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第四話 天海勇人

 駅裏の住宅街にある我が家に帰ると、八時を少し回った所だった。普段と比べると随分と遅い帰宅時間だったが、自分で夕飯を作って片づけをしたと考えれば、別段遅すぎる時間と言うわけでもない。

 いつもであれば、風呂に入った後、自室に戻り予習復習に励むところであるが、今日は滅多に向かうことのない父の書斎へと足を向けていた。書斎には読む気すら起きない何かしらの分野の専門書らしい本が無数に並んでいる。勿論目的はそれらではない。

 求めているのは、家族の写真が入ったアルバムだ。忙しい身である父との思い出が映った写真は極めて少ない。母が生きていた幼稚園までの物が五冊に、それ以降の物は二冊だ。殆どが学校行事の物で、中学校からは修学旅行の際に学校側は販売した写真が殆どだ。

 父の机に程近い場所にみつけたアルバムは、可愛らしい簡略化された猫のイラストが表紙になっていた。父親のセンスとは思えないので、死んだ母が選んだのかもしれない。母の人間性が少しだけ見えた気がする。

 そんなアルバムを、今初めて手に取ったと言う違和感に、私は冷や汗をかいた。

どうして今までたったの一度も、母親の顔を見たいと思ったことがなかったのだろうか? 死別したとはいえ、母のことを憎い感じたことなどないのに。

 薄らと積もった埃を払った後、覚悟を決めてアルバムを開く。

 一体、自分の過去を見るのに何の覚悟が必要だろうか? 古いアルバムは私が産まれ少し前、お腹の大きな母親の姿から始まり、病院でわんわんと泣いて両親を困らせる私の姿で終わっていた。

 母親の顔はどの時期の物を見ても痩せ細っていて、全く持って健康からは程遠い。が、私を見つめる表情は慈愛に満ちていて、どれも笑顔だった。どうしてこんな素晴らしい笑顔を忘れてしまっていたのだろうか? 自分に似ている母の顔に、目頭が熱くなる。

「本当だ。先輩の言う通り、お母さんだ」

 同時に、洋介先輩とペットコーナーで言葉を交わした際、脳裏をよぎった女性の姿が母親だと言う確信を得る。人形にも似た姿は、病床で闘う母の姿だった。

 何故? と言うワードが頭の中を駆け巡り、騒々しい痛みを引き起こす。まるで母のことを思い出すのを拒絶するように。

「…………天海君の絵だ」

 痛みからか、それとも違う感情からか、私は気が付けば滂沱の如く泣いていた。

右手で胸元を抑え、左手でスマートフォンを取り出す。呼び出す番号は、今朝交換したばかりの三浦凛。彼女に連絡を取って、天海君に繋いで貰おう。

 この抑えきれない涙を克服するには、先輩の言う通り、彼の絵に縋るしかないと、何故か確信していた。ひょっとしたら、無意識に私は昨日から感じている違和感の正体に気が付いていて、その答えを認めたくないだけなのかもしれない。

 無機質な呼び出し音で無理矢理に心を落ち着かせながら、祈るように電話が通じるのを待つ。何度目かでコール音は途切れ、「もしもし? 早速連絡くれるなんて嬉しいな」と三浦さんの明るい声が耳朶を打つ。

「天海君の」泣いていることを悟られないように、慎重に言葉を紡ぐ。「天海君の絵が見たいんだけど、彼に聴いてもらえない? 四条洋介先輩が褒めてる絵なんだけど」

「…………なんか、事情アリって感じだね。良いよ。聴いてみるから、ちょっと待ってて」

 タダならぬ雰囲気が伝わってしまったのか、三浦さんは迷いなく肯定を口にしてくれた。直後「ゆーとー! 未来ちゃんがあの『変な絵』見たいってー!」丁度二階にいる人間に一階から呼びかけるような声量で凛が勇人を呼ぶ。どうやらこんな時間に二人は同じ場所にいるらしい。「うん、今から。はいはーい」短過ぎる会話を終えると電話口から「お待たせ。『好きにしろ』だってさ」と如何にも天海君らしい台詞で、許可があっさりと降りた。

 住所をメールで送って貰うと、同じ学区内とは言え随分と遠い場所に住んでいるのが分かり、未来は迷いなくタクシーを呼ぶことにした。ステーキをしっかりと全部食べておいて何だが、時間や金銭を惜しんでいる場合ではない。

 この世の不幸を一身に背負いこんだような深刻な顔をする私に、タクシーの運転手は何を思ったのか、ぶっきらぼうに「任せとけ」と言うと明らかに法定速度を無視したスピードで夜の街を走ってくれた。天海家の住所は所謂高級住宅街のど真ん中で、五十代も半ばのドライバーの中では、一体どのようなドラマが繰り広げられているのか少しだけ気になった。

 十五分と少しの時間をかけて辿りついた天海家の家は、屋敷と表現するのが相応しい洋風の三階建となっており、立派な構えの門の前には、タンクトップ姿の三浦さんが待ち構えていてくれた。なんでも、筋トレに嵌っているらしい。

 到着する五分程前に連絡を入れたのだが、まさか出迎えてくれるとは予想外で、心遣いにやや申し訳なくなる。天海君のマイナスに振り切っている外交能力と丁度バランスが取れていると言えるかもしれない。こうやって、世の中のカップルはバランスを取っているのだろうか?

