第4話 月の塔
目を覚ました時、最初に見えたのは天蓋だった。
深い藍色の布が頭上に広がっている。細い銀糸で星の紋様が刺繍されていて、青白い光の中でほのかに光っている。寝具は柔らかい。体が沈み込むような心地よさで、公爵家の自室にあった硬い寝台とは比べものにならなかった。
——ここは。
記憶が戻ってくる。
跪いた魔王。涙。千年待ったという声。石の床から咲いた花。
あれは夢ではなかっただろうか。あの光景はあまりに現実離れしていて、目が覚めた今も信じられない。
リーシェは体を起こした。広い寝室。見たことのない調度品。壁には魔族の文字が刻まれた装飾がある。窓が一つ。
窓の外を見て、息を呑んだ。
月が、二つあった。
夜空に並ぶ二つの月。右の月は丸く青白い光を放っている。左の月は——少し欠けていた。わずかに端が影に食われて、完全な円になっていない。
人間の世界には月は一つしかない。二つの月が浮かぶ空は、リーシェが知らない世界の空だった。
綺麗だった。怖くなかった。不思議と。
星が多い。人間の王都では見えない数の星が、二つの月の間にぎっしりと光っている。
しばらくぼんやりと空を見つめていた。どれくらいの時間が経ったかわからない。気がつくと、涙が頬を伝っていた。
泣いている理由がわからない。悲しいのか、怖いのか、安堵したのか。わからないけれど、涙が止まらなかった。
——生きている。
それだけは確かだった。
◇
扉がノックされたのは、空が白み始めた頃だった。
「失礼いたします。お目覚めでしょうか」
穏やかな声。扉が開き、数人の侍女が入ってきた。魔族の女性たち。小さな角が額にある者、長い耳を持つ者、髪が淡い紫色の者。人間とは違うけれど、どの顔にも敵意はなかった。
「お食事をお持ちしました」
「陛下から、お好きなものを召し上がるようにと」
陛下。あの人のことだ。
食事は銀の盆に載せられていた。温かいスープ。柔らかいパン。見たことのない果物。色が鮮やかで、公爵家の朝食よりも品数が多い。
侍女たちがリーシェの周りで忙しく動き回る。カーテンを開け、水差しを整え、衣服を用意する。その手つきが妙に嬉しそうだった。
「あの」とリーシェが声をかけると、侍女たちが一斉に振り返った。
「……ありがとうございます。こんなにしていただいて」
侍女たちが顔を見合わせた。そして一人が、嬉しそうに笑った。
「陛下があんなお顔をされたのは初めてですもの。きっとあなたは特別な方です」
「あんなお顔?」
「泣いて、笑って——いいえ、笑ってはいなかったかもしれません。でも、あんなに人間らしいお顔をされたのは、私たちが生まれてから一度もなかったんです」
侍女たちが口々に頷く。魔王は千年を生きる存在であり、侍女たちの寿命は長くても二百年ほどだという。つまり彼女たちが知っている魔王は、いつも——
感情の見えない王、だった。
「それが昨日、あんなふうに——」
「エーダ。お口が過ぎますよ」
静かな声が割って入った。
侍女たちの後ろに、もう一人。背の高い女性が立っていた。他の侍女たちより明らかに年嵩で、しかし美しかった。長い黒髪に、深い紫の瞳。物腰は穏やかだが、纏う空気に厚みがある。長い時間を生きた者の静けさ。
「侍女長のナディアと申します。以後、お世話をさせていただきます」
リーシェに向けて、深く丁寧に頭を下げた。
「お疲れでしょう。お食事の後は、ゆっくりお休みになってください。ご質問があれば、いつでも」
穏やかな笑顔。しかし一瞬——本当に一瞬だけ、ナディアの紫の瞳にリーシェの顔が映った時、何かが揺れた。
悲しみとも、懐かしさとも違う。もっと複雑な何かが、瞳の奥を過ぎって消えた。
リーシェは聞けなかった。聞いてはいけない気がした。
「ナディアさん。よろしくお願いします」
リーシェが頭を下げ返すと、ナディアが一瞬目を見開いた。侍女たちもぽかんとしている。
「……頭を下げる必要はございませんよ」
「でも、お世話になるのですから」
ナディアは少し黙って、それから微笑んだ。今度は翳りのない、柔らかい笑みだった。
「——不思議な方ですね」
◇
午後。
