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ヴァルブルガを風呂に入れる

 ランタンに油を注ぐネズミの姿を眺めながら角を曲がると、宿屋の外観が見えてきた。

 看板を見上げると『眠猫亭』とある。

 ネズミの天敵である猫は眠らせておけとでも言いたいのか。

 ブラッドは複雑な気持ちを抱えながら、宿の戸を潜った。

 やはり眠猫亭でも、ほとんどの仕事をお手伝いネズミがこなしていた。

 早めの食事を摂る客に、給仕をするネズミ。

 キッチンで調理を担当するネズミ。

 皿洗いをするネズミ。

 ビールをそそぐネズミ。

 亭主らしき太った男は、せっせと働くネズミたちをよそに、カウンターの裏で居眠りをしていた。

 さすがに宿の受付までネズミに押しつけてはいないらしいが、これではさぼっているのとほとんど変わりない。


「おい、亭主」


 カウンターの上の呼び鈴を何度も鳴らしながら声をかけると、ようやく亭主の重い瞼が開いた。


「おっと、すみません。お客さんでしたか」

「数日滞在したいんだが」

「かしこまりました。あ、そいつは裏口から入らせて下さいよ」


 亭主が汚いものを見るような眼で、ヴァルブルガを示す。


「お貴族様の手を煩わせちゃってすみませんね。でも、うちには他にもお客さんがいるんでね。召し使い用奴隷に、お客さん方と同じ出入口を使わせたと知れたら、何を言われるかわからんので」


 さすがのブラッドも絶句した。

 どうやら亭主はヴァルブルガを奴隷、ブラッドを貴族だと勘違いしているらしい。

 このウィンドリア王国に奴隷の売買を禁ずる法はないものの、古くから伝わる悪しき風習として軽蔑する者が多い。

 未だに奴隷を連れ歩いているのなんて、時代錯誤の悪徳貴族ばかりだ。

 ブラッドの妻ルクスも奴隷制度に嫌悪感を抱いていていたため、ブラッド自身もあまりいい印象は持っていない。


(なぜそんな誤解をされたんだ?)


 ブラッドは戸惑いながら、ヴァルブルガを振り返った。

 泥まみれの顔と汚れた衣服。埃をかぶった髪。

 たしかにこの姿では奴隷と間違われても無理はない。

 ひどい姿のヴァルブルガは、もじもじとしながら指をいじっている。

 奴隷だと間違われたせいか、照れ笑いの中に、泣き出しそうな気配も感じ取れた。


(さすがに泥汚れは落としておくべきだったな……)


「すまないが、こいつは奴隷じゃないし、俺も貴族ではない」


 自分がその行動を怠った自覚はあったため、ブラッドはきっぱりとした口調で、亭主の言葉を否定した。

 ヴァルブルガが傷ついているから庇おうと思ったわけでは決してない。少なくともブラッド自身はそう信じていた。

 宿の亭主は、仏頂面のブラッドが苛立っていると受け取ったらしく、目に見えて焦りはじめた。


「えっ……? ……と、ということはそのガキ、いえ、お嬢さんは、お客様の娘さんでいらっしゃる……?」


 ブラッドの鳩尾辺りが、ちくりと傷んだ。

 でもここで否定すれば、事態は余計ややこしくなる。

 結局ブラッドは自分の心への妥協案として、無言で頷いた。

 その瞬間、ヴァルブルガが大きな瞳をキラキラと輝かせた。

 ヴァルブルガの半歩前に立つブラッドが気づくことはなかったが……。


「も、ももも申し訳ありません……! お子様を奴隷と間違えるなど……!!」

「いや、気にしないでくれ。身なりを整えておかなかったこちらの落ち度だ。すぐに洗ってやりたいので、風呂の用意を頼めるか?」


 慌てふためいた亭主は、二つ返事で承諾した。


◇◇◇


 さて、ヴァルブルガの洗浄だ。

 まずは上下とも下着になったヴァルブルガを空の浴槽に座らせ、手渡した石鹸で髪や体を洗うよう指示する。


「えっえっ、あのヴァル……髪は洗わなくていいかも」

「いいわけないだろ」

「でもでもぉ……おだんごとっちゃうと、ヴァル自分でできない……」

「お団子? その頭の丸い奴か」

「ヴァルこれすき。なくなるなら髪洗わないもん!」

「くだらないワガママを言うな」

「や! ブラッドがおだんご作ってくれないなら洗わない!」

「馬鹿か。俺はやらないぞ」


 ――それから十五分。

 結局ヴァルブルガのお団子頭にかける執念が勝利を収め、ブラッドは髪型を整えてやるという条件を受け入れさせられたのだった。

 もちろん不本意だったが、奴隷を連れ歩いている悪徳貴族だと勘違いされるよりはましだ。

 それにカブも言っていたように、ヴァルブルガを連れ歩くのなら、最低限の面倒は見ざるを得ないのだ。

 髪を整えてやることも含め、ヴァルブルガの世話を焼くと決めたのは、復讐に通じる旅を円滑に進めるために妥協が必要だと感じたからだ。決して、ヴァルブルガに愛情を注ぐためではない。

