第二話 既読のつかない夜
塚原みのりのスマートフォンは、朝から枕元で伏せられていた。
電源は入っている。通知も来る。けれど、みのりはそれを見ないようにしていた。
画面を見れば、そこには店のグループLINEがある。店長の大河内の名前がある。ホールリーダーの原嶋菜月の名前がある。今日の十七時から二十三時まで、自分がシフトに入っているという、消えない予定がある。
分かっていた。分かっているから、布団から出られなかった。
カーテンの外では、五月の朝がもう完全に始まっていた。隣の部屋の住人が玄関を閉める音。階下の駐輪場で、誰かが自転車のスタンドを蹴る音。遠くの小学校から、チャイムのようなものが聞こえた。
世の中は、みのりが布団の中で固まっていることなど知らずに、いつも通り動いている。
午前九時二十一分。母親からメッセージが来た。
〈今日バイト? ちゃんと食べてる?〉
みのりは、その通知を見て、なぜか涙が出た。
泣くほどのことではない。母親は普通に心配しているだけだ。今日バイトなのかと聞いているだけだ。それなのに、その一文で、十七時という時刻が急に輪郭を持った。
夕方になれば、自分は黒いシャツを着て、髪を結び、店へ行かなければならない。
金曜の炉端の蔵。炭火の熱。生ビールの泡。常連客の声。大河内の声。菜月の笑顔。行かなければならない。その言葉だけが、布団の中で重くなっていった。
みのりはスマートフォンを手に取った。
店のグループLINEには、前夜からの連絡が残っていた。明日の予約が多いこと。十八時半から十二名。十九時から六名。十九時半から八名。
金曜だから遅刻しないように、という大河内のメッセージ。菜月の「明日ちょっと大変そうだけど、みんなで頑張ろう」というスタンプつきの言葉。
どれも、普通の業務連絡だった。普通の業務連絡が、今のみのりには責めてくるように見えた。
画面を閉じる。また伏せる。
今日行けません、と送ればいい。
辞めたいです、と送ればいい。
せめて、体調が悪いので休ませてください、と送ればいい。
分かっている。分かっていることばかりが、身体を重くしていた。
連絡すれば、会話が始まる。会話が始まれば、理由を聞かれる。理由を聞かれれば、一回店に来て話そうと言われるかもしれない。急に言われても困るんだよ、と言われるかもしれない。みんな頑張ってるんだからさ、と言われるかもしれない。
その一つ一つは、たぶん正論だった。
アルバイトとはいえ、シフトに入った以上、行かなければ店は困る。人に迷惑をかけてはいけない。連絡くらいするべきだ。みのりにも分かっていた。自分は二十二歳で、大学生で、もう子どもではない。
でも、正しいことを分かっていることと、その正しいことができることは、同じではなかった。
午後になっても、みのりは布団から出られなかった。部屋の中の光が、朝の白さから、少し黄色を帯びた昼の色に変わっていく。冷蔵庫の低い唸り声。エアコンの送風口に溜まった埃。テーブルの端に置いたままの小銭入れ。
昼間なら見過ごせるものが、今日はすべてこちらを見ているようだった。
十五時を過ぎると、スマートフォンを見るのがさらに怖くなった。
十六時。まだ間に合う。今から支度すれば、遅刻せずに行ける。顔を洗って、髪を結んで、黒い靴を履いて、駅へ向かえばいい。
店に着けば、菜月が「大丈夫?」と聞くだろう。大河内は忙しそうに「おう、来たな」と言うかもしれない。何事もなかったように、仕事が始まるかもしれない。
その想像をした瞬間、みのりの喉が詰まった。
十六時三十分。行く準備はできている。準備はできているのに、みのり自身だけが動かなかった。
十七時。出勤予定の時間になった。
十七時八分。スマートフォンが震えた。店のグループLINEだった。
〈みのり、今日十七時入りだよね?〉
送り主は菜月だった。みのりは、その一行を通知で見た。
まだ既読はつけていない。画面の上に滑り込んだ文字を、ただ見ただけだ。それでも、心臓が強く打った。
みのりは、布団の中で膝を抱えたまま、天井の染みを見ていた。薄い茶色の染みは、古い島の地図のように見えた。どこへも行けない島。スマホは枕元に伏せてある。通知のたびに、畳に小さな虫が這うような振動が伝わってくる。
〈確認したら返事ください〉
〈体調悪い?〉
〈店、もう始まってるよ〉
〈みのり?〉
みのりは画面を開かなかった。開いたら既読がつく。既読がつけば、返事をしなければならない。返事をすれば、会話が始まる。会話が始まれば、逃げ場がなくなる。
だから、開かなかった。
炉端の蔵高田馬場店は、駅前の雑居ビルの二階にある。
