4話 異世界で初めての外出
それからの日々は、リサにとって地道な“リハビリ”の連続だった。
以前なら当たり前にできていた動作も人の助け無しでは出来なくなっていた。
五日間寝込んでいたことで足の筋力は驚くほど衰えて、最初は立つことさえままならなかった。
今では、歩くことは出来るが、走るための体力はもう少しつけないと行けなさそう。
それに、スープを飲むだけで疲れていた頃に比べれば、少しずつ“自分の体”を取り戻しつつあるのを感じる。
どうやら、もともと少食だったらしく、すぐにお腹はいっぱいになってしまう。リサとしては『太らなくて済む』と、前向きに受け止めることにした。
広々とした屋敷の回廊を、ジーンと一緒に歩く。一週間ほど経つ頃には、庭まで散歩に出られるほどに回復していた。
初老の医師も二日に一度の頻度で屋敷を訪れ、リサの快復を目にするたびに、まるで自分のことのように喜んでくれた。
ある日の午後。自室の窓辺のテーブルで、クロードが銀のティーセットを整えていた。淹れたての紅茶からは、ほのかに甘い香りが立ちのぼっている。
リサの前にそっと置かれたティーカップに、クロードが静かに言葉を添えた。
「本日は、貴族としての立ち居振る舞いについて、お時間をいただければと」
「……貴族の?」
リサが首をかしげると、クロードはごく自然な仕草で背筋を伸ばし、穏やかに微笑んだ。
「この国では、家格や礼儀が公の場での信頼に直結いたします。まずは、姿勢から参りましょう」
こうして、“貴族としてのリハビリ”が始まった。
椅子に座る角度、ティーカップの持ち方、他者へのお辞儀の深さ。
一つひとつに細かな所作のルールがあり、それを“自然に”こなせるようになるまで、繰り返し練習を重ねた。
「リサ様、左手はカップの下です。利き手が逆であっても、これはこの国の式典での基本となります」
「は、はい……!」
クロードの指導は一切の妥協がなかったが、それでもリサの成長を見て、ジーンが嬉しそうに拍手を送ってくれることが励みになった。
そして、リサの真面目な姿勢に、クロード自身もつい指導に熱が入っていく。
そうした穏やかな日々が続いていた、ある日の午後のことだった。
リサの顔色も体調もすっかり安定し、心にも少し余裕が出てきた頃、クロードがふと、ひとつの提案を持ちかけた。
「そろそろ、屋敷の外へ出てみるのはいかがでしょうか」
「えっ、外に……?」
まだ自信のないリサは驚いたように聞き返した。すると、クロードは一歩踏み出すように言葉を続ける。
「王都劇場で、最近人気の劇団が巡業に来ているんです。“侯爵夫人”としての社交の第一歩として、観劇などいかがかと」
「……観劇……」
突如舞い込んだ“おでかけ提案”に、リサは思わず固まってしまう。
(外に出るって……私、まだ挨拶もぎこちないし、ドレスもまともに着られないし……)
そんなリサの戸惑いをよそに、クロードは淡々と続けた。
「ご安心ください。私とジーンも同行いたします。劇場の一室は既に貸し切っておりますので、他者との接触も最小限に抑えられます」
その“万全すぎる配慮”に、逆に逃げ道を塞がれたリサは、観念したように小さくため息をついた。
「……わかりました。お手柔らかに、お願いします……」
こうして、リサとしての異世界生活初めての“おでかけ”が、静かに幕を開けた。
馬車は、ゆっくりと屋敷の正門を抜け、石畳の通りへと出た。柔らかなクッションに包まれた座席に、リサは緊張気味に腰かけていた。
向かいにはクロードとジーンが並んで座っている。車輪のリズムが、かすかに振動となって足元に伝わってきた。
しばらく、誰も口を開かなかった。外の景色が流れていく。街並みの屋根や、陽光を反射する噴水が遠ざかっていく。
「……あの、ちょっと聞いてもいいですか?」
リサが静かに口を開くと、二人はぴくりと反応した。クロードが穏やかな表情で頷き、ジーンも小さく微笑んだ。
「はい、リサ様。何なりと」
「私に仕えてるのって、お二人だけなんですか?なんというか、もう少しいてもいい様な気がして…」
その問いに、クロードとジーンが目を見合わせた。あからさまに困った様子を見せるのが、かえって何かを物語っているようだった。
「ええと……それには、少々事情がございます」
先に口を開いたのはジーンだった。
「リサ様は“婚約期間”という事で、侯爵家の中では“お客様”としてお迎えしている状態です」
「お客様って、じゃあ、あの部屋も……」
「はい。現在ご滞在いただいているのは、正式な夫人の部屋ではなく、客間でございます」
そう答えながらも、ジーンの声には申し訳なさが滲んでいた。続けてクロードが言葉を継ぐ。
「本来であれば、エルフィンバート伯爵家から複数の使用人をお連れになり、この屋敷での生活を共にされる予定だったのです」
気まずそうにクロードが続ける。
「ですが、リサ様はお一人でこの屋敷に来られたため、」
「私が専属のメイドとして、お世話をさせていただいております!」
空元気に応えるジーンにリサもクロードも助けられた。そんな雰囲気が流れる。リサは、なるほど……と心の中で静かに頷いた。
(前のリサも、けっこう苦労してたのかも……)
決して口にはしないが、その孤独な姿がなんとなく目に浮かぶ気がした。
「それで、私の夫のヒューゴさんというのは?」
ふと、もう一つの疑問を投げかけてみる。リサの“夫”とされる人物、ヒューゴ・デカルト侯爵について、これまでほとんど話題に上がってこなかった。
クロードが、これまた少し言いづらそうに息を吐いた。
「旦那様には、リサ様が倒れられた直後にお手紙を差し上げております。ですが、現在は隣国との外交任務に就いておられまして……」
「……すぐには戻って来られないのよね?」
「はい。おそらく、帰還はもう少し先になるかと」
リサは、勝手に年上のおじさんをイメージしているため、もう少し心の準備ができるまでは、帰って来ないで欲しいと思っていた。
馬車の車輪が街角の石畳を滑る音だけが、しばらく静寂を満たす。やがて、クロードが意を決したように口を開いた。
「……申し上げにくいのですが、リサ様とヒューゴ様とは家柄同士による政略的な結婚でございます」
言葉を選ぶように慎重な声だった。
「……婚約当初から、旦那様とリサ様は、それほど親しいご関係だったとは言いづらく、むしろ、少し距離を置いておられたようにお見受けしておりました」
リサは一言も返さなかった。胸の内では、いろんな思考がぐるぐると回っていた。
(家柄の為に結婚……“女狐”なんて異名を持つ相手と……)
妻が倒れてもすぐに駆けつけない。それは冷たいとも取れるが、同時に、無理もないとも思えた。
(……そう思うと、ちょっと、可哀想かもね)
リサは心の中で、まだ見ぬ夫に対して、妙な同情を覚えていた。
(やっぱり、この“リサ”って人、相当訳ありだったんだな……)
馬車は街の中心部へと入り始めていた。人々の声が窓の外から届き始め、王都の活気が少しずつ近づいてくる。
漫画の1巻で登場するリサは、数少ない登場シーンでも印象は最悪だった。貧しい出身の主人公を陰ではありもしない噂を流したり、取り巻きと結託して主人公を笑い者にしたり。
まだ見ぬ2巻以降の彼女の行動は、"女狐"らしいものだと安易に予想できた。
汚名を拭う為にも、改めて気合が入るリサであった。