 そういう理屈を自分の中で構築すれば、不満な気持ちも多少は落ち着いた。

 しかしヴァルブルガの洗浄案件は、そこからもまた困難続きだった。

 ひとまず髪を洗わせることには成功したが、様子を見ていると、手つきはたどたどしく、ちっとも汚れが落ちていない。

 そもそも石鹸を泡立てる方法すら理解していないようだ。

 ヴァルブルガが乾いたままの石鹸を頭にこすりつけだした時には、大きな溜息が出た。


「やり方を教えるから覚えろ」


 ヴァルブルガの手から石鹸を取り戻し、湯を汲んでおいた木桶に浸す。


「ほら、こうやって泡を立てるんだ」


 ヴァルブルガに見せながら、石鹸を挟んだ両手を数回すり合わせる。

 白い泡が湧き上がってくると、ヴァルブルガがはしゃいだ歓声を上げた。


「わあ! ぶくぶく!」

「おまえもやってみろ」

「うん! ヴァルやる!」


 もう一度、石鹸を手にしたヴァルブルガが、ブラッドとそっくり同じ動作をする。

 まだどこかぎこちないが、それでも何度か繰り返すうち、小さな手の中に泡が立ちはじめた。


「その泡を頭に乗せて、髪を洗うんだ」


 真剣な顔で頷いたヴァルブルガが、泡のついた手をぺたぺたと頭に当てる。

 そこからが問題だ。

 ヴァルブルガなりにがんばって手を動かしてはいるが、洗うという行為とはほど遠い。

 やはり四歳の子供が一人で髪を洗うのは難しいようだ。

 だんだん腕も疲れてきたらしく、苦行を耐え忍んでいるような顔つきになってきた。


「……もういい。俺がやる」


 ブラッドがそう伝えると、ヴァルブルガはホッとした顔になって両手を下した。

 ブラッドは無言のまま、ヴァルブルガの髪を黙々と洗った。

 ヴァルブルガを汚れたままにしておくと不都合が多すぎるのだから仕方がない。

 かつて娘がまだ生きている頃、娘の髪を洗うのはブラッドの役割だった。

 ブラッドが参加させてもらった数少ない育児だったため、記憶にも鮮明に残っている。


(だめだ。今は思い出すな)


 これ以上、ヴァルブルガと娘の姿を重ねてはいけない。

 そんな失敗を続ければ、いつかヴァルブルガを殺す際に、きっと躊躇ってしまうから。

 ブラッドの複雑な気持ちなど知らず、髪を洗われているヴァルブルガは安心しきった顔で目を瞑っている。


(なんで俺はこんなことをしているんだ……)


