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十八  内地

 その夜、啓宇が寝静まった後、誠一郎は納屋からコップで持ってきた灯油を机の前に置いた。

 郷里の高校を卒業してから誠一郎はほとんど家から出ることはなかった。四月に入ると数少ない友人も進学先の大学のある街へ引っ越した。誠一郎は本格的に何もすることがなくなってしまった。誰もいなくなった日中の家で、誠一郎は押し入れから天井裏へつながる枠板を外し、暗闇を度々覗いた、そこはひんやりとした空気の流れとともに昼間でも暗闇が広がっていた。その闇を見続けていると、四年前この建物で焼身した精子、その全く手つかずのまま放置されていた固まり、手を伸ばしさえすればその固まりに触れることが出来るような気がした。しかしながらいくら手を伸ばしてみてもそこへ届くことはなかった。遺体が知らぬ間に運び出され、焼失されずに残った衣類や学習道具を取りに戻ったこの家でまず最初に気づいた事は焼け焦げた臭いだった。そして改修を終え再びこの家に戻ってくるとその手がかりの臭いさえも消えていた。そんなことを屋根裏の闇をのぞき込みながら考えていた時、誠一郎はふと母親の死亡記事を探してみたいと思った。


 市内のお城の跡地に立てられた県立図書館は高校三年間、誠一郎が宿題をするために足を運んだ場所だった。その図書館には読書室の他、学生のための冷暖房完備の大きな学習室が併設されていた。四百名弱が一同に学習できる広々とした室内を誠一郎はガラス越しに見渡した。誠一郎の直接知る顔は見あたらなかったが、一学年下だった生徒の姿を数名見つけた。それはおかしな雰囲気だった、受験を半ば放棄したにも関わらず学習の振りの為にこの場所に通い続けた自分が理解できなかった。そしてガラス越しに受験生になったばかりの四百名近い生徒の姿を見ているのだった。誠一郎も受験生だったけれど、実感を得られないまま時が過ぎ学生服を脱ぎこの室外にいる。それは今となっては非現実な日常に思えて仕方なかった。そもそも受験勉強以外の学習や選択肢があることさえ考えずに甘んじていた。なんの肩書きも持たずに卒業し、その箱を外から眺めてみると少しだけ自由になったのだと誠一郎は思った。そしてその三階の学習室から一階の閲覧室まで階段を下りながら、この図書館へは二度と戻ることはないと自分に言い聞かせた。


 四年前の新聞のマイクロフィルムをカウンターで受け取り、映写機にかけるとそのページはすぐに見つかった。精子の葬儀案内広告を探せばすぐに見つかるだろうと思い描いた通り、紙面の下辺に告知されていた。しかし死亡記事の方は、新聞の後半数ページを三回、目を通さなければ見つからなかった。それは予想した以上に小さな記事だった。その記事の周りには、大学教授婦女暴行嫌疑に対する不起訴処分、詐欺容疑者の逮捕、側溝から救助された幼稚園児、覚醒剤使用容疑で逮捕された主婦五人の記事に囲まれていた。精子の記事は一〇八文字で構成され、「・・署の調べによると、精子さんは病弱で、発作的に灯油をかぶり焼身自殺をしたらしい。」と結ばれていた。その小さな枠組みは、誠一郎をとても息苦しくさせた。誠一郎はその記事を印刷し、帰りの電車で何度も読み返した。そこに間違った情報はなかった。けれどもコピー用紙ということ以外、深みも重みも感じられなかった。誠一郎にとって屋根裏の暗闇で見出した黒い固まりの方が、深みやら重みを十分に感じ取る事が出来た。そして先ほどまで閉じこもっていた自分の部屋、大きなガラスで囲まれた学習室、小さな記事の枠組み、それらの中から自由になる為に一歩を踏み出せない自分、負け犬という肩書きを着せられ譲歩しかけている自分へ心で吠えた。その声は一度吠えると気持ちよいほど彼の心でこだました。


 その夜、啓宇が寝静まった後、誠一郎は納屋からコップで持ってきた灯油を机の前に置いた。そしてその灯油をスポイトで吸入し、左ひじの内側の皮膚へ五百円硬貨ほどのサイズに落とした。そこであれば誰にも気づかれないだろうと思案した。誠一郎が右手に持ったライターを押すと、皮膚の上の灯油は、体温で暖められた一部が気化し引火した。そしてその炎によって液体は更に気化し、皮膚の上で二十センチ程の炎に膨らんだ。誠一郎の赤みがかった皮膚はその炎で白く変化した。目の前で急激に膨らんだ炎は知らぬ間に前髪を焦がし、しばらくしてしぼみ消えた。不思議なほど時間は引き延ばされ、痛みという感覚はなかなか押し寄せず、しばらく灯油と毛が焦げる臭いのみが感覚を支配した。しかし次の瞬間、鈍い発熱が体を駆け巡り、そのすぐ後に肉を切り裂く感覚が時間差で訪れ誠一郎は絶句した。洗面台へ駆け込み流れる水道水で、その白く変化した皮膚を冷やした。水が流れる合間、皮膚がゆっくりと膨らみぶよぶよとした水疱になった。それらを見ながら誠一郎は、痛みが訪れるまでのしばらくの時間の事を考えた。精子が全身に灯油を被り火をつけ意識が痛みで引き裂かれる迄の間、あの臭いに包まれながら何を考えたのだろうとふと心に疑問が湧いた。そう思いつくと突然誠一郎の目から涙が溢れ出た。入退院を繰り返し家族と親戚からさえ共有されえない、後戻りできない心境に佇みながら、長い間精神的苦痛を味わってきた精子は、誠一郎と同じように発火と同時に意外な刹那の時を持ち得たのだろうか。その刹那の時の中にほっとする心の平安を見いだせたのだろうか。今、誠一郎と精子は同じ感覚を共有出来たのだろうか。血という繋がり、親子という繋がりで、その刹那の時が与える感覚を少しでも共有出来うるのであろうか。そして精子の痛みを分かち合うことが出来たのだろうか。あの痛みを少しだけ引き受けることで、精子は誠一郎が彼女に対して犯した無関心を許してくれるのだろうか。

 誠一郎は彼に訪れた痛みの前の空白の瞬間に感じた消え入りそうな平安を拠り所にしたかった。高校を卒業し進路も定まらない彼にとって、それは藁をも掴む人間が抱きがちな思い違いなのかも知れなかった。だがそれを信じなければ、これから彼が生き続ける為の、わずかばかりの光さえ見いだせなくなってしまいそうだった。蛇口から水は流れ続け、その五百円硬貨ほどの小さな痛みは、その水の流れをもう少しだけ長く必要としていた。

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