十七時の開店直後、店内には炭の匂いと、前夜の酒の匂いがまだ残っていた。テーブルを拭いても、床をモップでこすっても、染み込んだものは完全には消えない。
壁には大漁旗、メニュー札、手書きのおすすめ、スタッフの笑顔の写真が貼られている。入口横には、筆文字でこう書かれた額があった。
〈人は城、人は石垣、人は蔵〉
意味はよく分からないが、大河内剛が本部の研修で感銘を受け、自分で買ってきたものだった。
大河内は四十八歳。肩幅が広く、声がよく通り、笑うと目尻に深い皺が寄る。昔はラグビーをやっていたらしい。酒は強い。常連の名前をよく覚える。スタッフの誕生日には、必ずケーキを買ってくる。
悪い人間ではない。少なくとも、自分ではそう信じている。
その大河内は、十七時十分、厨房の前で腕を組んでいた。
「塚原、来てないよな」
ホールリーダーの原嶋菜月が、スマートフォンを見ながら首を振った。
「来てないです。LINEも未読です」
「未読?」
「はい。グループも個別も」
「電話は?」
「まだしてません。今かけます」
菜月は通話の画面を開き、みのりの名前を押した。呼び出し音が鳴る。一回。二回。三回。出ない。
菜月は画面を耳に当てたまま、少しだけ眉を寄せた。
「出ません」
「もう一回」
「はい」
もう一度かける。やはり、出ない。
店内では、最初の常連客二人がカウンターに座っていた。大河内は笑顔でおしぼりを出し、生ビールの注文を受けたばかりだった。
まだ店は落ち着いている。だが、金曜の予約表はすでに重かった。十八時半から十二名、十九時から六名、十九時半から八名。ネット予約も細かく入っている。
十七時十五分。菜月は三回目の電話をかけた。出ない。
グループLINEには、菜月のメッセージが並んでいた。
〈みのり、今日十七時入りだよね?〉
〈確認したら返事ください〉
〈体調悪い?〉
〈店、もう始まってるよ〉
既読はつかない。
大河内は舌打ちしそうになり、寸前で飲み込んだ。スタッフの前で舌打ちをすると空気が悪くなる。空気が悪くなると、接客に出る。接客に出ると、口コミに書かれる。最近は、客よりも口コミの方が怖い。
「個別でも送って」
「送ってます」
「何て?」
「『出勤時間過ぎてます。来られないなら連絡ください』って」
「既読は」
「つきません」
大河内は、予約表を見た。紙の上の数字が、急に重くなった。十二名、六名、八名。数字はただの数字ではない。おしぼりの数、ファーストドリンクの数、注文を取る回数、グラスを下げる回数、会計の手間、クレームになる可能性、そのすべてだった。
「金曜だぞ」
「はい」
「金曜にホール一人欠けるの、やばいぞ」
「分かってます」
菜月の声にも、余裕はなかった。二十七歳。社員登用を打診されているが、返事を保留している。
大河内は彼女を信頼していた。菜月がいれば、多少の欠員は何とかなる。そう思っていること自体が、菜月を追い詰めていることには、まだ気づいていなかった。
厨房から、焼き場担当の大友が顔を出した。
「今日、塚原さん来ないんすか」
「まだ分からん」
「出勤時間過ぎて連絡なしなら、来ない前提で回した方がいいっすよ」
「分かってる」
「いや、前もギリギリで来た子いましたけど、こういうの大体来ないんで」
大友の言い方は雑だったが、現場の勘としては正しかった。
十七時二十分。菜月は、四回目の電話をかけた。出ない。
その呼び出し音を聞いているうちに、大河内の中で、まだ曖昧だったものが少しずつ形を持ち始めた。
遅刻ではない。寝坊でも、たぶんない。体調不良なら、何か一言くらい返せるはずだ。事故の可能性もゼロではない。
だが、LINEは未読。電話も出ない。出勤予定の時間を過ぎても、姿がない。
バックレか。その言葉を、大河内はまだ口にしなかった。口にした瞬間、それが現実になる気がしたからだ。
菜月が、泣きそうな声ではなく、仕事の声で言った。
「店長、席、少し止めますか」
大河内は答えられなかった。売上のことが頭をよぎる。本部から言われている今月の数字。客単価。予約を断ったときの機会損失。
だが、全部開ければ回らなくなる。回らなくなれば、料理も酒も遅れる。遅れれば、客は苛立つ。苛立った客に頭を下げるのは、残ったスタッフだ。
大河内は奥歯を噛んだ。
「十八時半までは、様子見る」
十七時三十分。みのりからの返信は、まだなかった。
店の入り口が開き、四名客が入ってきた。菜月はすぐに笑顔を作り、おしぼりを取りに行った。大河内はドリンク場に入り、生ビールを注ぎ始めた。厨房では大友が串の準備をしている。
