第一話 紺色
毎日使っているものほど、私たちはそれを見ていない。
紺色です、と私は言った。
それから、普通の、と付け足した。
窓口の人はペンを止めたまま、続きを待っていた。
続きは、なかった。
「長傘ですか、折りたたみですか」
「長傘です」
「持ち手の形は」
「……普通の、曲がってるやつです」
窓口の人は「少々お待ちください」と言って、奥の棚へ消えた。駅の忘れ物センターは、改札の横の細い通路の先にあった。蛍光灯が一本だけ切れかけていて、ときどき、まばたきをするように暗くなる。
昨日の夕方、雨はホームに着く前にやんだ。電車を降りるころには空が明るくて、私は傘のことなんか忘れていた。思い出したのは、家の玄関で靴を脱いだときだ。手が、なにかを立てかける場所を探して宙に浮いた。
「またか」と修は笑った。「今年三本目」
「二本目だよ」
「三本目。春に、駅前のコンビニで一本」
そうだったかもしれない。私はよく物を忘れる。子どものころからだ。連絡帳、体操服、家の鍵。母は怒るのに疲れて、いつからか「透子は、そういう子だから」と言うようになった。そういう子、という言い方は、怒られるより少しだけ寂しかった。
窓口の人が戻ってきた。両腕に、紺色の長傘を三本抱えていた。
「こちらの中にありますか」
カウンターに並べられた三本は、どれも同じように見えた。一本は少し長い。一本は柄が木でできている。残りの一本を手に取ると、指が覚えている重さがした。
「これです、たぶん」
「たぶん」
「これです」
窓口の人は、私の手元を見て、もう一度ペンを持った。
「念のため伺いますが、持ち手に何か付いていますか」
「いえ、何も」
「透明のテープが巻いてありますね」
見ると、持ち手の曲がり始めのところに、セロハンテープが二重に巻いてあった。指でなぞると、端が少しめくれていた。
覚えがなかった。
「……じゃあ、違うかもしれません」
そう言いながら、私は他の二本を見た。長すぎる一本は、明らかに男物だった。木の柄のほうは、新品のように値札の跡が残っていた。
「でも、他のは違います」
「では、こちらでよろしいですか」
「はい」
書類に名前と電話番号を書いた。窓口の人は、受け取りの欄に判子を押して、「お気をつけて」と言った。とても丁寧な人だった。丁寧すぎて、私が最後まで傘の特徴を言えなかったことを、ずっと覚えていそうな顔をしていた。
家に帰ると、修が台所に立っていた。換気扇の音に混ざって、油のはねる音がした。
「おかえり。傘、あった?」
「あった」
傘立てに差しながら、私は言った。
「ねえ、これ、テープ巻いてあるんだけど」
「うん」
「うん、って」
「前から巻いてたじゃん。骨が一本緩いって、自分で巻いてた」
修はフライパンを揺すりながら、振り向きもしなかった。
「そうだっけ」
「そうだよ。梅雨のころ。玄関でセロテープ探してただろ」
言われると、そんな気もした。玄関で、セロテープを探した夜。引き出しを全部開けて、修に「そこじゃない」と言われた夜。あった気がする。あったのだろう。私は、そういう子だから。
夕飯のあと、私はスマホのメモを開いて、新しいページを作った。
『傘 紺色 長傘 持ち手に透明テープ(二重) 骨が一本緩い』
次になくしたとき、ちゃんと言えるように。窓口の人が、ペンを止めて待たなくてすむように。
それから玄関に行って、傘を開いてみた。
一本ずつ、骨を指で押していった。八本。どれも、しっかりと張っていた。緩んでいる骨は、一本もなかった。
直したのかもしれない。修が。
私はメモの「骨が一本緩い」を消して、傘を閉じた。
そういうことにした。




