1話 推しに会いに行くだけなのに
虚な目を開けたその女性の視界には、可憐な模様をあしらった天井が広がっていた。
職人の手で作られたであろう彫刻が施された天井。窓辺には、細かい花柄の白いレースのカーテンが垂れ下がっている。反対側の壁には見るからに高級そうな薔薇が描かれた絵画が飾られている。
まるで、テーマパークに併設された高級ホテルの一室。いや、それ以上に、そこは女の子が一度は夢見る”お姫様の部屋”だった。
ふかふかの枕と、体を優しく包み込む寝心地のいいシーツ。そこに差し込むカーテンの隙間から漏れ出る朝の光が、部屋の中に穏やかな明るさと暖かさをもたらす。外からは、鳥のさえずりが心地よく響いていた。
至福の様な状況だというのに、その女性は瞬きも忘れたままじっと天井を見つめていた。
目の奥に浮かぶのは、焦りと戸惑いの色。意識ははっきりしている。けれど、頭の中は霞がかかったようにぼんやりとしていて、記憶の輪郭に手を伸ばすほど、それはするりと逃げていった。
ただ、名前だけはすぐに浮かんだ。
『理沙。私は理沙!』
その瞬間、激しい頭痛と共に、彼女の脳裏には、ひとつの光景が鮮やかに流れ込む。
確かに彼女は理沙という名の、日本人で働く普通の女性だった。
百貨店のコスメフロアに勤務し、口紅やファンデーションなど、自分に合うモノを吟味するお客様に笑顔で応じながらも、心の中では別の事をよく思い描いていた。
『今日は、蕾ちゃんの生誕祭!』
理沙の“推し”である蕾ちゃんとは、都内のライブハウスで活動するいわゆる地下アイドル。
歌もダンスも決して上手ではない。
けれど、誰よりもひたむきで、ファン一人ひとりをまっすぐに見つめるその瞳が、理沙の心を掴んで離さなかった。
その笑顔に会うために、日々の立ち仕事に耐えていた。理不尽なクレームも、不機嫌な先輩の小言も、蕾ちゃんとのチェキのためなら我慢できた。
その日も、仕事を終えたらすぐに電車に飛び乗ってイベント会場へ向かう予定だった。
仕事を終え、ロッカールームで急いで着替え、スマホケースに挟んだ蕾ちゃんのステッカーを確認し、完璧な“推し活モード”へ切り替えた。
夜の街は、少し湿った春の匂いに包まれていた。早足に駅を目指し、横断歩道の信号が青に変わった瞬間、それに従って歩き出した。
その時だった。
視界の隅から信じられないほど眩しい光が飛び込んでくる。同時に、クラクションの音が空気を切り裂いた。
それが、彼女の最後の記憶だった。
体が宙に浮くような感覚。痛みよりも、冷たさと恐怖が彼女の全身を包み込む。理沙は、自分が“死ぬ”ことを確かに悟った。
(それなのに、なんで……。こんなところにいるの?)
意識はある。呼吸もしている。だが、体が思うように動かない。手を上げようとしても力が入らず、布団がまるで岩のように重たく感じられた。
生きているのか。あるいは、これが死後の世界なのか。混乱と不安が、胸の内を荒れた海のようにかき乱す。
それでも、耳だけは妙に冴えていた。外からは、誰かの話し声が微かに聞こえてくる。
そして、不意に扉の取っ手が回る音が部屋に響いた。その瞬間、理沙の全身に緊張が走る。
(誰かが、部屋に入ってくるーー!)