店は動き出した。みのりが来ないまま。その不在は、まだ客には見えない。
けれど、スタッフには見えていた。ホールの一角に、塚原みのりの形をした穴が開いている。これから時間が進むほど、その穴は広がっていく。
菜月のスマートフォンには、発信履歴が並んでいた。
塚原みのり。塚原みのり。塚原みのり。塚原みのり。
どれも、応答なし。大河内は、その画面を一瞥して、低く言った。
「……バックレかもしれんな」
菜月は答えなかった。答えなくても、もう分かっていた。
十七時四十九分、四名客が入った。十八時二分、三名。十八時九分、二名。十八時十五分、予約の六名が十分早く来た。店内の空気が、少しずつ炭火の熱と人の声で膨らんでいく。
「生二つ、レモンサワー三つ、ウーロン一!」
「お通し、六番まだです!」
「二番、枝豆とポテサラ追加!」
「七番さん、注文取りに行けてない!」
菜月は笑顔を崩さなかった。崩さなかったが、笑顔の奥で、目だけが細かく動いていた。大河内はドリンク場に入り、生ビールを注ぎながらホールを見た。
新人の高校生バイト・倉井陸が、刺身の盛り合わせを持ったまま、どの卓に運ぶのか分からず固まっている。
「陸、それ五番!」
「はい!」
「違う、奥の五番! 手前は三番!」
「すみません!」
陸は慌てて向きを変えた。皿の上の大葉が揺れる。
十八時半、十二名の予約客が来た。会社の飲み会だった。入口で幹事が人数を確認し、後ろの部下たちは上着を脱ぎながら、すでに仕事の愚痴を言っている。大河内は笑顔で案内した。
「お待ちしておりました。こちら奥のお席です」
その瞬間、八番テーブルの客が手を上げた。
「すみませーん、注文いいですか」
カウンターの常連が言った。
「大河内さん、ホッピー中ちょうだい」
厨房から大友の声が飛ぶ。
「店長、焼き鳥の伝票、順番おかしい!」
電話が鳴る。菜月が十二名の席におしぼりを配りながら、声だけで陸に指示を出す。
「陸くん、電話出て! 予約なら時間と人数確認!」
「はい!」
「あと、六番のグラス下げて!」
「はい!」
「その前に、三番のドリンク!」
「はい!」
陸の「はい」が、だんだん薄くなっていった。
ホールの人数が一人足りないだけで、仕事は単純に一人分増えるわけではない。残った全員の判断が遅れ、優先順位が崩れ、ミスが増える。注文が遅れると料理が遅れ、料理が遅れると客の酒が進まず、酒が進まないと売上が落ちる。
売上が落ちるだけならまだいい。客の表情が悪くなる。店の空気が濁る。スタッフは謝る。謝るたびに、少しずつ自分たちが悪いような気がしてくる。
十八時五十二分。十二名席の幹事が、少し苛立った声で言った。
「あの、飲み放題の説明まだですか」
菜月がすぐに頭を下げる。
「申し訳ございません、ただいまご説明します」
彼女は笑顔で説明を始めた。飲み放題はグラス交換制、ラストオーダーは三十分前、瓶ビールは対象外、日本酒は指定銘柄のみ。口は滑らかに動いたが、頭の中では別のことを考えていた。
四番の会計。七番の追加注文。カウンターの常連の中。厨房に戻す皿。陸が間違えた伝票。大河内の表情。
みのりがいれば。その思いが、一瞬だけ頭をよぎった。
みのりがいれば、少なくとも十二名席のファーストドリンクはもっと早かった。菜月は八番の注文に行けた。陸は電話に出なくて済んだ。大河内はドリンク場から離れられた。
だが、みのりはいない。いない人間のことを考えても仕方ない。そう分かっていても、穴は穴としてそこにあった。見えないのに、全員がその縁で足を滑らせている。
十九時十四分。店のグループLINEには、スタッフからのメッセージが増えていた。
〈みのり、ほんとに大丈夫?〉
〈今日やばいよ〉
〈来れないなら来れないって言って〉
〈菜月さん死んでる〉
〈既読つけて〉
〈てか未読なの怖い〉
〈誰か家知ってる?〉
みのりは、その通知を布団の中で見ていた。店は今、どうなっているのだろう。想像したくなかった。だが、想像できてしまった。
金曜の炉端の蔵。炭火の熱。生ビールの泡。大河内の声。菜月の笑顔。陸くんの慌てた顔。客の呼び鈴。厨房の怒号。自分のいない場所で、自分の形をした穴が開いている。
みのりは、スマホを握りしめた。
謝らなければならない。分かっている。
彼女はLINEを開いた。開いてしまった。未読だったメッセージが、一気に既読になった。
その瞬間、画面の向こうで何かが動いたような気がした。実際、数秒後に大河内から個別でメッセージが来た。
〈至急連絡ください〉
続けて電話。みのりは反射的にスマホを床に落とした。着信音が畳の上で鳴る。布団をかぶっても音は消えない。むしろ、布団の中で反響して大きくなった。
