第22章 暗殺者と捕食者の違い
現在。
この冷たく無機質な空間において、時間はただ残酷に歩みを進めている。
戦場は、まるで世界そのものが息の根を止められたかのように、異様なまでに静まり返っていた。
しかし、それは決して「何も音がない」という平穏な意味ではない。鼓膜を打つ物理的な音が消え去っただけであり、空間を満たす気配はむしろ喧騒よりも激しかった。
むしろ逆だった。
あまりにも強大で、圧倒的で、絶望的な圧力によって、空気そのものが動くことすら恐れているようだった。風すらも吹き抜けることを躊躇い、ただ重苦しい静寂だけがその場を完全に支配している。肺を持たないアンデッドでさえ、呼吸が詰まるような錯覚を覚えるほどの重圧。
カナヴィンは、冷たい石畳の上に立ち尽くしていた。
全身の骨が、見えない重力によってへし折られそうに軋む。
空っぽの眼窩の中で、彼の命の灯火である青い炎が、まるで目に見えない巨人に怯えるように、あるいは自らの消滅に必死に抗うように激しく揺らめいていた。
彼の視線の先に広がっている光景。
それは、彼がこの死地へ辿り着くまでに描いていた予想とは、あまりにもかけ離れたものだった。
壁。
分厚く、高く、そしておぞましい「生きた壁」だった。
戦場の最奥、その中心で不気味な脈動を繰り返す巨大な赤黒いジェム。ダンジョンの心臓部とも言えるその結晶を幾重にも囲み、守護するように、数百体もの魔物が整然と立ち並んでいた。
オーク、トロール、ゴブリン、ミノタウロス、そして血塗られた重装甲を纏ったブラッドナイトたち。通常であれば統率を取るのも難しいはずの多種多様な魔物たちが、まるで一つの生き物であるかのようにピタリと息を合わせている。
その全てが戦闘態勢。誰一人として列を乱さず、武器を構え、牙を剥き、いつでも一斉に襲い掛かれる完璧な姿勢を保っていた。
そして。
その後ろ。
この絶望的な軍勢のさらに奥深く、全てを睥睨し、全てを意のままに操っている絶対的な存在がいた。
ブラッディ・タワーの主。
アーデン。
レベル118。
Sランク・タワーボス。
完璧な罠と空虚な疑問
頭上に浮かび上がるその情報が、カナヴィンの心に冷たい楔を打ち込む。
カナヴィンの白骨の指が、持っていた短剣の柄をギリッと強く握り締められる。骨と金属が擦れる嫌な音が、静寂の中で微かに響いた。
「……」
声が出なかった。
「これは……」
掠れた声が、歯の間からようやく漏れる。
「予定と違う」
彼はゆっくりと、警戒を解かずに左右の視界を確認する。
魔物たちは微動だにしない。ただ殺意だけをカナヴィンに向けて放ち続けている。
だが。
彼らは動く必要などなかったのだ。
その圧倒的な数と、完璧に統率された存在感だけで、すでに十分すぎるほどの暴力を形成していた。動けば即座に数百の武器が自分を粉砕するという事実が、カナヴィンをその場に釘付けにしている。
彼は罠に入った。
あまりにも見え透いていて、だからこそ気付けなかった、完璧な罠に。
頭の中で、無数の疑問が嵐のようにぶつかり合う。
なぜ?
なぜ、これほどまでの数の魔物たちが、前線に出ることもなく敵の本拠地に密集して集まっている?
なぜ、自分が通ってきた他のレーンには、拍子抜けするほどほとんど魔物がいなかった?
なぜ、これほどまでに簡単に、無傷のままこの最奥まで進んでくることができた?
