第10話 半身の伝説
本を開いた。
花のしおりを指先でなぞってから、最初のページに目を落とした。ゼルヴァーンの字。少し角張っていて、しかし一画ずつ丁寧な字。急いで書いた文字ではない。
「読んでほしい。君が何者であるか、僕よりこの本の方がうまく伝えられる」
リーシェは昨日覚えた魔族の文字を頼りに、ゆっくりと読み始めた。わからない文字が多い。でもゼルヴァーンが欄外に人間の言葉で注釈を入れてくれていた。細かい字で、丁寧に。いつの間に書いたのだろう。昨夜、扉の前に本を置いてくれたのは明け方のはずだ。あの扉越しの会話の後、朝までかけて注釈を書いてくれたのだ。
リーシェは本を握る手に少し力を込めた。
◇
半身の伝説。
本の冒頭には、この世界の成り立ちが記されていた。
はるか昔、世界には「二つの力」があった。一つは「統べる力」。もう一つは「生かす力」。統べる力は秩序を守り、外敵を退け、世界の骨格を支えた。生かす力は生命を育て、花を咲かせ、あらゆるものに命を巡らせた。
二つの力は対であり、どちらが欠けても世界は成り立たない。
やがてこの力は、人の形を取った。統べる力を宿した者を「魔王」と呼び、生かす力を宿した者を「半身」と呼んだ。
魔王と半身。二つが揃う時、世界の生命力は正しく循環する。花が咲き、水が清らかになり、大地が実りをもたらす。
片方が欠ければ、循環は止まる。
リーシェは本から顔を上げた。窓の外を見た。庭園に咲いた花々。千年ぶりに咲いた花。
千年間、半身がいなかった。だから花は止まった。庭は枯れた。
自分が来たから、花が咲いた。
リーシェは自分の手を見た。この手が触れると花が咲く。それは「魔力」ではなかった。公爵家で測れるような種類の力ではなかった。もっと根源的な、世界そのものの仕組みに関わる力。
魔力がないと言われ続けた。何の力もないと。
でも違った。リーシェが持っていた力は、魔力より古い。魔力の源そのもの。世界が回るために必要な力。
人間の物差しでは測れなかっただけだ。
本のページを繰った。注釈のあるゼルヴァーンの字を追いながら、読み進める。
◇
昼前に、勉強会の約束通りゼルヴァーンが来た。
今日は部屋の入口ではなく、図書館で。いつもの二人掛けの机。隣り合って座る。
昨夜の扉越しの会話の後だ。気まずさがあってもおかしくない。でも空気は穏やかだった。何かが変わった後の、晴れ間のような。
「読めたか」
「途中までです。注釈がなかったら一行も読めませんでした。……ありがとうございます。いつ書いてくださったんですか」
「夜に少し」
少しではないと思う。あの量の注釈を「少し」とは言わない。でもリーシェはそれ以上追及しなかった。
「半身のこと、少しわかりました。魔王と対の存在で、二つが揃うと世界の生命力が巡る」
「そうだ」
「千年間、半身がいなかったから、世界は——」
「衰えていた」
ゼルヴァーンが言った。
「花が咲かなくなったのは庭だけではない。大陸全土で、少しずつ生命が痩せていた。作物の実りが減り、森が縮み、泉が涸れた。千年かけて、ゆっくりと」
リーシェは息を呑んだ。
「そんなに」
「半身の不在は世界にとって致命的だ。しかし変化が緩やかだったために、多くの者は気づいていない。人間は特に」
リーシェは本の中の一節を思い出した。注釈つきで読んだ箇所。
「本に書いてありました。半身と魔王が揃えば、世界は再び巡ると。つまり——私がここにいることで、世界が」
「元に戻り始めている」
ゼルヴァーンが頷いた。
「君が庭に花を咲かせたあの日から、大陸の各地で小さな変化が起きている。枯れた泉に水が戻ったという報告もある」
リーシェは言葉を失った。
自分が花に触れただけで。たったそれだけのことで、世界が動いた。十七年間「何もできない」と言われ続けた手が、世界の循環を取り戻し始めている。
めまいがした。嬉しいのか、怖いのか、よくわからない。ただ——重い。自分が思っていたよりもずっと、「半身」というものは重い。
