崩れはじめた境界
その日は、何事もなかったように終わった。
……はずだった。
部屋に戻り、ベッドに腰を下ろす。
「今日はさすがに疲れたな」
誠はそのまま倒れ込むように横になった。
「ああ」
俺も短く答える。
だが、体の疲れとは別に――
頭の奥が、重い。
「圭太?」
誠がこっちを見る。
「なんか顔色悪くねえか?」
「……大丈夫だ」
そう言いながらも、額に手を当てる。
熱はない。
なのに、妙に気持ち悪い。
「無理すんなよ」
誠はそれ以上は聞いてこなかった。
その優しさが、少しだけありがたかった。
「先に寝るぞ」
「ああ」
目を閉じる。
すぐに意識は落ちた。
⸻
「……」
目を開ける。
天井が見える。
いつもの部屋だ。
「……なんだ、夢か」
そう思った瞬間――
視界の端が、白く滲んだ。
「……は?」
瞬きをする。
元に戻る。
「……気のせいか」
体を起こす。
その時だった。
床が、一瞬だけ白に変わった。
「っ!?」
すぐに戻る。
「なんだよ……これ」
心臓が嫌な音を立てる。
夢じゃない。
完全に起きている。
「誠」
声をかける。
「……」
返事がない。
隣を見る。
誠は寝ている。
「おい、誠」
肩を揺らす。
「……んー」
反応はある。
だが、起きない。
「……おい」
違和感。
いつもなら、もう少しで起きる。
「……まさか」
その瞬間。
空気が変わった。
『……けい……た……』
「来るな……」
声が、直接頭に響く。
視界が揺れる。
部屋の壁が、白に侵食される。
「……っ!」
立ち上がる。
足元が消える。
白に変わる。
「ふざけるな……!」
ここは現実だ。
そう思った瞬間――
『……違うよ』
背後から声がした。
「……!」
振り向く。
そこにいたのは――
「……お前か」
高梨。
だが、やはり違う。
「もう分かってるでしょ?」
笑っている。
「ここ、どっちだと思う?」
「……」
答えられない。
部屋の形はある。
だが、白が混ざっている。
「境目って言ったよね」
一歩近づく。
「今、あなたはそこに立ってる」
「……戻せ」
俺は低く言う。
「ここは、俺の場所だ」
「そう思ってるだけでしょ?」
即答だった。
「……っ」
言い返せない。
「ねえ、圭太」
距離が近い。
「あなた、もう向こうに足突っ込んでるよ」
ドクン、と心臓が鳴る。
「……違う」
否定する。
「俺はこっちだ」
「ほんとに?」
その瞬間。
景色が切り替わる。
完全な白。
「……!」
部屋が消えた。
「な……!」
「ほら」
高梨が手を広げる。
「どっちでもないでしょ?」
足元が不安定になる。
「戻れ……!」
焦る。
意識が引っ張られる。
「ねえ」
高梨が、少しだけ真剣な顔をする。
「これ以上踏み込んだら、戻れなくなるよ」
「……なら止めろ」
俺は睨み返す。
「お前がやってるんだろ」
「違うよ」
即答だった。
「これはあなたがやってるの」
「……は?」
理解できない。
「あなたが触れてるから」
淡々と続ける。
「境目が壊れてる」
その言葉と同時に、頭に激痛が走る。
「ぐあっ……!」
膝をつく。
視界が歪む。
白が割れる。
断片が流れ込む。
――誰かと笑っている
――手を繋いでいる
――色のある世界
「……っ!」
息が詰まる。
「思い出してるでしょ?」
高梨が言う。
「やめろ……!」
「止めたら終わりだよ」
「終わりってなんだよ!」
叫ぶ。
「全部、消える」
その言葉に、心臓が止まったような感覚がした。
「……消える?」
「そう」
頷く。
「あなたも、私も、この世界も」
「……ふざけるな」
声が震える。
「そんなの、認めるか」
「じゃあどうするの?」
静かに聞いてくる。
答えが出ない。
「……戻る」
俺は絞り出す。
「全部、元に戻す」
高梨は一瞬だけ驚いた顔をした。
そして――
「ほんとにできると思う?」
試すような目。
「……やるしかねえだろ」
俺は立ち上がる。
足は震えている。
だが、逃げるわけにはいかない。
「……そっか」
高梨は小さく笑った。
その笑いは、どこか寂しそうだった。
「じゃあ、もっと深く来て」
その瞬間。
白が一気に広がる。
「っ――!」
意識が引きずられる。
限界を超える。
「……圭太!」
遠くで声が聞こえた。
誠だ。
「……!」
その声に、意識が引き戻される。
白が剥がれる。
部屋が戻る。
⸻
「圭太!!」
目を開けると、誠が目の前にいた。
「……はっ」
息が荒い。
体が震えている。
「お前……やばいぞ」
誠が真剣な顔で言う。
「さっき、完全に反応なかった」
「……どれくらいだ」
「数分だと思うけど」
「……そうか」
数分。
だが、体感はもっと長い。
「顔色、最悪だぞ」
誠が眉をひそめる。
「……大丈夫だ」
そう言うしかない。
だが、分かっている。
これは――
「やばいな」
俺は天井を見上げる。
白はもう見えない。
だが、確実に――
近づいている。
「圭太」
誠が呼ぶ。
「……なんだ」
「無理すんなよ」
「……ああ」
短く答える。
だが、心の中では別のことを考えていた。
――戻れなくなる
あの言葉が離れない。
「……どこまでなら、戻れるんだ」
小さく呟く。
その答えは、まだ見えなかった。