 偶然が重なりあった結果だとわかっていても、そう嘆かずにはいられなかった。


◇◇◇


 髪は洗い終えたが、問題はまだ残っている。

 ヴァルブルガを湯船に浸からせている間、ブラッドは彼女の衣服を確認した。

 買って間もないというのに、あちこちにシミができている。

 石鹸を用いて手もみ洗いをすれば落とすことはできたが、なぜここまで汚れたのか理解しがたい。


「食べこぼしやソースでついたシミがほとんどだな。まったく、どんな食べ方をしているんだ?」


 洗い終わった服をしぼって、部屋干しにしながら呟く。

 もちろん食事中だって、ヴァルブルガを見張ってはいる。

 ただし視界の端に入れておくだけで、行動を観察するわけではない。


「今日の夕食時に確認してみるか」


 ヴァルブルガとは相変わらず一度も食卓をともにしていない。

 今日もそのルールを破るつもりはなかった。

 亭主には一人分の食事だけ部屋に運んでくれるよう頼んである。

 ヴァルブルガが風呂から上がったタイミングで、ちょうど食事が届いた。

 部屋に備え付けの小さなテーブルに、ヴァルブルガが一人で着くところまではいつも通り。

 いつもならここで窓際に向かい、外の様子を眺めながら時間を潰すのだが、今日のブラッドはヴァルブルガの向かいに腰を下ろした。

 当然、ヴァルブルガは不思議そうな目でブラッドを見上げてきた。


「どうしたの? おなか減ったの?」

「そうじゃない。俺を気にする必要はないから、さっさと食え」

「うん」


 まだこちらを気にしてはいるが、腹が減っていたのだろう。

 ヴァルブルガはブラッドのほうをちらちら見ながら、スプーンに手を伸ばした。

 その後の行動を見た瞬間、ブラッドはぎょっとなった。

 ヴァルブルガのスプーンの握り方は明らかにおかしい。

 そのせいで、スープは口に入る前にほとんど零れてしまう。

 しかも零れた雫は、服に跳ね飛ぶ。

 フォークも逆手持ちのため、思うように料理を掴めていない。

 じれったくなったヴァルブルガは、しまいには指を使いはじめ、汚れた手を服の裾で拭うという行為を繰り返した。


(なるほどこうやって汚したわけか……)


 カブにも指摘されたが、ヴァルブルガはまだ四歳かそこら。

 一人で完璧に食事をこなせるわけがない。

 当たり前に、大人の手助けが必要な存在なのだ。

 ブラッドが無意識に溜息をつくと、ヴァルブルガはビクッと肩を揺らして、食事の手を止めた。


「ヴァル、悪いことした……? ごめんなさいしたほうがいい……?」


 不安そうな顔でそう問いかけられる。


「……フォークはこう持ったほうが扱いやすい」


 ブラッドは、ヴァルブルガの手の中からフォークを抜き取ると、正しい形で握らせ直した。

 ヴァルブルガの小さな指は、まだ赤ん坊のようにぷにぷにしている。


「……ほら、この持ち方で食べてみろ」

「! わ、わかった!」


 大真面目な顔でヴァルブルガが頷く。

 それから正しい持ち方で付け合わせのニンジンを刺そうとするが、慣れていないせいでなかなかうまくいかない。


「あれ……。うーん、あれ……」

「焦らなくていい。落ち着いてやれ」

「う、うん。……あっ!」


 手元が狂ったのか、硬質な音を響かせてフォークがテーブルの上に落ちる。


「わああ! ご、ごめんなさ……」

「馴れてないんだから仕方ない」


 フォークを拾ったブラッドは、手拭いで軽く拭ってからヴァルブルガに尋ねた。


「もう一度やってみるか?」

「がんばる……!」


 嫌々従っている感じは見られなかったので、再びフォークを正しく持たせてやる。


「うんと、こうして、こうして……」


 相当集中しているらしく、唇が少し尖っている。

 その珍妙な顔と、子供らしい生真面目さがおかしくて、わずかにブラッドの表情が緩む。

 もちろん当のブラッドは、気づいてなどいなかったが。


「よいしょ、わっ」


 なんとかフォークがニンジンに刺さった。

 ヴァルブルガはますます緊張した面持ちになり、慎重な動きで口元までフォークを運んだ。

 ブラッドも思わず息を止めて見守ってしまう。

 フォークは苦しいぐらい長い時間をかけて、ようやくヴァルブルガの口元に辿り着いた。

 小さな口がフォークを迎えるため、恐る恐る開かれ……。


「あーん。もぐもぐ。ごくん!」


 ヴァルブルガの喉がわずかに動く。


「できた……!」


 ニンジンを口にしたヴァルブルガがうれしそうに呟く。


「よし、いいぞ……!」

 ヴァルブルガの背後に立っていたブラッドは、ごく自然にそう声をかけていた。

 その直後、ヴァルブルガがこちらを振り仰いできた。


「できたよ!」


 目を見て報告しながら、満面の笑みでブラッドを見つめてくる。

 ブラッドはハッとして身を強張らせた。


「……ああ、そうだな」


 なんとかその言葉だけ捻り出したが、それだけで喉がカラカラになった。

 喜びを分かち合いたい。

 褒められたい。

 そんな気持ちが、ヴァルブルガの素直な表情からあけすけに伝わってくる。

 ヴァルブルガの想いを受け止められないブラッドは、おもむろに席を立った。


「そのまま続けるんだ」


 それだけ伝えて背を向ける。

 微笑みかけられるのが怖くて、正直ヴァルブルガのことを見たくなかった。

 恐れるものなどもう何もなかったはずなのに……。

ここまで読んでいただきありがとうございます!


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ヴァルが無邪気なだけにしんどいねぇ 恐れっていうのは成程感
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