第一話 初日で消えた男
朝の九時四十七分、牛丼チェーン「牛丸食堂」新木場六号店の店内には、まだ昼の混雑が来る前の、妙な静けさが残っていた。
静けさ、といっても、何も音がないわけではない。厨房では巨大な炊飯器が低く唸り、煮込み鍋の中では薄切りの牛肉と玉ねぎが、甘辛い湯気の中で身を寄せ合うように揺れている。
自動ドアが開くたび、五月の生ぬるい風と一緒に、国道を走るトラックの排気と、遠くの工事現場の鉄の匂いが入ってきた。店内の蛍光灯は白々しく、テーブルの上の紅しょうがだけが、やけに鮮やかな赤をしていた。
間宮蒼太は、カウンターの端に立ったまま、紙の帽子の位置を何度も直していた。
初出勤だった。制服はまだ固かった。黒いズボンの膝は不自然に折り目が残り、エプロンの紐は一度結んだだけではほどけそうで、店長から「もっとぎゅっと」と言われて結び直した。
鏡で見た自分は、牛丼屋の店員というより、牛丼屋の店員の格好をさせられた人間に見えた。
「間宮くん、声ちょっと小さいかな」
厨房から店長の蔵前徹が言った。声は大きいが、怒っているわけではない。怒っているわけではないのに、間宮の肩は自然に上がった。
「いらっしゃいませ、は腹から。腹から出すとね、お客さんも安心するから」
「はい」
「はい、じゃなくて、いらっしゃいませ、ね」
「い、いらっしゃいませ」
「もっと。ここは舞台だと思って」
蔵前は笑った。間宮も笑うべきなのだと思って、唇だけを引き上げた。
舞台。その言葉が、なぜか胸の奥で小さく引っかかった。舞台なら、自分は役者なのだろうか。役者なら台本があるはずだが、さっきから渡されるのは台本ではなく、次々と変わる指示ばかりだった。
水は左手で置く。おしぼりはロゴを客に向ける。注文を復唱する。
食券ではない店舗なので、ハンディを使う。味噌汁セットはこのボタン。大盛りはこっち。つゆだくは備考。牛皿は丼と違う。テイクアウトの袋はサイズを間違えると汁が傾く。紅しょうがの補充は容器を拭いてから。トイレチェックは三十分に一度。
客が帰ったら、皿を下げる前に「ありがとうございました」を言う。言い忘れると、店全体が冷たく見える。
間宮は言われたことを覚えようとした。覚えようとすればするほど、頭の中のどこかで紙が湿っていくように、文字がにじんでいった。
十時半を過ぎると、客がぽつぽつ入り始めた。作業着の男が二人。近くの倉庫で働いているらしい女性。イヤホンをした大学生。リュックを前に抱えた外国人観光客。
間宮は客が入るたびに「いらっしゃいませ」と言った。
最初の数回は自分の声が店内に浮き上がって聞こえたが、何度か繰り返すうちに、その声が自分のものではなくなっていった。ただ喉から出て、蛍光灯の白い光に吸われていく音になった。
「間宮さん、二番さん、お水まだ」
横から声がした。サンジーブ・ラマだった。ネパール出身で、この店では三年目のベテランアルバイトだと紹介された。三十一歳。細身で、目がよく動く。厨房とホールの境目を、魚が水の流れを読むように滑っていく。
「あ、はい」
間宮は慌てて水を注ぎ、二番テーブルへ向かった。グラスを置いた瞬間、水面が揺れて少しこぼれた。
「すみません」
客は別に怒らなかった。ただ、視線をスマホから少しだけ上げ、すぐに戻した。その何でもなさが、かえって間宮には苦しかった。怒られれば、怒られたという形で受け止められる。
だが、こういう小さな失敗は、どこにも置き場所がないまま胸の中に落ちていく。
「大丈夫、大丈夫」
サンジーブが通りすがりに小さく言った。
「最初の日、みんな水こぼす。僕、最初の日、味噌汁こぼした。お客さんのカバン、味噌汁の海」
「それ、大丈夫だったんですか」
「大丈夫じゃなかったです」
サンジーブは真顔で言い、それから笑った。間宮も少し笑った。その瞬間だけ、肩の力が抜けた。
十一時を過ぎると、店の静けさは急に剥がれた。近くの物流センターの昼休憩が早いのだと、蔵前が言っていた。
自動ドアが開く間隔が短くなり、カウンターの席が埋まり、テーブルに人が流れ込んだ。厨房の声が大きくなる。
「三番、並二つ、卵一!」
「五番、牛皿定食!」
