七月二十一日月曜日
暗い道をテントに戻る時、ハルヒが誠一郎を待っていた。先ほどの会話でずいぶん彼女に心労をかけてしまったと誠一郎は暗闇に佇む彼女のことを思った。
誠一郎はこの経験を、その山で誰とも共有できなかった。余韻が大きすぎて、経験したことを整理することさえ出来なかった。最終日、最後のダンスのセッションに誠一郎は参加しなかった。ゲートキーパーを行っていたスモーキーに、最後のセッションに参加してもらいたかった。まだ十代の家出少年の献身的な行為を見て、誠一郎は自分自身の身勝手さを恥ずかく思った。そして前日の経験で十分満たされていた。誰もいなくなったキャンプ場と駐車場近くのゲートで、遠くの林の中から聞こえてくる人々の歌声は、彼の皮膚を心地よく触れていくそよ風のようだった。スティーブがチワワのリトルビッグドッグを散歩させながら近づいてきた。
「セイ、もし最後のセッションを見たいのだったら代わろうか。」
「ここであの歌声を聞いているだけで十分幸せな気分です。」
「そうだね。あの場に居なくても、地で木は繋がっている。ここにある木を祈ることで、あの場に居ることと同じ事が出来る。」
そう静かに話し終えると再び、彼は来た道を戻って行った。スティーブの言葉は前日の誠一郎の経験を既に心得ているようだった。足下にあるブリキ缶から立ち昇るシーダーの煙を眺めながら誠一郎はそう思った。前日の経験は、この場に居る人々と共有されている観念のように思えた。誠一郎はようやくその観念の存在に気付き理解しようとその一歩を踏み出そうとしていた。彼はスティーブが指し示した木の横に立った。シーダーの煙と匂いに包まれ、誠一郎はその木の幹に両腕を回した。恥ずかしさが少しだけ残った。こんな姿を他人に見られたら、気が触れたと思われるだろうと危惧した。しかし心の中に再びあの経験が浮かび上がるのではという誘惑に誠一郎は動かされた。それはスティーブの指し示した祈りではなかった。あの場に居る全ての参加者は、人々の幸せを祈っていた。それは自分を含めコミュニティー全体の幸せを祈る高潔な祈りだった。誠一郎にはまだ人々の幸せを心から望む心のあり方さえ見つけていなかった。心になくてもそう振る舞うべきなのか、心にないものは表現するべきではないのか。だからこそ誠一郎は最後のセッションに参加することを恐れたのかも知れなかった。スモーキーへの振る舞いは、この地で邂逅した自身の恥部を覆い隠そうと振りかざした誠一郎の偽善であり欺瞞であるのかもしれないと、誠一郎はその木を抱きながら次々に心に浮かんでくる声に耳を傾けた。「痛みは比較されるべきではない」あの木が伝えた言葉は、重く誠一郎の心で繰り返された。その言葉の真意を考えると誠一郎はなかなか一つの答にたどり着けなかった。ダンサーの痛み、精子の痛みを、誠一郎の痛みとして置き換えることを止めるべきなのか。彼らや彼女、木の痛みを引き受けつつ、痛みへの執着を止めるべきなのか。心は痛みだけでしか満たされないとそう思い込んできたのではないか。誠一郎はこの言葉の真意を測りかね、シンプルな言葉であればこそ、彼の思考は言葉に託された意図を複雑に捉え、なかなか真意にたどり着けないでいた。誠一郎は早急に結論づけようと逸る心を抑え、時間をかけてその輪郭を見つけていこうと自らに言い聞かせた。その言葉の真意が、自然に心に満ちあふれる時がやがてあるだろうと楽観的な気持ちを当てもなく探した。目の前の木の表面は、は虫類の皮膚のように堅くがさがさとしていた。十五分ほど過ぎ、そろそろブリキの缶にシーダーの葉を足そうと思った時、自らの裸足に目が留まった。小さな一センチほどの虫が、左足の甲に身動きせずへばりついていた。その姿はあたかも木の幹を抱いた誠一郎自身のようだった。ツリーオブライフが小さき者、人間に対して抱いた感情を、誠一郎はこの虫に対して抱いていた。ひょっとすると誠一郎とこの虫がその感情を共有したことになり得るのではないかと思いたかった。世界はこんなにも簡単に感情を共有出来ると信じたかった。少しばかりの想像力と優しさに身を任せてみるだけで、世界は慈愛に満ち溢れる。心の片隅でほのかな灯火が生まれたような気がした。誠一郎はその虫を人差し指の腹にそっとのせ、足から木の横にある枯れ枝に移動させた。そしてその小さな火をこれからも持ち続けたいと願った。
