Ⅰ.
「もう嫌!」
「琥晴……!」
「やだよ……。行かないで、置いて行かないで。もう、もう一人は嫌」
「琥晴……」
ひたすらに喚き散らして、感情のままに泣き叫んで、体の水分が全部抜けるんじゃないかっていうくらい涙が出た。感情の波が落ち着いて、ようやく疲れてやっと収まった。それでもまだ引きずっていて、しゃっくりが出る。鼻をすすって、自分の頬を雑に拭った。
恐る恐る顔を上げると、芭月が白い顔で眉を下げて困ったようにしていた。
「……!」
芭月を困らせた。怖がらせてしまった。迷惑をかけた。痛い思いをさせた。やってしまった。やってしまった、やってしまったやってしまったやってしまった……。
私がこんなだから、誰も見てくれなかったなんてわかりきっていたじゃないか。なんで、それをわからずに自分が思うままやりたいようにやってしまったの……? ああどうしよう。このままじゃ芭月に、芭月に嫌われる。離れていっちゃう。
――やだやだやだやだやだやだやだやだ……!
駄々こねをしたくても、これ以上困らせたら、という恐怖で声が出なかった。
喉が引き攣れるような痛みが走った。呼吸が不規則になって、変な音がする。
痛い。苦しい。やだ、怖い……!
「うっ……」
「こ、琥晴、落ち着いて。落ち着いてよ……!」
芭月の困りきった声が鼓膜を揺らして、余計にゾクリと背筋が凍った。
耐えきれない恐怖に押しつぶされて、ギュッと目を閉じた。喉は変な音を鳴らしたまま、歯を食いしばってこの恐怖がどこかに行ってくれるよう祈った。
ふわりと、温かい何かが私の背に触れた。それは私の背中を撫でてくる。上へ、下へと繰り返し動くそれは、動く度に私の呼吸を落ち着かせ、力んだ体を緩ませた。
「落ち着いた……?」
温かい声が鼓膜を揺らした。さっきとは違うそれが柔らかくて優しくて。
「私は、……ここにいるよ。大丈夫」
優しく包み込むような声に、緊張が一気にほぐれた。優しく抱きしめられた体の触れたところが、熱を持って少し暑い。でも、その暑さが妙に心地よくて、気持ちが良かった。
トン、トン——と、一定のリズムで背中を叩かれ、さっきまでの苦しみが嘘のように引いていった。
芭月の肩口に頬を押し付け、収まらない涙の波でしゃっくりを繰り返す。一定の間隔の振動の気持ちよさと、腫れ上がって重たくなった瞼が相まって、少しずつ意識が遠のき始める。
「はづき……」
「なあに」
絵本でよく見たお母さんのような柔らかい返事が少しくすぐったい。
「ごめんね、きゅうに。びっくりしたよね。……おねがい、きらいにならないで」
「なるわけがないよ」
思ってもないことを言われたというような口調に、心に温かい何かが溜まる。
「琥晴」
「んー?」
「大丈夫だよ。安心して」
「……うん」
瞬きするのも億劫なほど、瞼が重たい。うとうとと浮遊するような意識を泳ぎつつ、芭月の服を掴んで離れていってしまわないよう抱きしめた。
「あのね、はづき」
「うん」
「だいすき」
***
「だいすき」
眠たげな声ながらも、確かに愛情を感じる声でそう言われた時、心臓が止まるかと思った。現に、琥晴の背を叩くリズムが乱れた。
あまりの嬉しさに、琥晴を強く抱きしめてしまった後、しまったと焦る。しかし、私をこんな動揺させた本人は、泣き疲れたのかすうすうと可愛らしい寝息を立てて眠っている。
「寝てる……」
思わず声に出してしまうほどに、寝付きがいい。
「もう……こっちの気も知らないで」
私にしがみついたままぐっすりと眠る少女を、横に寝かせようと引き離そうとすると、急にぎゅっと力が入って離せなくなった。
てっきり起こしたのかと思ったが、そんなことはなく無意識に私を掴んでいるようだ。あまりのいじらしさに心臓をぎゅっと掴まれた心地がする。
琥晴への愛おしさが溢れて、寝かせることを諦めて抱きしめた。
ふと、影のかかる感情が顔を出す。
——琥晴だけは死なせるつもりはない
今もきっと私と死ぬことを夢見た哀れな少女。
私は、嘘をついていない。一度だって「『一緒に』死のう」なんて言っていないもの。けれど、真実は隠して誤解させる言い回しをしている。自分の醜い性根なんて嫌というほど自覚している。どす黒くて、汚くて、見るのも憚られるほど醜い私。
琥晴は童話に出てくる純真無垢で可憐な少女。私はその少女の無垢さを利用して騙す魔女。それなのに魔女が少女に恋をしているとは、歪んだ愛情にもほどがある。