「テイク二件、袋小!」
「間宮くん、七番片付けて!」
声が重なった。間宮は皿を下げようとし、途中で呼び止められ、水を出し忘れたことに気づき、ハンディの画面で親指を迷わせた。
目の前の客が「つゆ抜きで」と言ったが、そのボタンがどこにあるか一瞬分からなくなった。背中に汗が流れる。紙の帽子の中が蒸れて、頭皮が痒くなった。
蔵前が厨房から顔を出した。
「間宮くん、焦らなくていいから。焦らなくていいけど、急いで」
矛盾した言葉だった。だが現場では、その矛盾が命令として成立していた。間宮は「はい」と言った。何度目の「はい」か分からなかった。
十三時二十八分。昼の山は、ようやく少しだけ低くなっていた。とはいえ、店内が空いたわけではない。
カウンターにはまだ客が残り、テーブルには下げきれていない丼があり、券売機の前には遅い昼を食べに来た会社員が二人並んでいた。
「間宮くん、三十分だけ休憩入って」
休憩。その言葉だけが、遠くに見える島のように思えた。
十三時二十八分、間宮はようやくエプロンを外した。手は牛丼のタレと洗剤と紙幣の匂いが混ざっていた。更衣室と言うには狭すぎるバックヤードの奥に入り、パイプ椅子に座った瞬間、腰のあたりに鈍い熱が広がった。
スマホを見ると、母親からメッセージが来ていた。
〈初日どう?〉
間宮は返信しようとして、指を止めた。
どう、と聞かれても、どう答えればいいのか分からなかった。大変。忙しい。緊張する。まだ慣れない。そういう言葉ならいくらでもあったが、どれも嘘ではないのに、肝心なところを隠している気がした。
店の奥から、蔵前の声が聞こえた。
「間宮くん、まかない食べる? 牛丼でいい?」
「あ、はい」
「遠慮しなくていいよ。今日からうちの家族みたいなもんだから」
家族。蔵前は何気なく言ったのだろう。良い意味で言ったのだろう。店長として、新人を安心させるために。実際、蔵前の声には悪意のかけらもなかった。
けれど、その言葉を聞いた瞬間、間宮の胃の中で、昼前に飲んだ缶コーヒーが冷たく固まった。
家族。
間宮は、実家を出たいと思っていた。二十二歳になっても、母親は出かける時間を聞き、父親は就職の話をするたびに黙り込んだ。大学を中退してから、間宮は家の中で少しずつ透明になっていた。
だからアルバイトを探した。働けば、少なくとも家の外に居場所ができると思った。
その外に出た先で、また家族と言われた。店の家族。職場の家族。今日から家族。
間宮は椅子から立ち上がった。まかないを食べる気にはなれなかった。バックヤードの壁には、従業員心得が貼ってあった。
〈お客様の笑顔は、私たちの喜び〉
〈一人の遅れは、全員の遅れ〉
〈仲間を思いやる心で、最高の一杯を〉
最高の一杯、という言葉の横に、誰かが小さく鉛筆で「牛丼」と書いていた。間宮はそれを見て、笑えばいいのか、泣けばいいのか分からなくなった。
休憩時間はまだ二十分残っていた。間宮は、裏口から外に出た。
店の裏には、室外機とビールケースと、吸い殻が詰まった古い缶があった。
昼の光は眩しく、国道の車は途切れない。トラックの荷台が光を弾き、排気の匂いが鼻を刺した。間宮は胸ポケットからスマホを出し、時刻を見た。
十三時五十五分。
もう戻らなければならない。分かっていた。
今戻れば、ただの休憩明けだ。多少ぎこちなくても、十七時まで働けるかもしれない。今日一日終えれば、明日は少し慣れるかもしれない。蔵前もサンジーブも、悪い人ではない。たぶん、誰も間宮を壊そうとはしていない。
けれど、足が動かなかった。
裏口のドアは半開きのままだった。中から「五番お待たせしました」という声が聞こえた。食器の音。呼び出しベル。サンジーブの明るい声。蔵前の低い指示。
全部が、間宮の背中を押しているようで、同時に引き戻そうとしているようだった。
十四時十二分、牛丸食堂新木場六号店のホールは、目に見えないところから崩れ始めていた。
最初は、水だった。四番テーブルに座った中年の男女に、水が出ていなかった。女性のほうがしばらく待ってから、カウンターの中に向かって少し手を上げた。
「あの、お水ってセルフですか」