彼女は耳を塞いだ。店長は悪い人ではない。菜月さんも優しい。陸くんも困っている。
自分は最低だ。最低だから、せめて連絡しなければならない。連絡しなければならないのに、そのための画面を見ることができない。見ることができない自分がまた最低で、その最低さが身体をさらに重くする。
十九時二十一分。着信が止まった。その少しあと、「03」から始まる番号から電話が来た。出ずに、その番号を検索する。表示された結果を見て、みのりは凍った。
無断欠勤調査局。
炉端の蔵高田馬場店に、田澤怜司と夏目璃子が到着したのは、十九時四十七分だった。
店は、ほとんど火事のようだった。もちろん、実際に燃えているわけではない。
だが、入り口を開けた瞬間、熱と声と油と炭と酒と焦りが一度に押し寄せてきた。人の笑い声、呼び鈴、食器、厨房の換気扇、スタッフの謝罪。すべてが重なり、天井の低い店内で渦を巻いている。
璃子は足を止めた。懐かしい、と思ってしまった。
嫌な懐かしさだった。ファミレスの金曜夜。欠員一名。厨房遅延。ドリンク遅延。客席満席。レジに列。店長不在。本部からの電話。
あの頃、璃子は笑いながら、自分の足の裏が床にめり込んでいくような感覚で働いていた。
「これ、今聞き取り無理じゃないですか」
璃子が言うと、田澤は店内を見渡した。
「まず現場を見ます」
二人が入口で立っていると、陸が駆け寄ってきた。
「いらっしゃいませ、二名様ですか」
目が完全に泳いでいた。璃子が身分証を見せる。
「無断欠勤調査局です。店長さんは?」
「て、店長、今ドリンク場です」
ドリンク場では、大河内が生ビールを注ぎながら、電話を肩で挟んでいた。
「はい、申し訳ございません。本日混み合っておりまして。はい、二十一時なら……え、今から十名? 少々お待ちください」
大河内は二人に気づき、顔をしかめた。来てほしいと通報したのは自分だが、来られたら来られたで、今はそれどころではない。
「すみません、ちょっと待ってもらえますか!」
彼は叫んだ。田澤はうなずいた。菜月が、十二名席で膝を折るようにして注文を取っていた。
「唐揚げ三つ、ポテト二つ、刺身五点盛り二つ、だし巻き一つ、あと、焼き鳥盛り合わせが塩とタレで一つずつですね」
「あと枝豆」
「枝豆おひとつ」
「あ、やっぱ二つ」
「枝豆おふたつ」
「すみません、生追加で」
「生ビールおひとつ」
「こっちも」
「生ビールおふたつ」
菜月は笑顔で復唱しながら、ハンディを打った。彼女のこめかみに汗が浮かんでいる。客の一人が悪気なく言った。
「今日、人少ないの?」
菜月は一瞬だけ動きを止め、それから笑った。
「少しお待たせしてしまって、申し訳ありません」
質問には答えなかった。答えれば愚痴になる。愚痴になれば接客ではなくなる。その横を、陸がグラスを持って通ろうとして、他の客とぶつかりかけた。
「あぶなっ」
「す、すみません!」
グラスの中のハイボールが少しこぼれ、陸の手首を濡らした。彼はそのまま立ち尽くしそうになったが、璃子が近づいて小声で言った。
「グラス拭いて、そのまま七番。床はあとでいい」
「え」
「今止まると全部止まる。行って」
陸は反射的にうなずき、動き出した。田澤が横目で璃子を見る。
「手伝いましたね」
「すみません、身体が勝手に」
「いい判断です」
店内の隅で、常連らしい男が大河内に声をかけた。
「塚原ちゃん、今日いないの?」
大河内の手が一瞬止まった。
「今日は休みです」
「なんだよ、つまんねえな。あの子いると明るいのに」
璃子は、その声に少し引っかかった。常連の言い方は、悪意のあるものではなかった。むしろ親しみを込めているのだろう。
しかし、その親しみがスタッフの皮膚のどこに触れるのかは、言った本人には分からない。
二十時十三分。ようやく一瞬だけ波が引いた。
大河内は田澤たちを店の奥の狭い事務スペースに通した。椅子は二つしかなく、田澤は立ったまま話を聞くことになった。
壁にはスタッフのシフト表が貼ってあり、塚原みのりの名前は十七時から二十三時までの欄にあった。赤いペンで丸がつけられている。
「通報内容を確認します」
田澤が言った。
「塚原みのりさん。二十二歳。大学生アルバイト。勤務予定は本日十七時から二十三時。十七時の時点で出勤せず、連絡なし。十八時以降も電話に応答せず。十九時過ぎにグループLINEの既読はついたが、返信なし。以上で間違いありませんか」
「間違いありません」
大河内の声は疲れていた。
「勤務態度は?」