カナヴィンの眼窩で燃える青い炎が、激しく揺れる。
まるで、パズルのピースが一つ一つはまっていくような、最悪のひらめき。
「……」
「まさか……最初から……」
その時。
彼の張り詰めた思考を、残酷なほどあっさりと遮る声が響いた。
底抜けに楽しそうな、まるで子供がおもちゃを見つけた時のような声。
「おや?」
絶望の玉座と血の君主
アーデンは、白骨と鮮血で彩られたおぞましい玉座から、少し前へ身体を傾けた。
彼の動きに合わせて、血の川のように長い赤髪が揺れる。
玉座の肘掛けに頬杖をつき、遥か下方に立つ小さなスケルトンを見下ろしながら、その端正な口元を三日月のように歪めた。
「お前が今、何を考えているのか……」
アーデンの赤い瞳が、カナヴィンを射抜く。
「俺には、手に取るように分かるぞ」
彼は退屈そうに、長い指を振る。
「『なぜ魔物たちは本拠地に集まっているんだ?』」
「ってな」
「それと、それと……」
「『どこで計算を間違えた?』『どうすればここから生きて帰れる?』……他にも色々、必死にその空っぽの頭蓋骨の中で考えているんだろう?」
アーデンは大げさに肩をすくめてみせた。
「まあ、そんなことは……」
「どうでもいい」
「くだらない疑問だ」
そして。
彼はいきなり、腹の底から湧き上がるような声で笑った。
「ククク……ハハハハハッ!」
「理由は簡単だ」
笑い声がピタリと止まる。
彼の表情が、一瞬にして変わる。先ほどまでの、強者としての余裕ある笑みが完全に消え去る。
残ったのは、ただひたすらにどす黒い、純粋な悪意。
「お前を、この手で直接潰したかったからだ」
その言葉に呼応するように、周囲を囲む数百体の魔物たちが、一斉に低い唸り声を上げる。空気がビリビリと震える。
「徹底的にな。絶望の底まで叩き落として、二度と這い上がれないように」
アーデンの目の下から、赤い滴がゆっくりと流れ落ちる。
それは涙ではない。
血だ。
彼自身の目から流れ出した血が、意思を持つように空中で集まり、硬化し、形を成していく。
彼は、自分の血管と血液から作られたおぞましい魔法の槍。
ヴェインスピアを空中で力強く握りしめた。
「お前が……」
槍の切っ先が、カナヴィンに向けられる。
「ダンジョンメニューなんて便利なものが存在しなかった、ただの骨だった時間軸を心底望むくらい」
「自分がタワーの攻略なんて大それた夢を持っていなかった、平和な世界を想像して泣き叫ぶくらい」
「後悔するほどにな」
アーデンは玉座から立ち上がり、ゆっくりと階段を降りると、手にした槍を地面へと無造作に叩きつけた。
ドォォォン!!
たったそれだけの動作。
それなのに、発生した衝撃波が戦場全体を激しく揺らし、カナヴィンの骨の身体を吹き飛ばそうとするほどの暴風を巻き起こした。
「ただの地面に転がる、犬にすら齧られないような価値のないスケルトンだった頃を思い出せ。お前は、分を弁えなかったのだ」
後悔と奇妙な静寂
カナヴィンは、吹き荒れる風の中でじっと立ち尽くし、黙ってアーデンを見つめていた。
初めてだった。
この終わりの見えない戦いの中で、彼が明確に「それ」を感じたのは。
恐怖ではない。
スケルトンである彼には、肉体的な死の恐怖は薄い。
だが。
それに限りなく近い、魂を削られるような感情。
己の愚かさに対する、圧倒的な『悔しさ』。
なぜなら。
彼は、アーデンの言葉を聞いて、ようやく全てを完全に理解したからだ。
「……」
「だから……」
「中央と右レーンに、魔物が一匹もいなかったのか」
口から漏れる声が、徐々に小さくなる。
「だから……あんなにも簡単に、左レーンを突破できたのか」
全ての点と点が、最悪の形で繋がった。
左レーンの防衛網を破壊。
そこから中央レーンへ隠密移動。
さらに右レーンへと迂回。
そして、手薄になった敵の本拠地へ奇襲をかける。
完璧な作戦。
裏の裏をかいた、暗殺者としての最高の立ち回り。
ずっと、そう信じて疑わなかった。
しかし。
違ったのだ。
自分が賢いと信じて進んできたその道は。
最初から、敵のボスが「ここを通れ」と親切に用意してくれた、レッドカーペットの敷かれた誘導路だったのだ。
「俺は……」
カナヴィンは、持っていた短剣の柄で、コンッと自分の頭蓋骨を叩いた。
「なんて気付かなかったんだ」
一回。
「俺は本当に馬鹿だ。あんな不自然な静けさ、少し考えれば分かることじゃないか」
二回。
「本当に……」
三回。ガンッ!
「俺は、救いようのない大馬鹿野郎だ!!」
自分自身への怒りに任せて、ひときわ強く頭蓋骨を殴りつける。
その異様な光景に、周囲を取り囲んでいた殺気立った魔物たちが、思わず一瞬だけ沈黙する。
張り詰めていた空気が、奇妙な戸惑いへと変わる。
(……今、自分で自分を殴っているのか?)