ただの質問ではない。客が「私は待たされている」と告げる、最初の小さな旗だった。
店では、学生アルバイトの三野千佳がホールに出ていた。十九歳。まだ半年目。
普段なら昼ピークはサンジーブともう一人、今日は間宮が入って三人体制になるはずだった。新人とはいえ、水を出し、皿を下げ、会計を補助するだけで、店の流れはずいぶん違う。
その一人がいない。
「すみません、すぐお持ちします」
三野は四番テーブルに水を出し、振り返った瞬間、六番の客に呼ばれた。
「注文いい?」
「はい、ただいま」
その声に、入口の客が被さる。
「すみません、二名なんですけど」
「お好きな席へどうぞ」
「空いてる席、片付いてないんだけど」
七番テーブルには、丼と味噌汁椀と割り箸の袋が残っていた。紅しょうががテーブルに一筋落ちている。
三野は「申し訳ありません」と言いながら七番へ向かったが、その途中でレジの客が財布を持って立っていた。
会計。片付け。案内。注文。水。提供。どれも一つずつなら難しくない。けれど、同時に来ると、仕事は仕事ではなく波になる。正面から受け止めようとすると、膝をさらわれる。
「チカさん、レジ、僕やります」
サンジーブが厨房側から飛び出してきた。左手に丼を二つ持ち、右手で伝票を押さえている。額に汗が光っていたが、顔は笑っていた。
「三番さん、お待たせしました。牛丼、あなたのこと、ずっと待ってました」
客の男が一瞬ぽかんとして、それから笑った。
「俺が待ってたんだよ」
「そうです。両思いです」
サンジーブは丼を置き、すぐにレジへ走った。レジを打ちながら、入口の客に「すぐきれいな席つくります」と言い、厨房に向かって「店長、五番の味噌汁まだです」と叫んだ。
日本語は少しだけ角が丸く、ところどころ助詞が落ちる。だが、店内で一番速く、正確に動いていた。
蔵前は厨房で鍋を見ながら、壁の時計に目をやった。
十四時十五分。間宮を休憩に出してから、もう四十五分が過ぎていた。休憩は三十分。五分くらいなら、トイレに寄ったのかもしれない。スマートフォンでも見ていて、時間を忘れたのかもしれない。新人には、そういうこともある。
だが、ホールに戻ってくる気配がなかった。
カウンターには、遅い昼を食べに来た会社員が二人残っている。テーブル席の丼はまだ下げきれていない。券売機の前には、作業着姿の男が一人、メニューを見ながら迷っていた。
ピークの山は越えたが、店が暇になったわけではない。むしろ、ピークで散らかったものを片づけ、補充し、次の休憩を回す時間だった。
蔵前は、鍋の火を少し弱めた。
「三野」
「はい」
三野はレジ横で伝票を整理していた。顔には、昼のピークを抜けたあとの疲れが残っている。
「間宮、見てきて。休憩室」
「え、まだ戻ってないですか」
「戻ってないから言ってる」
言い方が少しきつくなった。蔵前は自分でそれに気づいたが、謝る余裕はなかった。
三野は「はい」と小さく返事をして、ホールの奥へ向かった。
休憩室は、厨房のさらに奥にある。従業員用の細い廊下を抜け、掃除用具入れの横のドアを開けると、畳二枚ほどの狭い空間があるだけだった。
折りたたみ椅子、古い電子レンジ、小さな冷蔵庫、壁に貼られたシフト表。窓はない。昼の熱と油の匂いが、薄くそこまで入り込んでいる。
三野はドアを開けた。
「間宮さん?」
返事はなかった。誰もいなかった。
テーブルの上には、間宮が飲んでいたはずのペットボトルもない。ロッカーの扉がひとつ、半端に開いている。中を覗くと、貸与した黒いキャップだけが棚に置かれていた。エプロンはない。靴もない。リュックもない。
三野は、数秒間、その空っぽの部屋を見ていた。人がいないだけなのに、部屋の中に穴が開いているようだった。
彼女は慌ててホールへ戻った。
「店長」
蔵前が振り返る。
「いません。荷物もないです」
蔵前の手が、一瞬止まった。鍋の中で、牛肉と玉ねぎが小さく煮立っている。湯気が立ち、甘辛い匂いが厨房に広がっていた。いつもなら食欲を誘う匂いが、そのときだけ妙に重く感じられた。
「電話して」
三野はすぐに間宮の番号を呼び出し、発信する。
呼び出し音。一回。二回。三回。出ない。