「普通です。いや、普通というか、よくやってましたよ。笑顔もあるし、客受けもいい。常連にも名前覚えられてて」
「最近、変わった様子は」
大河内は少し考えた。
「疲れてる感じはありました。でも、みんな疲れてますから」
璃子が顔を上げた。
「みんな疲れている職場で、特定の一人が消えたんですね」
大河内はむっとした。
「うちが悪いって言いたいんですか」
「まだ何も言っていません」
田澤が静かに遮った。
大河内は唇を結んだ。前回の牛丼店の蔵前とよく似た反応だった。店長たちは、自分が責められることに敏感だ。
なぜなら、日々責められているからでもある。本部に。客に。スタッフに。数字に。そして、自分自身に。
「グループLINEを見せていただけますか」
田澤が言った。大河内は一瞬ためらったが、スマホを差し出した。
画面には、炉端の蔵高田馬場店スタッフ連絡用、というグループ名があった。メンバーは二十三人。社員、アルバイト、ヘルプ、元スタッフらしき人間まで入っている。
田澤はスクロールした。通知は多かった。
〈明日、誰か十八時から入れない?〉
〈急でごめん! 本当に誰か!〉
〈既読つけた人、返事ください〉
〈大河内です。こういうとき助け合える店にしたいです〉
〈今月売上きついです。みんなで乗り切ろう〉
〈みのり、土曜一時間早く来れる?〉
〈常連の山さん来るから、みのりいると助かる〉
〈終電逃した人、店で少し休んでっていいよ〉
〈昨日のクレーム、全員読んでください。自分ごととして〉
〈忙しいときこそ笑顔〉
〈既読スルーはやめよう。仲間なんだから〉
璃子は画面を見ながら、胃の奥が重くなるのを感じた。ひとつひとつは、店を回すための連絡に見える。
だが、積み重なると逃げ場がなくなる。勤務時間外のスマホの中に、店が入り込んでくる。家に帰っても、布団に入っても、風呂に入っても、店の呼び鈴が鳴る。
「常連の山さん、というのは?」
田澤が聞いた。
「ああ、常連です。悪い人じゃないですよ。塚原のこと気に入ってて。来るとよく話しかけてました」
「どの程度」
「どの程度って、普通に。学校どうとか、彼氏いるのとか、そういう」
璃子が眉を動かした。
「それ、本人は嫌がってませんでしたか」
「いや、笑ってましたよ」
「接客中ですから」
大河内は黙った。田澤はさらにスクロールした。深夜一時過ぎのメッセージもあった。
〈今日のラスト、片付け甘かったです〉
〈特にトイレ。女性スタッフもちゃんと見てください〉
〈大河内さんは言いづらいと思うので私から言いますが、最近みのりちゃん少し雑です〉
送り主は「大河内真由美」となっていた。
「これは?」
田澤が聞く。大河内は明らかに気まずそうな顔をした。
「妻です。店には出てないんですけど、経理とか、たまに手伝ってて」
「グループLINEにも?」
「まあ、家族経営じゃないですけど、近い距離でやってる店なので」
璃子は、牛丼店の間宮の「家族」という言葉を思い出した。今度は、家族という言葉そのものは出てこない。だが、グループLINEの中に、職場と家庭と善意と監視が全部混ざっている。
田澤はスマホを返した。
「塚原さんの住所へ向かいます」
大河内は言った。
「連絡ついたら、せめて謝るように言ってください」
「謝罪は必要です」
「あと、できれば復帰も。本人が嫌じゃなければ」
その言葉は、思ったより弱かった。
璃子は大河内を見た。彼は怒っている。困っている。だが、それだけではない。みのりに戻ってほしいと思っている。戦力として。常連受けするスタッフとして。そして、たぶん、店の一員として。
「店長」
璃子が言った。
「戻ってほしいなら、戻れる場所にしないと無理です」
大河内は返事をしなかった。
塚原みのりのアパートは、駅から少し離れた住宅街にあった。古い二階建てで、外階段の手すりに錆が浮いている。夜の空気は湿っていて、どこかの家から炒めたにんにくの匂いがした。線路が近いらしく、電車の音が周期的に地面を震わせた。
二人が部屋の前に着いたのは、二十一時二分だった。
田澤がチャイムを押す。返事はない。
璃子はドアの前に立ち、少しだけ耳を澄ませた。中に人の気配がある。わずかに床が軋む音。息を殺している人間の沈黙は、空き部屋の沈黙とは違う。
「塚原みのりさん」
田澤が声をかける。
「無断欠勤調査局の田澤です。大河内店長から通報がありました。お話をうかがいに来ました」
返事はない。田澤は続けた。
「あなたが本日出勤しなかったことで、店には被害が出ています。予約客への対応が遅れ、残ったスタッフに負担がかかりました。その確認も必要です」