その午後、儀礼の終わりを祝うポットラックパーティーが行われた。それぞれのキッチンから食べ物を持ちより、皆でそれらの食事を日暮れ近くまで堪能した。常に不器用に部外者と感じていた誠一郎は、なるべくその自意識を押さえ会話を続けた。そして見学者、サポーターとして参加できた喜びを控えめに伝えた。心の奥に広がっていたあの声の未知なる温もりはまだはっきりと輪郭が得られないまま、共有への欲求のみを誠一郎の体内で揺り動かしていた。誠一郎が会話を交わした数人の参加者、そのほとんどが白人だった。そこに集まったネイティブアメリカンのほとんどは高齢者であり、周辺地域のチーフや部族の長老たちだった。誠一郎はスティーブを除けば、その人達と話を交わす機縁を見つけることができなかった。自分のテントに戻ろうと思った時、ハルヒが誠一郎に近づいてきた。彼女は祭儀の間、ムーンロッジのみに滞在しネイティブアメリカンの伝統工芸である織物を作っていたと話した。彼女はアーバーで繰り広げられるダンスや歌を楽しみにしていた。それに参加できなかったことが残念だったと素直に誠一郎に話した。誠一郎は彼が経験した出来事を、ハルヒは幾度となく体験したのだろうと思った。ワレスは二日前に山を下りていた。そして下山する前に誠一郎は、彼に七日間のハンブレイチャを将来させてもらえないかと願い出ていた。四年にわたるハンブレイチャを終了した誠一郎に対して、ワレスはこのサンダンスの祭儀へダンサーとして四年間参加することを望んでいた。しかしあのピアシングから来る痛みやら、四年間参加する誓約を考えると、まだ踏み切れないでいた。その意思表示を延期させる為なのか、単なる思いつきなのか、いつしか三日半ではなく七日間のハンブレイチャを行えば、サンダンスへの気持が整理されるだろうと、誠一郎はこの山を訪れる数ヶ月前から考えていた。ワレスはその話を聞くと、否定や躊躇することなく、私自身は七日間の経験はないが、私の部族で七日間行った時のことを覚えている。だから考えておくよと、誠一郎の差し出したナット・シャーマンの巻きたばこを受け取った。誠一郎はそのことをワレスに話す前に、彼のサンダンサーである、ダレンとサムに同様の相談をしていた。サムはいつでも誠一郎の判断をサポートすると伝え、ダレンはいつものように慎重に話を聞くだけで、彼の意見を口にしなかった。ダレンのパートナーであるハルヒが、誠一郎にそのことについて話をしておきたいと、いつもの微笑みを忘れてきたかのように、少し物憂いな表情で話し始めた。
ハルヒはワレス・タタンカ・ウォキムナカの儀礼をサポートするみんなの総意だと誠一郎に伝えた。それは誠一郎がワレスの儀礼に参加する自分の立場を理解しているかどうか尋ねることだった。誠一郎は今まで、ワレスの儀礼に参加していたお客であり、その儀礼はサポーター達の献身で成り立っていることを理解しているのかと問い正した。誠一郎は西海岸で毎週末行われているスウェットロッジや、パイプセレモニーなどの儀礼の手伝いを全く行ってこなかった。それは二千八百マイルという距離も大きな理由だった。しかしながらその理由以外で、サポーター達を納得させるだけの奉仕作業を行っていなかった。そんな者が規定行事以外の七日間のハンブレイチャをお願いするというのは厚かましい行為ではないかという話だった。ハルヒはつらそうにそのことを誠一郎に話した。同じ日本人と言うことで、世界中通じる基本的な社会通念、それに対して誠一郎の敬意を欠いた姿勢を改めて指摘しなければならなくなった彼女の立場を申し訳なく思った。同時にこれまで自分自身の事ばかり考えていた盲目的な姿が急速に目の前に現れ、このコミュニティーでの自分自身を見失っていた事を理解した。