三野は蔵前を見た。
「出ません」
「もう一回」
「はい」
もう一度かける。やはり、出ない。
店内では、券売機の前にいた作業着の男が食券を買い、カウンターに座った。サンジーブが水を出しながら、こちらをちらりと見る。彼も何かを察したようだった。
昼ピークを一緒に越えた新人が、休憩から戻ってこない。現場の人間には、それだけで十分すぎるほど意味が伝わる。
三野は、三回目の電話をかけた。出ない。四回目も出ない。呼び出し音だけが、厨房の音の中でやけに乾いて聞こえた。
「店長……」
三野の声は、泣きそうになっていた。
蔵前は奥歯を噛んだ。怒鳴ればホールに響く。客に聞こえる。サンジーブにも、三野にも余計な圧がかかる。だが、怒鳴らずにいると、怒りは腹の中で膨らんだ。
間宮がいない。戻ってこない。電話にも出ない。休憩室には、黒いキャップだけが残っている。
蔵前は、鍋の火を止めた。
「……飛んだな」
その言葉を口にした瞬間、店の中の空気が一段重くなった。
バックレ。
まだ誰も大きな声では言っていない。だが、全員が同じ言葉を思い浮かべていた。ピークのあと、ようやく休憩を回せると思ったタイミングで、ひとりが消えた。しかも、今日が初日だった新人が。
サンジーブが、黙って下げ台に置かれた丼を取りに行った。三野は電話を握ったまま、立ち尽くしている。
蔵前は深く息を吐いた。
「三野、泣くな。まだ客いる」
「はい……」
「サンジーブ、五番下げたら、補充見て。三野はレジ。俺がホールも見る」
言いながら、蔵前は分かっていた。もう、休憩は回らない。片づけも遅れる。仕込みも遅れる。遅い昼の客にも、これから来る夕方前の客にも、どこかで必ずしわ寄せが出る。
間宮が開けた穴は、ただ一人分の空白ではなかった。店の中の段取りを、全部少しずつ狂わせる穴だった。
蔵前もまた追い詰められていた。本部からは人件費を削れと言われている。求人を出しても応募は少ない。来ても続かない。時給を上げたいと言えば、エリアマネージャーは「売上とのバランス」と言う。
昼ピークに一人足りなければ店が回らないことなど、データには出ているはずなのに、データはいつも現場に降りてくる頃には、都合よく薄まっている。
「店長、六番、まだ注文入ってないです」
「分かってる!」
分かっている。全部分かっている。分かっていても手は二本しかない。鍋は焦げる。米は減る。客は待つ。
そのとき、入口で会社員らしい四人組が足を止めた。
「混んでるな」
「でも席空いてるじゃん」
「片付いてないだけっぽい」
「別行く?」
その会話が三野の耳に入った。彼女は七番テーブルの丼を重ねようとしていたが、手が滑って箸を一本床に落とした。
カラン、と乾いた音がした。サンジーブがすぐに拾った。
「大丈夫、箸は逃げない。人は逃げるけど」
「サンジーブさん」
「冗談です。半分」
三野は笑おうとして、うまくできなかった。目の奥が熱くなっていた。
店内のすべてが少しずつ遅れていた。
注文が遅れ、提供が遅れ、会計が遅れ、片付けが遅れた。遅れは遅れを呼び、やがて店全体にうっすらと苛立ちの膜が張られた。客の箸の置き方が荒くなり、咳払いが増え、スマホを見る顔が無表情になる。
バックレという言葉は、口にすると軽い。
だが、一人が消えた穴は、店の床に開いた排水口のように、残された人間の余裕を吸い込んでいった。
十五時十九分。ランチの客がようやく落ち着いたころ、蔵前は本部指定の端末を開いた。従業員管理アプリの中に、赤いボタンがある。
〈無断離脱通報〉
以前は、こんなものはなかった。
無断欠勤が社会問題化し、労働継続責任法が施行されてから、一定時間連絡が取れない従業員については、事業者が行政委託の調査を申請できるようになった。
反則金や職場復帰勧告の対象になるかは調査後に決まるが、通報そのものは簡単だった。簡単すぎるほどだった。
蔵前は赤いボタンを見つめた。
間宮は初日だ。まだ若い。緊張しただけかもしれない。気分が悪くなったのかもしれない。何か事情があるのかもしれない。