部屋の中で、かすかに物音がした。
「同時に、あなたが連絡できなかった理由も確認する必要があります。処分を決めるためだけではありません。今後、同じことを繰り返さないためです」
沈黙。璃子が、少し前へ出た。
「塚原さん。夏目です。私も昔、飲食の現場にいました。バックレられたこと、何度もあります。正直、めちゃくちゃ腹立ちます。だから、あなたが今日、店に穴を開けたことは、ちゃんと聞きます」
中で、何かが動いた。
「でも、連絡一本ができなくなる夜があることも、少しは分かります。だから、まず開けてください。怒鳴りません」
長い間があった。そして、鍵が回った。
ドアの隙間から、みのりの顔が見えた。髪はほどけ、目は赤く、唇の色が薄かった。布団からそのまま出てきたような格好だった。
「……すみません」
間宮と同じ言葉だった。
璃子は、その言葉を聞いて胸の奥が少し痛んだ。逃げた人間は、ドアを開けるとまず謝る。謝るくらいなら、なぜ連絡しないのか。そう思う人もいるだろう。
だが、謝ることと連絡することの間には、当人にしか見えない深い溝がある。
部屋は狭かった。ローテーブルの上には、開きっぱなしのノートパソコン、飲みかけのペットボトル、コンビニのサラダ、そしてスマホがあった。スマホの画面には、通知がまだいくつも残っている。
みのりは座布団を二つ出そうとして、手が震えてうまく置けなかった。
「そのままで大丈夫です」
璃子が言った。三人は床に座った。田澤が手帳を開く。
「本日、なぜ出勤できませんでしたか」
みのりは、すぐには答えなかった。膝の上で指を絡め、何度も親指の爪を押している。
「体調不良ですか」
「……違います」
「事故や急用ではない」
「はい」
「では、理由を」
みのりは唇を噛んだ。
「分からないんです」
田澤は黙って待った。
「行かなきゃって思ってました。昨日の夜も、制服出して、黒い靴も玄関に置いて。今日、金曜だから忙しいの分かってたし、菜月さんが大変なのも分かってました。だから、行かなきゃって」
彼女はスマホを見た。
「でも、無理でした」
璃子は静かに聞いていた。
「何が一番つらかったですか」
みのりは目を伏せた。
「LINEです」
「グループの?」
「はい」
声が小さくなった。
「シフト入ってない日も、ずっと店があるんです。夜中に通知が来る。誰か入れないかって。既読つけたら返事しなきゃいけない。返事しないと、次に店行ったとき、なんとなく気まずい。断ると、店長が泣きそうなスタンプ送ってくるんです。冗談っぽいんですけど、断ったこっちが悪いみたいで」
田澤はメモを取る。
「店長の奥さんからのメッセージもありますね」
みのりの顔がこわばった。
「真由美さん、店にいないのに、全部見てるんです。トイレの掃除が甘いとか、接客の声が小さいとか、最近のみのりちゃんは笑顔が少ないとか。直接言われるわけじゃないから、余計に嫌で。グループで言われると、みんなの前で言われてるみたいで」
「店長には相談しましたか」
みのりは首を振った。
「言えないです。店長、真由美さんのこと悪く言われると、すごく困った顔するから」
「常連客については」
璃子が聞いた。みのりは少し口を閉じた。言うべきか迷っている顔だった。
「山さんですか」
「名前は問いません。嫌なことがあったなら」
「嫌、というか……いつも、彼氏いるのとか、大学でモテるでしょとか、今日化粧薄いねとか。手を握られたわけじゃないです。触られたわけでもないです。ただ、毎回言われると、店に行く前に、今日はいるかなって考えちゃって」
「店長は?」
「山さんは悪い人じゃないからって。みのりがいると喜ぶから、うまく流してって」
璃子は、店のカウンターで聞いた「塚原ちゃん、今日いないの?」という声を思い出した。
悪い人じゃない。その言葉は、たしかに便利だった。悪い人じゃないから我慢する。悪い人じゃないから大げさにしない。悪い人じゃないから笑って流す。そうやって、悪くない人たちの無自覚な重みが、若いスタッフの肩に乗っていく。
田澤が言った。
「今日、あなたが出勤しなかったことで、店はかなり混乱しました。ホールの原嶋さんは、予約客の対応に追われていました。新人の倉井さんは、何度もミスをしました。店長はドリンク場から離れられず、客の待ち時間も発生しています」
みのりはうつむいた。
「はい」
「その事実は、あなたが聞く必要があります」
「はい」
「ただし、あなたが今日まで、勤務時間外にも店から離れられない状態になっていたことも、確認する必要があります」
みのりは、ゆっくり顔を上げた。