「早かったね。って言うか、まさかのタクシーだよ。帰りはどうするの?」

 タクシーから降りると、三浦さんがそんな事を訊ねる。やや台詞がぎこちないのは、明らかに泣いた後の顔をしている私に、何処まで踏み込んでいるのかを測りかねているのだろう。

「また、タクシーかな? それよりも、知り合ったばかりなのに無茶言ってごめんね」

 つくづく気を使わせてしまっていることを謝ると、三浦さんは「別に良いよ。勇人の友達の頼みだもん」と微笑む。友達の言葉に嫌に力が入っている所から考えるに、天海君に友達ができたことが余程嬉しいらしい。

 正直に言えば、天海君のことを友達と表現するのはかなり気が引けるのだが、夜分遅くにいきなり家を訪ねているわけだし、まさか否定するわけにもいかないだろう。誤魔化すように「ありがとう」と言って、三浦さんの背中について天海邸へとお邪魔する。

 出されたスリッパに履き替えて、案内の通りに三階へと続く階段を上る。邸内は全体的に白く広くゆったりとした印象を与える造りになっていて、天海君のキャラクターとは似ても似つかない。

 ただ、階を上がった天海君の部屋だけは例外で、油絵でも描いているのか、テレピン油の独特の臭いが扉の奥から滲み出ている。どうやら無謀なことに自宅の自室で油絵を描いているらしい。絵の素人の私でもわかる、それは常軌を逸した行動であると。

 この周囲の迷惑を考えない所が、如何にも天海君らしい。洋介先輩ならば『芸術家っぽい』とでも表現するだろう。あの先輩に取って、芸術家とは一体何を指すのだろうか? 天海君の描いた絵を見れば、私にも洋介先輩の気持ちが理解できるのだろうか?

 そして、昨日から抱えていた感情の名前を知ることができるのだろうか?

「この部屋が勇人のアトリエなんだけど……気を付けてね?」

 ドアの前で緊張する私に、三浦さんは静かに言った。

「臭いもそうだけど、あんまり“絵”に注目し過ぎないで」

「え?」

「今年の初め辺りからかな? 勇人の絵は、神がかっているから」

 なんとも大仰で、そして曖昧な評価だ。洋介先輩の説明を思い出す。

「ずっとずっと勇人の絵を見て来たけど、今じゃあ私ですらまともに見られないの。少しでも駄目だって思ったら、部屋から直ぐに逃げてね」

 まるで、猛獣に対する警告だ。私は黙って頷き、ドアノブに手を乗せた。

 私は確かめないといけないのだから。

 扉を二度ノックした。

「入るよ」

 返事を待たずにノブを回す。扉が開くと同時、夏の夜の熱気に混じって室内の臭いが逃げ出す。咽そうになるのを堪え、天海君のアトリエへと足を踏み入れる。

 フローリングの床を埋め尽くす、絵の具で汚れた新聞紙。開けっ放しの窓に、首を回し続ける三つの扇風機。紙製のエプロンを身に着けた、目付きの悪い天海勇人。そして壁際に並べられた不気味な絵の数々。

 深淵のように厚く黒く塗られた背景に浮かぶのは、奇妙で奇怪で、混沌から這い出たような冒涜的で悍ましい化物の姿。確かに、三浦さんの言う通り、直視するのも難しい。それがグロテスクだからと言うのもあるが、それ以上にこの絵には理解を拒む何かが宿っている。わからないから、怖い。極めて原始的な恐怖から逃げ出そうと脳が悲鳴を上げ、ひょっとしたら自分の指で眼球を刳り抜きたい衝動に駆られそうだ。

「…………大塚未来だったな? どうだ? 俺の絵は」

 そんな魔性の絵が並ぶ伏魔殿の中心に立つ天海君が言った。どろりと粘性の低い血液の様な色をキャンパスに押し付けながら、隻眼で私をじっと見つめている。こんな絵を描く彼の視る片目の世界とは一体どうなっているのだろうか?

 わかるわけもない。

「うん」

 だが、そんな私でもわかった事がある。

「そうか、そう言う事だったんだね」

 どうして、こんな単純で当たり前のことを忘れていたのだろうか?

 馬鹿馬鹿しい。そうか、そうか。と、何度も呟く。洋介先輩との会話の違和感が全て消え去り、抱えていた問題が全て解消される。

「ねえ、天海君。四条洋介先輩はもうすぐ死んじゃうんだよね?」

 もはや答え合わせの必要もない。これ以外の正解など有り得ない。

『人は死ぬ』

 それだけ単純な答えから、私は目を逸らし続けて来たのだ。

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