その一方で、三野はトイレで泣いていた。サンジーブは休憩を取っていない。客は何組も帰った。売上は落ちた。クレームも入るだろう。本部からは、なぜ昼ピークを落としたのかと聞かれる。
蔵前は画面を押した。確認画面が出た。
〈対象者を無断離脱者として報告しますか〉
彼は少しだけ迷い、結局、押した。
田澤怜司が牛丸食堂新木場六号店に着いたのは、十六時二分だった。
店内には昼の戦場の跡が残っていた。床に落ちた七味の赤い粉、拭ききれていないテーブルの輪染み、ゴミ箱からはみ出したペーパータオル。客はまばらで、厨房の鍋だけがまだ律儀に湯気を上げていた。
田澤はグレーのスーツを着ていた。高そうではないが、皺がない。靴は黒く、音が静かだった。四十二歳。背は高くも低くもなく、顔立ちも強く印象に残るものではない。
ただ、一度向かい合うと、相手はなぜか視線を外しづらくなる。責めているわけではない。見透かしているわけでもない。けれど、黙って待つのが異様にうまい男だった。
隣には夏目璃子がいた。黒いジャケットに、動きやすそうなパンツ。髪は後ろでひとつに結んでいる。二十九歳。
表情は柔らかいが、店に入った瞬間、彼女の目は客席数、ホールの導線、厨房との距離、スタッフの疲労をざっと見ていた。
「無断欠勤調査局の田澤です」
田澤は蔵前に身分証を見せた。
「同じく、夏目です」
璃子も軽く頭を下げる。蔵前は疲れ切った顔で、二人をバックヤードに通した。狭い部屋だった。ロッカー、段ボール、洗剤、予備の紙コップ、古い電子レンジ。
壁にはシフト表が貼られていた。間宮蒼太の名前は、今日の十時から十七時までの欄にあった。
「初日だったんですよ」
蔵前は最初にそう言った。言い訳にも、怒りにも聞こえた。
「何時から連絡が取れませんか」
田澤が尋ねる。
「十三時半に休憩入って、そのままです。電話も出ない。メッセージも未読。制服は……」
蔵前はロッカーを開けた。間宮の私服はなかった。貸与した帽子とエプロンの予備だけが残っている。
「着替えて出た?」
璃子が言った。
「たぶん。裏口から」
「財布や荷物は?」
「持っていったみたいです」
田澤はシフト表を見た。赤いマーカーで、昼ピークの人数が囲われている。
「本日のホール予定は三名」
「はい。サンジーブと三野と間宮です。間宮は新人だから戦力として数えちゃいけないのは分かってます。でも、水出しと片付けだけでも、いるといないじゃ全然違うんです」
蔵前の声に、抑えた怒りが滲んだ。
「おかげでめちゃくちゃですよ。客は待たせるし、クレームも入るし、サンジーブは休憩飛ばすし、三野は泣くし。初日で無理なら無理で、せめて言ってくれればいいじゃないですか。気分悪いなら、帰りますでいいんです。なんで黙って消えるんですか」
璃子はその言葉に、少しだけ目を伏せた。かつて自分もファミレスで、同じことを何度も思ったことがあった。
来ないなら来ないでいい。いや、本当はよくない。よくないけれど、せめて連絡してくれれば、こちらも誰かに電話をかけるなり、客席を絞るなり、まだやりようがある。
無断で消えるというのは、現場から準備する時間まで奪うことだった。
「間宮さんの様子はどうでしたか」
田澤が聞いた。
「緊張はしてました。でも、初日なら普通でしょう。こっちも優しくしたつもりです。怒鳴ってないし」
「怒鳴っていないことと、追い詰めていないことは、同じではありません」
田澤は淡々と言った。蔵前の顔がこわばった。
「うちが悪いって言うんですか」
「まだ何も言っていません。逃げた理由を調べるだけです」
「逃げた理由って、そんなの本人が弱いからじゃないですか」
蔵前は言い切ってから、少し口をつぐんだ。言い過ぎた、という顔だった。だが、言葉はもう部屋の中に出てしまっている。
田澤は責めなかった。ただ、壁のシフト表から視線を戻し、蔵前を見た。
「弱い人間は、働いてはいけませんか」
蔵前は答えなかった。
その沈黙を破るように、バックヤードの入り口からサンジーブが顔を出した。
「店長、三番さん、テイクの箸、足りないです。あと、僕、休憩、今行っていいですか。行かないと、僕、たぶん牛になります」
蔵前は額を押さえた。
「行って。ほんとごめん」