「それって、私が弱いだけじゃないんですか」
部屋の空気が少し止まった。
璃子はすぐに答えなかった。簡単に否定すると、嘘になる気がした。人には強さも弱さもある。同じ環境でも平気な人はいる。だが、平気な人がいることは、苦しい人の苦しさを消す理由にはならない。
田澤が言った。
「弱いかどうかは、制度の判断項目ではありません」
みのりは瞬きをした。
「制度上確認するのは、無断離脱に至る経緯、職場側の管理状況、本人の連絡意思、今後の手続きです」
「……はい」
「ただ、人間として言うなら」
田澤はそこで少し言葉を切った。
「スマホを見るだけで吐き気がする状態を、弱さだけで片づけるのは雑です」
みのりの目に、また涙が浮かんだ。璃子はそっとティッシュの箱を差し出した。
「塚原さん。復帰したいですか」
みのりは、長い時間をかけて首を振った。
「戻れません」
「辞めたい?」
「はい」
「じゃあ、それを伝える必要があります。今日、店は本当に困りました。謝罪も必要です。でも、辞めること自体はできます」
みのりは震える息を吐いた。
「店に行かないとだめですか」
璃子は田澤を見た。田澤は答えた。
「原則は、電話または書面での意思表示で足ります。貸与物は返却。給与精算も必要です。こちらが間に入ります」
「電話……」
みのりの表情が固まる。
「今は無理なら、文面を作りましょう」
璃子が言った。みのりは小さくうなずいた。
彼女はスマホを手に取った。画面を開くのに、数秒かかった。指紋認証がうまくいかず、パスコードを打ち間違えた。ようやくメモアプリを開くと、すでにいくつもの下書きが残っていた。
〈お疲れ様です。突然で申し訳ありませんが〉
〈店長、すみません。今日行けません〉
〈辞めたいです〉
〈本当にすみません〉
〈私は社会人として〉
どれも途中で終わっていた。未送信の文章たちが、小さな遺書のように並んでいる。
璃子はそれを見て、ゆっくり言った。
「まず、事実だけでいいです。飾らなくていい。自分を責める文章も、長い説明も、今はいりません」
みのりはうなずいた。璃子が口述する。
「本日、無断で欠勤し、ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
みのりが打つ。
「体調および精神的な状態から、勤務を継続することが難しいため、退職を希望します」
みのりの指が止まった。
「精神的な状態って、書いていいんですか」
「書いていいです」
「重くないですか」
「重いから書くんです」
みのりは、少しだけ笑いそうな顔になった。すぐにまた泣きそうになったが、それでも指は動いた。
「貸与物は後日返却します。給与精算についてはご指示ください」
最後に、もう一度謝罪。文章は短かった。短いのに、みのりは打ち終えるまでに何度も息を止めた。
「送れますか」
田澤が聞いた。みのりは画面を見つめた。
送信ボタンは、画面の右端にあった。小さな紙飛行機の形をしている。押せば飛ぶ。飛んでしまえば、戻らない。
みのりの指は震えていた。璃子は、その指を見ていた。
たった一本の指が、こんなにも重いものを持つことがある。接客中なら、注文ボタンを押す指。会計でレジを打つ指。客に料理を運ぶとき、皿を支える指。今、その指は、ひとつの職場から離れるために震えている。
みのりは目を閉じた。そして、押した。メッセージは送信された。既読は、すぐについた。
みのりは息を呑んだ。返信が来るまでの数十秒は、長かった。電車の音が遠くを通り過ぎる。冷蔵庫が低く鳴る。誰も喋らない。
やがて、大河内から返信が来た。
〈分かりました。今日のことは本当に困りました。正直、残念です。ただ、退職希望として受け取ります。貸与物の返却と給与精算については、後日連絡します〉
そのあと、少し間を置いて、もう一通。
〈体調は大丈夫ですか〉
みのりは、その一文を見て、崩れるように泣いた。
炉端の蔵では、二十二時を過ぎてもまだ客が残っていた。
田澤から一次報告を受けた大河内は、事務スペースでしばらくスマホを見ていた。みのりから届いた退職希望の文面。田澤からの簡単な説明。職場側の連絡運用について、後日確認が入るという通知。
大河内はため息をついた。腹は立っている。今日の店は本当にひどかった。菜月は休憩を取れず、陸はミスを連発し、客からは料理が遅いと文句を言われた。売上は何とか作ったが、スタッフの疲労は数字には出ない。
だが、みのりからの文面を読むと、怒りがうまく続かなかった。
自分は、そんなに追い詰めていたのだろうか。