彼の顔は恥ずかしさで赤く硬直した。ワレスだけではなく、サポーター達の心からの同意がなく、次から次へと消費するかのごとく儀礼を体験していくことは、搾取でありネイティブアメリカンの最も恐れていることだった。それは彼らの最後の財産であり、その心の拠り所だった。彼らのかつての土地と生活が、西洋からの移民と政府樹立の名の下によって略奪されていった歴史の痛みに繋がっていた。誠一郎が七日間のハンブレイチャを行い、そしてその経験を物語に仕立て上げ更に映画化を試みることは、これらの搾取と略奪に変わりがないのではないかと、彼女はそこまで口にはしなかったが、次から次へと誠一郎の心の中にこれらの言葉が立ち上がった。誠一郎にとって、サムやダレンのような生活は無理だと感じていた。ワレスの儀礼を毎週のようにサポートし、彼らの生活の中心に置いていた。そして自らの生活をサポートするべく仕事と言えば常に二の手にまわり、自らの家庭を持たない出家に等しい生活を送っていた。そこではサンダンスで自分の肉体に生じるあの痛みよりも、大きな勇気や関わり合いへの誓いを必要とした。彼らはそれらの道を選択し苦悩を重ねてきた者だった。ネイティブアメリカンの儀礼を通して、人々の幸せの為に献身的にコミュニティーに奉仕する。それらを前にすると、誠一郎が思い描いた物語やら映画は絵空事だったのかもしれないと次々と疑念が姿を現しては消え、そしてその後に重苦しい感情が彼の心の中を支配した。智慧の享受には、それに見合うだけの犠牲が伴わなければならないことを誠一郎は知っていた。そしてその犠牲を常に恐怖していた。ハルヒに返す言葉を全く見つけられなかった。
誠一郎はその夜スティーブに誘われ最後のスウェットロッジに入った。暗闇の中、期間中風呂に入れなかった体を蒸気と汗が包みこみ清らかに変えた。スティーブの歌声に合わせ、暗闇の中であればこそ誰の目も気にすることなくラコタ語の歌「ワカンタンカ」を歌った。誠一郎は先ほどまで彼の心を重く支配していた自己嫌悪から少しだけ楽になったような気がした。そしてスウェットロッジ横での着替えの最中、スティーブから一緒に歌ってくれてありがとうと言われた。「ありがとう」「サンキュー」なんの飾りもない、いつも聞き慣れている一言、気持の入らないその一言を随分誠一郎は口にしてきたと思った。スティーブは誠一郎の重い気持を彼の雰囲気から察してか、それとも何も察することなくその清らかな言葉を声に出すことが出来るのか、彼の一言が誠一郎の気持ちを楽にした。暗い道をテントに戻る時、ハルヒが誠一郎を待っていた。先ほどの会話でずいぶん彼女に心労をかけてしまったと誠一郎は暗闇に佇む彼女のことを思った。そしてこうして今もなお誠一郎が受けた感情の変化を思いやるだけの心の大きさをこの女性は持ち続けていた。自分・自分・自分、ここに並べられないぐらい自分のことしか見えていない誠一郎とは、決定的に彼女と誠一郎は何かが違うのだ。もしくは誠一郎には自分以外の人間に対して、接点を導き出す機能の欠陥、もしくはその機能が欠如しているのかもしれなかった。救われたいと思えば思うほど、救われない道を選ぶ性なのかもしれなかった。ようやく絞り出した声は「こんばんは」という間の抜けた言葉だけだった。ハルヒは誠一郎の体から放出しているであろう、負のバイブに包まれながら話を続けた。
「さきほど誠一郎さんがスウェットをなさっているとき、あの夜空に稲妻が立て続けに光っていましたよ。雲一つないのに。おかしいでしょう。よくサンダンスの夜はそんな稲妻が起こるんです。クリエイターからの返事っていうか、何かの反応を起こしているんでしょうね。とってもきれいだった。」
「時差のせいだか、夜になると眠たくてぼんやりしていましたが、ようやく時差も抜けてきた感じです。明日のお昼前には麓のモーテルに行きます。ハルヒさんとダレンはいつ頃たたれますか。」
「私たちも明後日から仕事だから昼前には」
「帰る前にワレスともう一度会って話をしてみようと思っています。」