「大丈夫。今日はもう、魂だけ休憩しました」
サンジーブは笑った。だが、その笑いの下に、疲労の灰色が薄く張っていた。
璃子が彼を呼び止めた。
「少しだけ、間宮さんのこと聞いてもいいですか」
「はい。僕、見たこと話します」
サンジーブはバックヤードの入り口に立ったまま、紙コップの水を一気に飲んだ。喉仏が大きく上下する。
「間宮さん、まじめでした。怖いくらい。水こぼしたとき、世界終わった顔しました」
「世界は終わってないですね」
璃子が言うと、サンジーブはうなずいた。
「はい。水だけ。でも、彼の中では、たぶん大きい水」
田澤が少しだけ目を細めた。
「休憩前に、何か変わった様子はありましたか」
「店長が、家族みたい、言いました」
蔵前が顔を上げた。
「それは、いい意味で」
「はい。いい意味です。でも、間宮さん、そこで顔、止まりました」
「止まった?」
「はい。笑ってる顔、固まる。こう、冷蔵庫に入れたごはんみたい」
サンジーブは自分の頬を指で押さえてみせた。
「そのあと、休憩。戻らない。僕、ああ、と思いました」
「なぜですか」
「国でも、日本でも、見たことあります。体は店にいる。でも、顔が先に帰ってる人。そういう人、次の日来ないです。今日は、次の日じゃなくて、休憩のあとでした」
バックヤードの中に、鍋の湯気の匂いが流れ込んだ。甘辛い匂い。食欲をそそるはずの匂いが、そのときだけ少し重たかった。
田澤は手帳に何かを書いた。
「間宮さんの住所へ向かいます」
蔵前が苛立ったように言った。
「連れ戻せるんですか」
「連れ戻すかどうかは、調査後に判断します」
「こっちは困ってるんですよ」
「ええ」
「今日だけじゃない。こういうの、何回もあるんです。みんな急に来なくなる。こっちは店を開けてる。客も来る。誰かが穴を埋める。バックレた本人は布団の中かもしれないけど、こっちは営業中なんです」
蔵前の声は震えていた。怒りだけではなかった。疲労と、悔しさと、自分が悪者にされることへの恐怖が混ざっていた。
田澤は、その声を最後まで聞いた。
「その通りです」
蔵前は少し驚いた顔をした。
「間宮さんが来なかったことで、この店に被害は出ています。残った人に負担がかかり、客も待たされ、あなたも追い詰められた。その事実は消えません」
田澤はそこで、わずかに間を置いた。
「ただし、間宮さんが逃げる前に何を見たのかも、消えません」
間宮蒼太の家は、店から電車で四十分ほど離れた、古い団地の四階にあった。
階段の踊り場には、どこかの家の夕飯の匂いがこもっていた。カレー、焼き魚、柔軟剤、湿ったコンクリート。午後の団地には、昼でも夜でもない時間の寂しさがある。子どもの声は遠く、ベランダに干されたタオルは風もないのに少しだけ揺れていた。
田澤は四〇八号室の前で足を止めた。表札には「間宮」とあった。
璃子が小声で言う。
「いますかね」
「います」
「なぜ?」
「ドアの前に、まだ熱のある気配があります」
「詩人みたいなこと言いますね」
「靴です」
田澤はドア横の小窓の下を示した。換気のために少しだけ開いた窓の隙間から、玄関の靴が見えていた。新しそうな黒いスニーカー。牛丸食堂の面接に履いてきたものだろう。
田澤はチャイムを押した。部屋の中で、かすかな物音がした。だが返事はない。
もう一度押す。璃子は黙っていた。チャイムの音が団地の廊下に薄く広がり、どこかの部屋でテレビの笑い声がした。
「間宮蒼太さん」
田澤はドアに向かって、声を荒げずに言った。
「労働継続責任法に基づく事情確認に来ました。無断欠勤調査員の田澤です」
返事はない。
「怒鳴りに来たわけではありません。連れ戻しに来たとも、まだ言いません。ただ、あなたが今日、なぜ店に戻れなかったのかを聞きに来ました」
部屋の中で、また何かが動いた。間宮は、いる。
田澤は続けた。
「あなたが戻らなかったことで、店には被害が出ています。ホールは回らず、客は待たされ、同僚は休憩を取れませんでした。そのことは、あなたが聞く必要があります」
ドアの向こうが、少しだけ静かになった。
「同時に、あなたが戻れなかった理由も、こちらは聞く必要があります」