わかっていても、やめられない。止めようがない。抑えが効かないのだ。
さっき、「もう死のう」と言われたときはとても焦った。あんなに錯乱した様子の琥晴は初めて見たから。
あんなに苦しそうに、痛そうに叫ぶ姿が痛々しくて、可哀想。そう確かに、思って私まで苦しくなった。なのに、それでも「行かないで」、「置いて行かないで」、そう叫ばれた時どうしようもないほど昂奮した。緩む口元を誤魔化すのに必死で、私はきっと変な顔をしていたかもしれない。
こんなに可愛い琥晴を、本当は優亮なんかに会わせたくなんてなかった。だって琥晴は私だけのもの。だけど、私が死んだら琥晴は一人になってしまう。
一人を酷く嫌う琥晴はきっと、私がいなくなったら耐えられないだろう。……そうであってほしい。でも、だからといって琥晴に死んでほしいわけじゃない。
だから、琥晴を守る役目を与えるために、優亮を会わせたというのに。
「……」
琥晴がいる手前、舌打ちを何とか堪える。
あいつは、いつもそうだ。期待をすればした分だけ、こっちを失望させる天才だ。
あいつなら助けてくれると信じて、私が助けを求めたらあのざまで。琥晴に寄り添う役目を与えたら、無神経に琥晴の心を酷く傷つけた。
久しぶりに会ったからって少しは成長しただろうと、期待した私が悪かった。あいつは何も変わってなかった。あの頃のままだった。無神経に他人の心を引き裂いて傷つける。
「まあ、人のことは言えないか」
ため息を一つついてそばにおいておいたスマホに手を伸ばす。
メッセージを送るためにチャットアプリを開く。送信相手はもちろん優亮だ。
『おい』
腹立たしさを感じながら一言送信をした。返信が来るまで暇で、琥晴の髪を梳く。柔らかい触り心地のいい髪で何度も梳いて、その触り心地を楽しむ。
メッセージを送ってからほんの数分。スマホがシンプルな音を鳴らした。鼻を鳴らしながら、通知の内容を確認する。やはり優亮から返信が来ていた。
『なに』
ひと目見てあいつらしいな、と感じた。きっと自分が何をしでかしたかをわかった上で、私からの連絡に何を返すべきか悩んだ上での内容だと分かる。後悔の仕方だけは人一倍に上手だから。
『贖罪のチャンスをやる』
『何をすべきか考えろ』
そこからまた数分間があったあと、
『わかった』
何を思ったのか、一言だけの簡素な返事が返ってきた。
贖罪の機会を与えるとは言ったものの、結局は琥晴があいつにまた会いたいと感じるかどうかだ。
「はあ……」
スマホを握ったまま、無意識にため息が漏れた。
「ん、んぅ……」
眠っている琥晴が身動ぎしながら私の胸に頭を擦り付けてくる。一瞬起こしたのかと心配したが、またすぐに柔らかい寝息を立て始めた。
……かわいいな。かわいい。かわいい。
愛おしさが込み上げて、私にしがみついて離れない琥晴の頭を抱きしめる。髪から香るシャンプーの匂いが、この子がまともな暮らしをしている証で少し安心する。
それと同時にどうしても羨ましくて仕方がない。
琥晴はこの環境が辛くて、苦しくてたまらないというのはわかっている。それでも、琥晴が苦しんでいるというのをわかっていても、この環境が羨ましくて、どうしようもなく欲しくてたまらない。
暴力を振るわれるのが当たり前の毎日にはもううんざり。まあ、とっくの昔に痛い、苦しいなんてものは忘れたのだけれど。最近じゃ、ただただうざったいものとしてしか捉えることができない。
だから、殴られることはもちろん、干渉すらされないこの琥晴が身を置く環境が。ただ、ただひたすらに羨ましい。できることなら変わってほしいと思うほどに。流石に、琥晴をあいつらに会わせる真似なんてするつもりはないけれど。
夏休みの終わりまで、あと一週間。
私は琥晴と、この世界に何かを残せるだろうか。恨みでも、憎しみでも、ドス黒い感情でもなんでもいい。この世界でのうのうと生きる奴らに傷の一つや二つ、つけたところでバチは当たるまい。どうせ死ぬのだから。
ああでも、琥晴は誰も傷つけることなく真っ白のままでいてほしい。純粋無垢なまま、世の中の汚いものをまともに知らないままで。これは流石に私のエゴの押しつけか。
それでも琥晴は童話の少女のように無垢で居続けてほしい。
そんな琥晴に、私は何を遺せるだろうか?