最前列にいた一匹のゴブリンが、武器を下ろして隣に立つオークの魔物をチラッと見る。
(……ああ。スケルトンってのは、ああいう風に自分を殴って気合を入れる種族なのかもしれない。アンデッドの考えることはよく分からん)
隣のオークが、困惑したように豚のような首を傾げる。
そんな、緊迫した戦場には全くそぐわない、奇妙で間の抜けた空気が流れる中。
暗殺者の覚醒と越えられない壁
カナヴィンは、突然その奇行をピタリと止めた。
「……」
そして。
叩きすぎて少し傾いた頭蓋骨を、左右に振って元の位置に戻す。
「いや」
「違う」
「済んだことを後悔するのは後だ。今は、集中しろ」
眼窩の奥で揺らいでいた青い炎が、一瞬にして鋭く、細く、冷たい光へと変わって燃え上がる。
「ここで一瞬でも気を抜いたら……」
「戦う前に、俺は死ぬ」
彼の雰囲気が、劇的に変わる。
先ほどまでの、どこか間抜けでふざけたような雰囲気は完全に消え去った。
自嘲も、後悔も、絶望も、全てを頭蓋骨の奥底へと封じ込めた。
残ったのは。
ただ一つの目的のために命を刈り取る、純粋な『暗殺者』としての顔。
カナヴィンは、改めて玉座の前に立つアーデンを真っ直ぐに見据える。
そして。
その頭上へと視線を向け、システムにアクセスする。
空中に、半透明のステータスウィンドウが表示される。
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【名前】
アーデン
【レベル】
118
【ランク】
Sランク・タワーボス
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カナヴィンは、その絶望的な数値を静かに見つめる。
「……アーデン」
その名前を、頭の中で何度も反芻する。
Sランク。
今の自分とは、文字通り次元が違う、遥かにかけ離れた存在。
以前、偶然遭遇し、戦うことすら許されなかった未知の強者たちと同じ感覚。
絶対的な、越えられない壁。
そう思った瞬間だった。
影と血の攻防
―――
静止していた魔物の群れが、ついに動いた。
ドォォォォォォン!!
地鳴りのような咆哮。地面がトランポリンのように激しく揺れる。
数百体もの魔物が一斉に殺意を剥き出しにして突撃を開始した。
大地を蹴る足音が、重低音のドラムのように戦場に響き渡る。
だが、カナヴィンは即座に動いた。
「影潜り」
彼が低く呟くと同時に、足元の影が意思を持つように広がり、彼の白い骨の身体を黒く包み込む。
瞬きする間に、カナヴィンの姿が完全に戦場から消え去る。
暗殺者は、真正面から軍隊と殴り合うような馬鹿な真似はしない。
敵の猛攻の隙間を、流れる水のように抜ける。
装甲の薄い場所、警戒の緩い場所、即ち弱点を探し出す。
そして。
気付かれる前に、確実な一撃で心臓を貫く。
それこそが、暗殺者の戦い方だ。
カナヴィンは影の世界から現実世界を覗き込みながら、怒り狂う魔物たちの攻撃を紙一重で避け続ける。
巨大なオークの振り下ろした棍棒が、カナヴィンのいた空間を粉砕する。
一歩。
ブラッドナイトの放った血の斬撃が、彼の頬骨の横を通り過ぎる。
二歩。
無数の矢と魔法が雨のように降り注ぐ中を、影から影へと跳躍する。
三歩。
そして。
彼は、軍勢の最後尾にいた一体の魔物の背後へと、音もなく接近した。
「悪いな。お前が最初の生贄だ」
冷酷な呟きと共に、全体重を乗せた短剣を、無防備な首筋へと一閃する。
―――必殺の斬撃。
肉を裂き、骨を断つ確かな感触が手に伝わるはずだった。
しかし。
ガキィィィィン!!!