大河内はグループLINEを開いた。今日だけで、何十件もメッセージが飛んでいる。既読。未読。返事。スタンプ。お願い。注意。励まし。叱咤。雑談。常連情報。売上目標。クレーム共有。
全部、店のためだった。店を回すため。スタッフ同士で助け合うため。良い店にするため。そのはずだった。
でも、スマホの中にまで店を作っていたのかもしれない。
「店長」
菜月が顔を出した。
「ラストオーダー、終わりました」
「お疲れ。今日、ごめんな」
「いや、店長も大変だったんで」
「塚原、辞めるって」
菜月は一瞬、何とも言えない顔をした。
「そうですか」
「怒ってる?」
「怒ってます」
菜月は即答した。
「でも、ちょっと分かります」
大河内は黙った。
「LINE、多いです。正直」
「……そうか」
「あと、山さんの相手、みのりに寄せすぎでした」
「あれは、まあ、山さん悪い人じゃ」
「悪い人じゃなくても、嫌なことはあります」
菜月の声は静かだった。今日一日、店を回し続けた人間の声だった。大河内は、反論しなかった。
店の外では、終電前の人通りが増えていた。酔った会社員、イヤホンをした学生、コンビニ袋を下げた人、どこかへ急ぐ人。誰も、二階の居酒屋で一人のアルバイトが消えたことなど知らない。知らないまま、街は回る。
翌朝、みのりは久しぶりにスマホの通知音を切った。
退職の手続きはまだ残っている。貸与された黒いシャツも返さなければならない。未払いの給与の確認もある。大河内からまた連絡が来るだろう。真由美から何か言われるかもしれない。グループLINEを抜ける瞬間にも、胸は痛むかもしれない。
それでも、画面を伏せなくてよくなった。
窓を開けると、朝の空気が入ってきた。湿った風がカーテンを揺らした。みのりは布団の上に座ったまま、しばらくその風を見ていた。
働くことが嫌いになったわけではない。接客が嫌いになったわけでもない。
ただ、店がスマホの中にまでついてくることに、耐えられなくなっただけだった。
そのころ、田澤と璃子は、調査局の小さな事務所で報告書を作成していた。
璃子はキーボードを打ちながら言った。
「反則金、どうなりますかね」
「軽減対象でしょう」
「でも、無断欠勤ではある」
「ええ」
「店の被害も大きい」
「ええ」
「職場側の問題もある」
「ええ」
璃子は手を止めた。
「全部ええ、じゃないですか」
田澤は書類から目を上げた。
「全部事実です」
「だから難しいんですよね」
「簡単なら、我々はいりません」
璃子は椅子の背にもたれた。窓の外には、向かいのビルの壁が見えるだけだった。薄汚れた灰色の壁。そこに、朝の光が斜めに当たっていた。
「昨日の塚原さん、送信ボタン押すだけで、あんなに震えてました」
「はい」
「でも、菜月さんたちも本当に大変だった。あの店、昨日一歩間違えたら事故起きてましたよ。陸くん、グラス持って客にぶつかりそうだったし」
「起きなかった事故も、現場の負債です」
「名言っぽいですね」
「報告書には書きません」
璃子は少し笑った。それから、また真顔に戻る。
「バックレた側の部屋って、いつも静かですね」
「店は騒がしい。逃げた側は静かです」
「その差が、きついです」
田澤は何も言わなかった。
璃子は、みのりの部屋に並んでいた未送信の文章を思い出した。辞めたいです。すみません。社会人として。どれも途中で止まっていた。送られなかった言葉たち。既読のつかない夜。
その一方で、店では呼び鈴が鳴り、客は待ち、菜月は笑顔を剥がさず、陸は手を震わせ、大河内はドリンク場で汗を流していた。
逃げた人間の沈黙と、残された現場の騒音。その二つは、同じ夜の中で同時に起きている。
璃子は報告書の最後に、職場側改善提案の欄を開いた。
〈勤務時間外連絡の頻度見直し〉
〈グループLINEでの個人指摘禁止〉
〈常連客対応の属人化防止〉
〈欠員発生時の席数制限判断基準の設定〉
〈学生アルバイトへの緊急時負担集中の回避〉
書いているうちに、彼女はふと思った。これは、バックレを防ぐための提案なのか。それとも、誰かがバックレるまで気づけなかったものの、後始末なのか。
窓の外で、どこかの店の開店準備の音がした。シャッターが上がる硬い音。
今日もまた、どこかで誰かが出勤する。誰かが休み、誰かが代わりに入る。誰かが笑顔をつくり、誰かがスマホを裏返す。そして、どこかのグループLINEでは、朝から通知が鳴っている。
璃子はキーボードを打つ手を止め、ほんの少しだけ息を吐いた。
既読とは、読んだという印ではない。返事をしなければならない場所に、引き戻されたという印なのだ。
そう思ったが、報告書には書かなかった。




