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要らない娘と呼ばれた私を、魔王は千年待っていたそうです ~捨てた公爵家は没落し、私は世界で一番幸せになりました~  作者: 蒼空ルーシェ


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第6話 花瓶の位置

 花が咲いた日から、魔王城の空気が変わった。


 具体的に何がどう変わったのかは、リーシェにはうまく言えない。ただ、廊下ですれ違う魔族たちの目が違う。以前は「珍しい人間がいる」という物珍しさだったのが、今は「あの方だ」という——畏敬に近いものに変わっている。


 侍女たちの態度も変わった。以前から親切ではあったけれど、今はもう少し深い。お茶を出す手つきが丁寧になり、リーシェが何か言うたびに目を輝かせて聞いている。


「半身さまが庭に出られると、花が揺れるんですよ」

「今朝も新しい花が三つ咲いていました」

「私の部屋の窓からも見えるんです。綺麗で——」


 半身さま。


 いつの間にかリーシェはそう呼ばれるようになっていた。居心地が悪い。だって、つい十日前まで「要らない娘」だった人間が、「半身さま」と呼ばれている。自分の中身は何も変わっていないのに。


「ナディアさん。私、半身さまって呼ばれるほどの者じゃ——」


「半身さまは半身さまです。千年ぶりの奇跡を起こされた方を、他に何とお呼びすればよいのでしょう」


 ナディアは穏やかだが、この件に関しては譲らなかった。



   ◇



 その日の午後、事件は起きた。


 事件というほどのことでもない。でもリーシェにとっては、魔王城に来てから最も困惑した出来事だった。


 部屋に戻ると、花瓶が置いてあった。


 昨日はなかった花瓶。白い陶器に、庭で咲いた花が一輪挿してある。窓辺に置かれている。


 綺麗だ。リーシェは素直にそう思った。


 しかし昼食後に部屋に戻ると、花瓶の位置が変わっていた。窓辺から、寝台の横の小卓に移されている。


 侍女に聞いた。「花瓶、動かしましたか」


「いいえ。陛下が」


「陛下が?」


「はい。先ほどいらっしゃって、花瓶の位置をお変えになりました」


 魔王が。わざわざ来て。花瓶の位置を。


 リーシェが困惑していると、夕方にまた位置が変わっていた。今度は窓辺に戻っている。


 侍女に聞いた。


「また陛下が?」


「はい。光の加減がよくないとおっしゃって、窓辺に戻されました」


 リーシェは黙った。


 夜。部屋に戻ると、花瓶はまた小卓にあった。三度目の移動。


 もはや何も言えなかった。


 翌朝。朝食を終えて部屋を出ようとした時、廊下で足音がした。リーシェが扉を開けると——ゼルヴァーンが立っていた。


 花瓶を持って。


 目が合った。


 ゼルヴァーンは身長差のぶんだけリーシェを見下ろしていた。銀灰色の髪が揺れている。金の瞳が——明らかに動揺していた。大陸最強の魔王が、花瓶を両手で持ったまま、凍りついている。


「あ」


 リーシェが言った。


「……あ」


 ゼルヴァーンが言った。


 沈黙。


 廊下の向こうから、足音。デミウルゴが歩いてきた。主の姿を見て、足を止めた。銀縁の眼鏡の奥で、目が細くなった。


「陛下」


「何だ」


「千年仕えておりますが、陛下が花瓶を持って廊下に立っているお姿は初めて拝見いたします」


 ゼルヴァーンが無言でデミウルゴを睨んだ。しかし睨まれたデミウルゴは微動だにしなかった。千年仕えた側近は、主の睨みくらいでは動じない。


「光の加減を確認しようと思っただけだ」


「四度目ですか」


「数えるな」


「側近の務めでございます」


 リーシェは二人のやり取りを見ていた。初めて見るゼルヴァーンの顔がそこにあった。謁見の間の威厳も、扉越しの不安も、涙を流した切なさもない。今のこの人は、ただ——花瓶を持ったまま、言い訳をしている。


 少しだけ、笑いそうになった。口元を手で押さえた。


 ゼルヴァーンがそれに気づいた。金の瞳がわずかに揺れた。


「……笑うな」


「笑ってません」


「笑っている」


「笑ってません。ただ——」


 リーシェは手を下ろした。ちゃんと顔を見た。扉越しではなく、初めて、向かい合って。


「花瓶、ありがとうございます。お花、嬉しいです」


 ゼルヴァーンが目を逸らした。大陸最強の魔王が、目を逸らした。花瓶を持ったまま。


「……どこに置けばいい」


「窓辺がいいです。朝の光が当たるので」


「光の加減は問題ないか」


「はい」


「風で倒れないか」


「大丈夫です」


「水は足りているか」


「足りています」


 ゼルヴァーンは花瓶を窓辺に置いた。位置を微調整した。少し右にずらし、戻し、またずらした。


 デミウルゴが廊下の壁にもたれて、腕を組んで見ていた。その顔に浮かんでいるのは、呆れではなかった。もっと柔らかいものだった。千年間見たことのない主の姿を、噛みしめるような顔。


 ゼルヴァーンが花瓶から手を離した。振り返る。


 リーシェと目が合う。近い。扉越しではない距離。手を伸ばせば届く距離。


 ゼルヴァーンの指が動いた。リーシェの方へ——


 止まった。


 また止まった。あの時と同じように、指先が空で震えて、握りしめられて、下ろされた。


「……花が似合う」


 低い声でそれだけ言って、ゼルヴァーンは部屋を出ていった。足早に。逃げるように。


 残されたリーシェは、窓辺の花瓶を見つめた。花が一輪。白い花。庭に咲いた、千年ぶりの花。


 頬が少し熱かった。



   ◇



 廊下。


 足早に去るゼルヴァーンの背中に、デミウルゴが追いついた。


「陛下」


「何だ」


「花が似合う、とは。もう少し言い方があったのでは」


「うるさい」


「たとえば、お美しい、とか」


「黙れ」


「あるいは、陛下のために咲いた花です、とか」


「デミウルゴ」


「はい」


「次にその口を開いたら城から落とす」


「承知いたしました」


 デミウルゴは口を閉じた。しかし眼鏡の奥の目は、静かに笑っていた。


 千年仕えてきた。千年間、この方の笑顔を見たことがなかった。怒る姿も、照れる姿も。すべてが凍りついた王だった。


 今、この方は照れている。花瓶の位置を四度も直すほど、一人の少女のことを考えている。


 ——千年仕えた甲斐が、ようやく。


 デミウルゴは立ち止まった。主の背中を見送った。


 そして誰にも聞こえない声で、呟いた。


「……五度目は、花を二輪にしてみてはいかがですか」


 返事はなかった。しかし足早に去っていく主の耳が、わずかに赤かったのを、千年の忠臣は見逃さなかった。


お読みいただきありがとうございます。

第2章「寵愛」、始まりました。


花瓶を四度直す魔王と、それを数えている忠臣。

千年の城に、少しずつ色がついていきます。


ところで——ゼルヴァーンの手がまた止まったこと、覚えていてください。

あの手が止まる理由は、いつか必ずお話しします。


次回、第7話。二人きりの時間が、少しだけ増えます。


ブックマーク・評価・感想、心からお待ちしています。

「花瓶の位置」という言葉が頭から離れなくなった方、ぜひ一押しを。


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