火花が散り、強烈な反発力がカナヴィンの腕を弾き返した。
「……何?」
何かが、彼の完璧な奇襲攻撃を完全に止めていた。
対象の首筋と短剣の間。そこに、突如として出現した赤い壁。
血。
ただの液体の血ではない。
鋼鉄よりも硬く、瞬時に結晶化して硬化した血の防御壁。
それが、暗殺者の短剣の刃を完全に受け止め、防いでいたのだ。
魔物には傷一つ、かすり傷すらついていない。
カナヴィンは即座に反撃が来る前に大きく後ろへ跳躍し、再び距離を取る。
「これは……ただの魔法じゃない。防壁自体が生きているのか?」
その瞬間。
アーデンの、腹の底から響くような深い笑い声が戦場に響いた。
「ハハハハハ……」
暴かれた秘密と真の絶望
アーデンは、自分の作り出したヴェインスピアを、余裕の態度で肩へ乗せる。
カナヴィンの動きが止まる。周囲の魔物たちも、主の言葉を聞いてピタリと追撃を停止した。
アーデンは、まるで虫を観察するような目でカナヴィンを見る。
「本当に、俺が何も知らなかったとでも思ったのか?」
「お前がこのタワーに潜り込んだ理由。お前が何を狙って、コソコソと動き回っていたのか」
カナヴィンの眼窩の炎が、激しく揺れる。
アーデンは言葉を続ける。
「お前が、喉から手が出るほど欲しがっていたもの」
「ヒューマノイド機能」
完全な沈黙が落ちた。
カナヴィンの青い炎が、一瞬だけ消えかかったかのように小さく揺らぐ。
それは。
彼が誰にも言わず、心の奥底に隠し続けていた、最大の目的。
莫大なダンジョンポイントを集める理由。
進化への渇望。
ただの弱小なスケルトンという底辺の存在から抜け出し、強大な肉体を得て、更なる高みなる存在になるための唯一の希望の力。
アーデンは、楽しそうに続ける。
「もし、お前がそのヒューマノイド機能を手に入れたら……」
「俺にとっても、ほんの少しだけ、本当に危険な存在になるかもしれない」
カナヴィンは、空いている左手の拳をギリッと握る。
「どうして……」
「どうして、お前がそれを知っている……?」
アーデンは、肩を揺らして笑う。
「親切な俺が、特別に説明してやろう」
彼が指を鳴らすと、戦場全体が水を打ったように静まり返る。
「ヒューマノイド機能はな、ただ骨に肉がついて、人間の姿に変わるだけのお遊び機能じゃないんだよ」
アーデンの操作により、カナヴィンの目の前に、システムが隠蔽していた詳細な情報画面が強制的に表示される。
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【ヒューマノイド機能】
一部の魔物種族が、人型へと劇的な進化を遂げる特殊機能。
効果:
・進化可能性の大幅上昇
・ランクが強制的に1段階上昇
・レベルが即座に30上昇
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「見たか?」
アーデンの声が、冷たく響く。
「もしお前がAランクの魔物なら」
「一瞬にしてSランクの領域に足を踏み入れる」
「もしレベル80だとしたら」
「一気に110を超える」
「1ランクの差」
「そして、それは最低でも30レベル分の圧倒的なステータスの差を埋める劇薬だ」
アーデンは肩に乗せていた槍を外し、再びカナヴィンへと切っ先を向ける。
「ただの小さな、取るに足らないスケルトンだったお前が……」
「その特異な力を手に入れれば」
「もしかすると、この俺の首に短剣を届かせる、脅威に挑戦できる存在に化けるかもしれない」
カナヴィンの眼窩の炎が、怒りと焦燥でゴウゴウと燃え上がる。
「くそっ……」
「どうして、俺の狙いがピンポイントで分かったんだ……!」
アーデンは、まるで極上のワインでも味わうかのように、うっとりとした表情で笑った。
「決まっているだろう?」
彼は、威圧感を放ちながら、ゆっくりと一歩前へ出る。
「俺は……」
「自分の庭をうろつくネズミの目的も把握できないような、単純な馬鹿じゃない」
その言葉を合図に、待機していた数百体の魔物たちが、一斉に天に向かっておぞましい咆哮を上げる。
戦場が、殺意の音波でビリビリと震える。
そして。
カナヴィンは、骨の髄まで理解した。
この戦いは。
敵の本拠地に侵入し、巨大なジェムを破壊するための戦いではなかったのだ。
敵の包囲網を抜け、ボスへと辿り着くための困難な道程でもなかった。
最初から。
アーデンは、自分のジェムを防衛していたのではない。
わざと道を開け。
わざと油断させ。
わざとこの最奥の密室へと誘い込んだ。
彼は。
未来の脅威となるかもしれない哀れなスケルトンを。
この絶望の檻の中で、確実に、残酷に、遊びながら狩っていたのだ。
正直なところ、たまに自分でも何を書いているのか分からなくなるんですよね(笑)。