食事を終え、着替えを済ませたリーシェは、部屋の中で落ち着かない時間を過ごしていた。
窓の外に見える景色は美しい。塔の上階にあるらしく、魔王城の全景が見渡せる。黒い尖塔が立ち並び、その間を鳥ではない何かが飛んでいる。城の下には街らしきものも見える。魔族の民が暮らしているのだろう。
怖い場所だと思っていた。人骨の城、血の河、絶望の牢獄。人間の歴史書にはそう書かれていた。
——全部、嘘だった。
少なくとも、今のところは。
ここには温かい食事があり、柔らかい寝具があり、嬉しそうな侍女たちがいる。鎖もない。牢もない。リーシェは囚人ではなく、客として扱われている。
なぜ。
その疑問に答えが出ないまま、午後が過ぎようとしていた時。
扉の外に、気配を感じた。
ノックはない。足音もない。ただ——気配がある。扉のすぐ向こうに、誰かが立っている。
リーシェは扉に近づいた。
「……どなたですか」
沈黙。
長い沈黙の後、低い声が答えた。
「——私だ」
ゼルヴァーン。魔王の声だった。扉越しの声は、謁見の間で聞いた時より低く、近く、そして——少しだけ、不安そうだった。
「体調は、どうだ」
扉の向こうからの問いかけ。中に入ってこない。
「大丈夫です。お食事もいただきました。とても美味しかったです」
「……そうか」
沈黙。
リーシェは扉に手をかけて、少し迷って、開けなかった。この人がなぜ中に入ってこないのか、理由はわからない。でも入らないことを選んでいるのだとしたら、こちらから開けるのは違う気がした。
「あの……昨日のことを、お聞きしたいのですが」
「何を」
「千年、待ったと、おっしゃっていました。あれは——」
「今は聞かないでほしい」
遮るように、しかし荒げずに。
「いずれ話す。ただ——今はまだ」
声が途切れた。何かを飲み込む間。
「何も強制しない。ここにいてほしい。それだけだ」
足音が遠ざかる。
「あの」
リーシェが呼び止めた。足音が止まる。
「……お部屋。とても綺麗です。ありがとうございます」
沈黙。
長い沈黙。
そして、かすかに——本当にかすかに、息を吐くような音が聞こえた。笑ったのかもしれない。あるいは、泣きそうになったのかもしれない。扉越しでは、わからなかった。
「——月がよく見える部屋を選んだ」
それだけ言って、足音が去っていった。
◇
夜。
リーシェは窓辺に腰かけて、二つの月を見上げていた。
月がよく見える部屋を選んだ。彼はそう言った。この部屋を選んだのは彼で、この天蓋の星の刺繍も、この窓の位置も、全部——
怖い人ではない、と思った。少なくとも、リーシェに対しては。
でもわからないことだらけだ。千年待ったとはどういう意味なのか。なぜ泣いたのか。なぜ触れようとして止まったのか。あの涙からなぜ花が咲いたのか。
何もわからない。でも。
ポケットから、弟の花を取り出した。まだ枯れていない。三日と一晩が過ぎたのに、花弁は開いたまま。不思議だけれど、今は不思議なことが多すぎて、小さな不思議を気にしている余裕がなかった。
花を胸に抱く。
公爵家の夜は、いつも冷たかった。広い部屋に一人で、毛布にくるまって、朝が来るのを待った。おやすみなさいを言う相手はいなかった。
ここも一人だ。でも——毛布は温かいし、食事は美味しかったし、侍女たちは笑っていたし、あの人は廊下から、不器用に声をかけてくれた。
月がよく見える部屋を、選んでくれた。
リーシェは小さく呟いた。
「おやすみなさい」
誰に向けた言葉かはわからない。弟に。使用人たちに。あるいは、扉の向こうに立っていた人に。
二つの月が、少女を照らしていた。片方は満ちて、もう片方は少しだけ欠けたまま。
窓の下の庭に、昨夜石の床に咲いたはずの小さな白い花が、まだ光っていた。
お読みいただきありがとうございます。
廊下から声をかける魔王と、扉越しに答える少女。
あの扉が開く日は、もう少し先です。
ところで、弟の花がまだ枯れていないこと、気づいていましたか。
三日と一晩。普通なら萎れているはずなのに。
次回、第5話「花が咲く」。
第1章の最終話です。
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