ゼルヴァーンがリーシェの顔を見た。
「怖がらなくていい」
低い声。昨夜の扉越しと同じ声。でも今は、顔が見える。
「君は花を咲かせるだけでいい。世界のことは僕が考える。重さは僕が持つ。君はただ——」
言葉を探すように、少し間があった。
「君のままでいてくれればいい」
リーシェの目が熱くなった。泣きそうだった。でも泣かなかった。昨日たくさん泣いたから、今日は笑おうと思った。
「……ゼルヴァーンさまは、甘やかしすぎです」
口をついて出た言葉に、自分で驚いた。初めてゼルヴァーンの態度に意見を言った。
ゼルヴァーンが目を丸くした。千年の魔王が、きょとんとした顔をした。
「甘やかし?」
「はい。私に何も背負わせないつもりですか。ここに置いてもらうなら、私も何か役に立ちたいんです」
「……役に立つ必要はない。君がここにいること自体が——」
「それでも」
リーシェは本を抱きしめた。
「この世界のことをもっと知りたい。半身としてできることを知りたい。花を咲かせるだけじゃなくて、自分で考えて、自分で動きたいんです」
ゼルヴァーンは黙ってリーシェを見ていた。
長い沈黙の後、かすかに——本当にかすかに、口元が動いた。
「……強情だな」
「よく言われます」
言われたことはなかった。公爵家では意見を言う機会すらなかったから。でも今は——言える。この人の前でなら。
ゼルヴァーンは目を逸らした。窓の方を向いた。耳がまた少し赤い。
「わかった。では次は、半身の力の使い方を教える。ただし——」
「ただし?」
「無理はするな。力を使いすぎると、君の体に負担がかかる。それだけは約束してほしい」
その声に、また影が差した。ほんの一瞬。「負担がかかる」と言った時の、微かな——恐怖の色。
リーシェは聞きたかった。ずっと聞きたかったことがある。
「ゼルヴァーンさま」
「何だ」
「……前の半身の方は。千年前にいた方は——どうなったのですか」
空気が、凍った。
ゼルヴァーンの瞳から、光が消えた。一瞬で。春の日差しが雲に隠れるように、金の瞳が翳った。
リーシェは後悔した。聞くべきではなかったかもしれない。
「ごめんなさい、今の質問は——」
「いつか、話す」
ゼルヴァーンの声は平静だった。しかし手が——机の下で、白くなるほど握りしめられていた。
「今はまだ——話せない。しかし、必ず」
その「必ず」の重さに、リーシェは黙って頷いた。
この人がいつか話してくれるまで、待とう。扉の向こうで待っていてくれたこの人を、今度は自分が待つ番だ。
◇
夕方。
リーシェは部屋で本の続きを読んでいた。半身の力の詳細。生命力の循環の仕組み。花を咲かせるのは力の最も基本的な発露で、本来はもっと多くのことができるらしい。
ページを繰った。
次の章の見出しが目に入った。ゼルヴァーンの注釈はここで止まっていた。ここから先は、まだ読んでほしくないということかもしれない。
見出しの文字を、覚えたばかりの魔族の文字で読んだ。
「喪失」。
リーシェは本を閉じた。
まだ読まない。この人がいいと言うまで。
窓の外で、二つの月が昇り始めていた。右の月は丸い。左の月は——ほんの少しだけ、前より欠けが小さくなっている気がした。
気のせいかもしれない。でもリーシェにはそう見えた。
お読みいただきありがとうございます。
「世界のことは僕が考える。重さは僕が持つ」
「それでも。自分で考えて、自分で動きたいんです」
この二人は、きっと大丈夫です。
しかし、リーシェが開かなかったページがあります。
見出しは「喪失」。
千年前に、何が起きたのか。
ゼルヴァーンが話せる日が来るまで、リーシェは待つことを選びました。
読者の皆さまにも、もう少しだけお付き合いいただければ。
次回、第11話。庭園の花がさらに広がり、魔王城に変化が訪れます。
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