長い沈黙があった。
璃子は、廊下の壁に貼られた古い自治会の掲示を見た。資源ごみの日、夏祭りの中止、迷惑駐輪への注意。
どれも、誰かが誰かに迷惑をかけないための紙だった。社会はこういう紙でできているのかもしれない、と彼女は思った。約束、注意、お願い、規則。守れるうちは、ただの紙だ。守れなくなった瞬間、それは壁になる。
鍵が回る音がした。ドアが少しだけ開いた。
間宮蒼太は、部屋着のまま立っていた。髪はつぶれ、顔は青白く、目の下に薄い影があった。二十二歳にしては幼く見えたが、子どもというには、疲れすぎていた。
「……すみません」
最初に出た言葉は、それだった。田澤は頭を下げなかった。責めもしなかった。
「中で話せますか」
間宮は少し迷い、それからドアを開けた。
部屋は六畳だった。ローテーブルの上に、開封されていないカップ麺と、飲みかけの麦茶と、裏返しに置かれたスマホがあった。カーテンは半分閉まっている。昼の光が細く入り、畳の上に白い筋を作っていた。
間宮は布団の端に座った。田澤と璃子は、テーブルを挟んで向かいに座る。
「お店からの電話、出なかったそうですね」
田澤が聞く。
「はい。鳴ってるのは分かってました。でも、出たら、戻れって言われると思って」
「戻れと言われたら、戻るつもりでしたか」
間宮は首を振った。
「じゃあ、戻れないと言えばよかった」
璃子の声は、責めているほど強くはなかったが、柔らかくもなかった。現場の痛みを知っている声だった。
間宮はうつむいた。
「言えなかったです」
「どうして」
「分からないです」
璃子は何か言いかけて、やめた。
分からない。その言葉は、便利な逃げにもなる。だが、本当に分からないときにも、人は同じ言葉を使う。
田澤が静かに尋ねた。
「休憩に入る前、何がありましたか」
間宮はしばらく黙っていた。外でカラスが鳴いた。団地のどこかで、子どもが走る音がした。
「店長が、家族みたいなもんだからって」
その言葉を口にしただけで、間宮の喉が少し詰まった。
「嫌でしたか」
「嫌、というか……怖かったです」
「なぜ」
「分かんないです。でも、家族って言われると、逃げられない感じがして」
間宮は膝の上で手を握った。爪が白くなる。
「家族なら、迷惑かけちゃいけないじゃないですか。家族なら、助け合わなきゃいけないじゃないですか。今日初めて行っただけなのに、もうその中に入らなきゃいけないのかと思ったら、急に息ができなくなって」
璃子は蔵前の顔を思い出した。悪い人ではない。たぶん本当に、間宮を歓迎するつもりだった。その善意が、こんなふうに届くことがある。
「店長は悪気なかったと思います」
間宮はすぐに言った。誰かを悪者にするのを恐れるような言い方だった。
「サンジーブさんも優しかったし、女の子も忙しそうで、自分がいなきゃもっと大変なのも分かってました。だから戻らなきゃって思いました。でも、戻ったら、また声出して、水出して、間違えて、謝って、覚えて、家族みたいに頑張って、明日も来て、明後日も来て……」
彼は言葉を切った。
スマホが、テーブルの上で震えた。全員がそれを見た。
画面は裏返しのままだった。誰からの通知かは分からない。ただ、畳に小さな振動が伝わっている。
間宮は、その音を見つめながら言った。
「すみません。ほんとに、すみません。でも、あのドアから戻るのが、急に、すごく遠くなって」
部屋の中に沈黙が落ちた。田澤は手帳を閉じた。
「あなたが戻らなかったことで、三野さんという学生アルバイトは、トイレで泣いていました」
間宮の顔が歪んだ。
「サンジーブさんは休憩を取れませんでした。客は待たされ、何組かは帰りました。店長は本部に説明を求められるでしょう。あなたが開けた穴は、他の人間が埋めました」
間宮はうつむいたまま、何度も小さくうなずいた。
「はい」
「その事実は、消えません」
「はい」
「反則金の対象にもなります」
「……はい」
璃子は、間宮の肩が震えているのを見た。泣いているわけではない。泣く手前で、身体だけが先に反応していた。
田澤は続けた。
「ただし、あなたが逃げる前に、すでに追い詰められていたことも、消えません」
