第5話 花が咲く
魔王城に来て、五日が過ぎた。
リーシェは毎朝、庭に出るようになっていた。
城の裏手に、庭があった。正確には、庭だった場所、と言うべきかもしれない。広い敷地に黒い土が広がっているだけで、木も草もない。石を組んだ花壇の枠だけがいくつも残っていて、その中も、土がむき出しのままだった。
以前、ナディアに聞いたことがある。
「ここは、昔は庭だったのですか」
「ええ。千年も、昔の話ですが」
ナディアは少しだけ目を伏せた。
「それ以来、この城では、花の一つも咲きませんでした。——昨日まで、は」
花壇の隅に、小さな白い花が一輪だけ咲いている。謁見の間で、魔王の涙が落ちた場所から咲いた花。あれを、誰かがそっと土に移したのだという。
千年ぶりの、たった一輪。
リーシェは毎朝、その花のそばにしゃがんで、水をやった。時々、話しかけた。「おはよう」とか、「今日も、いいお天気です」とか。返事がないのは知っている。それでも、話しかけるのは慣れていた。公爵家では、おやすみを言う相手も、弟の押し花しかいなかったから。
今朝も、ポケットから弟の花を取り出して、白い花の隣に並べた。
三日と一晩、いいえ、もう五日が過ぎても、弟の花は枯れていない。
不思議ですね、と、二つの花に話しかけた。
◇
塔の上の窓から、その姿を見ている影があった。
「陛下」
デミウルゴが、背後から声をかけた。返事はない。ゼルヴァーンは窓辺に立ったまま、庭を見下ろしている。毎朝、同じ時刻に、同じ場所から。
「四日目でございます」
「数えるな」
「側近の務めでございます」
ゼルヴァーンは答えなかった。金の瞳が、庭にしゃがむ小さな背中だけを追っている。手を伸ばせば届く距離まで近づけないくせに、こうして遠くからなら、いつまでも見ていられる。
千年仕えた側近は、それ以上は何も言わなかった。
◇
その朝は、少し違った。
リーシェが二つの花に水をやり終えて、立ち上がろうとした、その時。
土が、動いた。
白い花の根元の土が、ふくらむ。芽が、顔を出す。一つではない。二つ、三つ——花壇の枠を越えて、黒い土のあちこちから、緑が一斉に伸び始めた。
茎が立つ。蕾がふくらむ。
そして、開いた。
白。淡い金。薄紅。庭だった場所が、見渡すかぎり、花で満ちていく。千年、何も咲かなかった土から、光がこぼれるように、次々と。
リーシェは立ち尽くした。足元から、波のように花が広がっていく。
声が聞こえた。城の窓から、廊下から、魔族たちが庭に集まってくる。侍女たちが口元を押さえている。誰かが泣いていた。
「咲いた……」
「千年、咲かなかったのに」
気配がして、リーシェは振り返った。
ゼルヴァーンが、庭に立っていた。
玉座の上でも、扉の向こうでもなく。花の中に。銀灰色の髪に、白い花弁が一つ、舞い落ちている。
金の瞳が、庭を見ていた。それから、リーシェを見た。
ゼルヴァーンの手が、伸びた。リーシェの方へ。
止まった。
指先が空で震えて、握りしめられる。けれど——下ろされるまでの間が、いつもより、ほんの少しだけ長かった。前よりも近い場所で、その手は止まっていた。
「千年、咲かなかった」
低い声だった。
「この庭は、千年、ずっと。——君が、来た」
それだけ言って、ゼルヴァーンは庭を見渡した。千年ぶりの花を、一つひとつ、目に焼きつけるように。
ナディアが、そっと膝をついた。リーシェに向かって、深く。
「半身さま」
初めて、そう呼ばれた。
周りの魔族たちも、次々と膝をつく。庭いっぱいの花の中で、リーシェ一人が立っている。
居心地が悪い。自分は何もしていない。ただ、毎朝、花に水をやって、おはようと言っただけだ。
でも、と、リーシェは咲き乱れる庭を見た。
——きれいだ、と、素直にそう思った。
◇
庭の隅で、デミウルゴは花の海を見渡していた。
千年。自分もまた、この庭が枯れていく一日目から、数えていた。主の隣で、主の孤独の傍らで。
眼鏡を外し、目元を指で押さえる。千年前のあの方が、好きだと言ってくれた眼鏡を。
「——今度こそ」
声にならない祈り。千年前は、守れなかった。
今度こそ、この光が、消えませんように。
少し離れた場所で、ナディアもまた、庭を見ていた。深い紫の瞳に、咲き誇る花が映っている。その奥で、悲しみとも懐かしさとも違う何かが、揺れて——誰にも気づかれずに、消えた。
お読みいただきありがとうございます。
第1章「御供」、ここまでです。
要らない娘と呼ばれた少女のいる庭に、千年ぶりの花が咲きました。
同じ頃、公爵家では、厄介払いの祝宴が開かれています。
この差が、いつか、どんな形で届くのか——それは第2章で。
第2章「寵愛」は、魔王城での暮らしが始まるところから。
あの扉の向こうの人が、少しずつ、距離を詰めてきます。
そして——公爵家の長兄が、魔王城にやってくる日のことも。
次回、第6話「花瓶の位置」。




