら、陽翔を宥めようと試みる。
「ママだって、たまにはひとりでお出掛けしたいだろ?」
「ダメぇ! はるちゃんも一緒じゃなきゃダメ!!」
陽翔は頬を真っ赤に染め、大輝の腕から逃れようと暴れた。
「どうするよ、これ?」
大輝はうんざりしたような表情を美咲に向けた。
美咲が出掛けようとする度に、陽翔は癇癪を起こす。
こうなると解決策は一つしかなかった。
「結衣に聞いてみる」
美咲はあきらめ顔で、鞄からスマホを取りだした。
陽翔はパッと泣き止むと、指をくわえながら美咲の手元をジッと見つめた。
「あ、結衣? 今日、陽翔を連れていってもいいかしら」
断られたら今日はキャンセルだな。と思いながら尋ねた美咲に、結衣の明るい声が返ってきた。
『もちろん! 私も陽翔くんに会いたいわ!』
美咲は大輝に指でオーケーサインを送った。
大輝はホッとした表情をし、陽翔はニコニコしていた。
「急にごめんね」
「こんにちは!」
美咲が謝罪の言葉を口にしたのと同時に、陽翔がペコリとお辞儀をした。
「あら! ちゃんとご挨拶できるのね。えらいわぁ」
結衣は笑いながらしゃがみこむと、目線を陽翔に合わせ「いくつになったのかな?」と尋ねた。
陽翔は指を三本立て、誇らしそうに答えた。
「もうすぐ、みっつ!」
そんな様子を、美咲もまた誇らしい気持ちで見つめた。
「あと二か月で三歳よ。早いもんだわ」
今日は結衣と、おしゃれなカフェでゆっくりしようと計画していた。
しかし、子連れとなった以上は難しい。
「気にしないで。おしゃべりできれば、ファミレスでもどこでも構わないわよ」
結衣はサバサバとした様子で、ポンと美咲の背中を叩いた。
「ごめんね」
美咲はもう一度謝った。
「いい子にしてるじゃないの」
ついて行くと言ってきかなかった話をすると、結衣は信じられないと言った様子で陽翔を見た。
陽翔はお子様ランチを平らげた後、おとなしくスマホで子ども向けの動画を見ている。
「うちの子がこのくらいの時は、全然おとなしくしてくれなかったわよ」
「でも、お父さんとお留守番はできてたわよね」
「そうねぇ。どちらかというと、お父さんっ子なのよね」
結衣は肩をすくめた。
「好きなものなんでも食べさせちゃうしね。私は怒ってばかりだから、怖がられてるのよ」
「今はそうでもないんだけど、夫にはなかなか懐かなかったのよねぇ」
陽翔は生まれた時から、美咲にべったりだった。
美咲が抱いている間はご機嫌にしているのに、看護師も含めて、他の人が抱こうとするとすぐにぐずった。
特に大輝に対しては、尋常ではない嫌がりようだった。
手を伸ばしただけで、火が付いたように泣き叫び、抱かれまいとするように激しく抵抗する。
「まるで俺が虐待してるみたいじゃないか」
鼻白む大輝に、美咲は申し訳ない気持ちいっぱいになったものだ。
成長するにつれ、大輝が抱いても泣くことはなくなったが、ご機嫌ななめになるのは変わらなかった。
美咲の姿が見えなければベソをかき、歩けるようになると美咲のスカートの裾を掴んで離さない。
育児休業が終わり、保育園に預けるときがまた大変だった。
おもちゃで遊んでいるうちにと、美咲がそっと離れようとすると、後ろを向いているのに、なぜか気づいて泣き叫んだ。
ほんの数時間の慣らし保育ですら、すぐに「お迎えに来てください」と呼び戻された。
なんとか保育園に通えるようにはなったが、美咲の腕を離れるときは大泣きする。
加えて、大輝が迎えに行くと「ママじゃない!」とへそを曲げて帰ろうとしない。
最初は「いずれ慣れますよ」と笑っていた保育士も、だんだんと困り顔になっていった。
どこか悪いのではないかと病院へ連れて行ったが、特に問題はなかった。
美咲と一緒にいさえすればご機嫌なのだ。
「とんだママっ子なのね」
結衣の言葉に、陽翔が顔を上げてニッコリと笑った。
「小さいうちだけだとは思うんだけどね……」
美咲は愚痴をこぼした。
「夫がね、『小さいうちからストレスを掛けるのはどうか』っていうから、家にいることにしたの」
仕事は好きだった。
職場の人間関係も良好だった。
だからこそ、これ以上の迷惑はかけられなかった。
「それで辞めたのね」
結衣が少し気の毒そうな表情をした。
「仕方ないわ。小学校に上がったら、また仕事を探すわ」
「在宅の仕事を探してみたら?」
「そうね……あるといいけど」
美咲は鞄を手元に寄せた。
「ちょっとお手洗いに行ってくるわ」
「どうぞ。陽翔くんは見てるから」
だが陽翔がパッと顔を上げた。
「はるちゃんも!」
「陽翔はさっき行ったでしょ?またしたいの?」
「しない!」
「じゃあ、ママだけ行ってくるわ。すぐ戻るから」
陽翔は立ち上がった。
「ダメ! 一緒に行くの!」
「陽翔くん。おばちゃんと待ってましょうよ」
結衣が声を掛けるが、陽翔は足を踏み鳴らした。
「一緒に行くのぉ!」
美咲はやれやれとした表情を結衣に向けた。
「これなのよ……どこに行くにもついてくるの」
「なるほどねぇ」
結衣は思わずクスリと笑いをこぼした。
「小さなストーカーね」
美咲の心臓がトクンと鳴った。
陽翔の手を取ろうとした指先が震えた。