間宮が顔を上げた。
「え」
「本来なら、初日の新人は戦力ではありません。教育を受ける立場です。その新人が消えただけで店が大きく崩れたなら、それはあなた一人の責任ではない」
田澤の声は平坦だった。慰めではなかった。だからこそ、間宮の顔に少しだけ戸惑いが広がった。
「あなたには、正式な退職意思の提出と、貸与物の返却、そして店への謝罪連絡が必要です。復帰するかどうかは、そのあと決めてください」
「連絡……」
「こちらで同席します。今すぐでなくていい。ですが、逃げたあとにも、処理は残ります」
間宮はテーブルの上のスマホを見た。裏返したままの黒い板。そこには店からの着信も、母親からのメッセージも、見たくないものが全部詰まっている。
璃子が言った。
「戻れないなら、戻れないでいいです。でも、穴を開けたことだけは、自分で見た方がいいです。見ないで逃げると、たぶん次の職場でも同じことになります」
少し厳しい言い方だった。間宮は目を伏せた。
「はい」
その声は小さかったが、さっきよりは少しだけ、本人の声に近かった。
夕方、牛丸食堂新木場六号店では、サンジーブが遅い休憩を取っていた。客席の隅で、まかないの牛丼に七味をかけている。かけすぎて、表面が赤く染まった。
「それ、大丈夫ですか」
三野が言うと、サンジーブは真剣な顔でうなずいた。
「大丈夫。辛いと、今日のこと忘れます」
「忘れたいんですか」
「少し」
サンジーブは牛丼をひと口食べ、すぐに水を飲んだ。
「辛い。今日より辛い」
三野が少し笑った。目の周りはまだ赤かった。
蔵前は厨房で、端末に届いた調査報告の一次通知を読んでいた。間宮蒼太は正式退職手続きに移行。貸与物は後日返却。反則金の有無は行政判断待ち。職場側にも、新人配置と教育体制について確認項目あり。
「職場側にも、か」
蔵前は小さくつぶやいた。
自分が悪いのか。間宮が悪いのか。本部が悪いのか。人手不足が悪いのか。
どれか一つなら、どれほど楽だろうと思った。
店の外では、夕方の国道に車が増えていた。店内の蛍光灯は相変わらず白く、紅しょうがは赤く、煮込み鍋は次の客のために湯気を立てている。昼に起きた小さな崩壊など知らない顔で、店はまた夜の営業へ向かっていた。
田澤と璃子は、店を出て駅へ歩いていた。
「反則金、出ますかね」
璃子が聞いた。
「おそらく軽微扱いです」
「初日ですしね」
「ええ」
「でも、現場は本当に困ったと思います」
「困ったでしょう」
「間宮さんも、しんどかったんでしょうね」
「しんどかったでしょう」
璃子は横目で田澤を見た。
「どっちなんですか」
「どちらもです」
「それ、ずるくないですか」
「現場はだいたい、ずるい答えしか残りません」
駅前の横断歩道で、信号が赤になった。二人は足を止める。向こう側では、作業着の男たちが缶コーヒーを飲みながら笑っていた。
誰かが仕事を終え、誰かがこれから夜勤へ向かい、誰かが明日のシフトを思って黙り込む。街はそういう人間で動いている。
璃子は、ふと間宮の部屋の暗さを思い出した。裏返しに置かれたスマホ。半分閉まったカーテン。開封されていないカップ麺。
そして、店で走り回っていたサンジーブの笑顔も思い出した。笑っていなければ、仕事にならない人間の顔。
「バックレって、もっと軽い言葉だと思ってました」
璃子が言った。田澤は信号を見たまま答えた。
「軽い言葉ほど、重いものを隠すのに向いています」
信号が青に変わった。人の流れが動き出す。田澤も歩き出した。璃子はその少し後ろを歩きながら、今日一日で開いたいくつもの穴のことを考えていた。
店に開いた穴。間宮の胸に開いていた穴。サンジーブの休憩時間に開いた穴。三野の涙が落ちた、トイレの白い床の小さな穴。
誰かが逃げると、誰かが埋める。けれど、逃げなかった誰かの中にも、また別の穴が開いていく。それを埋める仕事なのか、暴く仕事なのか。田澤怜司という男が何をしているのか、璃子にはまだ分からなかった。
ただひとつだけ、分かったことがある。バックレは、消えることではない。消えたあとに、残された人間の中で、しばらく鳴り続ける音のことだった。




