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夏を嘲笑う  作者: 春樹蒼空
傷だらけでも
13/13

Ⅱ.

 日が傾いて、窓から朱色の光が差し込んでいる。

 芭月は目を腫らして、鼻を赤くしていた。まだ涙を引きずっているのか、わずかにしゃっくりを繰り返している。変わらず私は、彼女の背中を優しく叩いて、波が引くのを隣で待っていた。

「ありがとう、琥晴。本当にありがとう」

 鼻をすすりながら、心から安心した芭月の顔に、私もホッとした。きっと私にとって芭月だけが救いであるように、芭月にとって私だけが救える存在になれた気がして嬉しかった。

 ただ、どうしても羨んでしまう。

 そんな考えを振り払いたくて、頭を振った。

「もう、大丈夫。ありがとう」

 今まで聞いていた『大丈夫』の中で、私も大丈夫だ、と思える暖かい声音だった。

「あー、目がぱんぱん。いつぶりだろう、こんなに泣いたの」

 照れくさそうに笑顔と、腫れて一重になってしまった目がどことなく愛おしく感じた。

 芭月は気合を入れるようによし、と呟いて勢いをつけて立ち上がった。そのあとに私の手を掴んで引っ張ってくれた。

「いたっ……」

「あっ」

 引っ張られた影響で、手首が痛んだ。よく見ると、くっきりと手の形で痣のような痕がついていた。

「あ、さっきの……?」

「あ、ご、ごめん……! ごめんね、琥晴!」

「いや、全然気にしないで! そんなに痛くないから!」

 また泣き出しそうな顔をした芭月を、慌ててなだめる。そう、気にしていないのだ。むしろ嬉しいくらいだ。芭月につけられたという事実が、たまらなく嬉しかった。

 ただ、芭月にとっては、そうもいかないのかもしれないけど。きっと、人一倍暴力には敏感だろうから。自分が苦しめられているからこそ、それと同じことを人にしたくないという気持ちが強いのだと思う。

 でも、私は大丈夫。なんでって言われても言えないけど。

 芭月は私の手首についた痕をそっと撫でた。痛いようなくすぐったいような変な感じで、思わず笑い声が漏れた。不思議そうに芭月が顔を覗き込んできたが、痛みを和らげようとするように、優しく撫でてくれる。

「芭月」

「痛かった?」

「ううん、そうじゃなくて。今日はどうする?」

「あー……」

 考えていなかったと言わんばかりに、決まり悪く口を曲げた。私も芭月と同じく、何も考えていなくて、二人して考える。

「……うち来る?」

 なんとなく思いついた案を口にすると、芭月は驚いたように目を見開いた。嫌だったかな、と思う前に、

「うん! 行きたい!」

 満面の笑みに変わり、ジャンプして喜びを全身で表現した。そんな姿にかわいいと思い、私も笑顔になった。

「実はさ、あんな話をした後だから、家に帰りたくなかったんだ」

「そうかな、とは思ってたけどやっぱり……?」

「うん。学校がないのと、私がもう誰にも助けを求めなくなったのをいいことに、いつもより酷いんだ」

 どうしても深刻さを伴わない口調に、それが日常に溶け込んでしまっていることが嫌でも分かって、なんとも言えない気分になる。

「だからさ! 琥晴の家に行ってもいいなら行きたい!」

「うん、いいよ。おいで」

 心底楽しそうに歯を見せて笑った芭月に、つられて私も笑った。

 どうせ、あの人たちのことだ。私が友人を連れて行ったところで、何も言わないのがオチだろう。そう甘く考えて、私は芭月を家に招待した。


 私の家に向かっている間、落ち着かないのか芭月はそわそわとしていた。送ってもらったことはあるけど、招いたことはないからそれだからかな。

 なんとなく手を握ると、とろけたように微笑んだ。

「ただいま」

「お邪魔します」

 芭月の前でただいまと言わないのも変だと思い、いつもよりは大きい声を出した。

「あら、お友だち……?」

 その声に過剰反応して、体が固まった。久しぶりに聞いた母の声。偶然廊下を歩いていたのか、鉢合わせてしまった。

「おかえりなさい」

 知らない。そんな、そんな温かい声。

「どうぞ、上がって行って」

 知らない。……そんな優しい声。

 そんなあったかくて優しい声出せたんだ。一回も、聞いたことない……。

 無意識に奥歯を噛み締めていて、痛みを感じてようやく気づいた。

「なんか、優しそうな人だね。思ってたのと違うかも」

 何気ない芭月の一言が鋭く私の心に突き刺さる。

 ああ、やっぱり私は……、あの人達には見てもらえないんだ。

「……」

 何かを感じたのか、芭月はそっと私の頭を撫でてくれた。その手が温かくて、優しくて、涙が出そうだった。

 自分の部屋に芭月を連れて、ドアを締めた途端糸が千切れたように足に力が入らなくなった。その場に倒れ込んで、床に倒れた衝撃かなにかで息が詰まって、呼吸が乱れた。それに体が驚いたのか、過呼吸を起こして動けなくなった。

「琥晴……! 琥晴! 大丈夫?」

 頭がくらくらしてふわふわする。苦しい。

「ゆっくり、吸って。止めて、ゆっくり吐いて」

 そっと背に当てられた手と、規則的に掛けられる声に合わせてゆっくりと呼吸をする。

 乱れた呼吸がだんだんと落ち着いてきた。それと同時に胸が痛くて吐きそうで、涙がボロボロと流れては落ちた。

「あっ、あ、あぁ……! あぁ……! ぅあぁああっ!」

 溺れたように胸が圧迫された。さっきとは違う、異様な苦しさに喘いだ。

 全部、苦しいの全部吐き出したい。嫌だ。痛い、苦しい。嗚咽が止まらない。

 ――もう、早く消えてしまいたい。

 無意識のうちに、芭月に縋り付いた。そしてその体をぎゅうぎゅうと締め付ける。

 離しちゃだめだ。離しちゃいけない。この人だけは。芭月だけは、絶対に。じゃないと、もう、私は今この瞬間すらも生きていられない。そんなの嫌だ。誰にも見てもらえずに死ぬなんて、そんなの、そんなの、絶対に嫌だ。せめて誰かに見られていたい。せめて誰かと一緒がいい。

 自分の壊れる音がした。


 ***


「おかあさん、わたしね、テストで百点だったよ! クラスで一人だけなんだって!」

 先生も、友達も、みんなすごいねって褒めてくれた。だから()()()()おかあさんも褒めてくれるはず。そう意気込んで、答案用紙を握りしめる。紙に手汗が滲んで少しくしゃくしゃになってしまった。

「そう……、頑張ったのね」

「っ……」

 おかあさんはわたしの方を少しだけ見て、すぐにお料理を再開してしまった。

 また……、褒めてもらえなかった。なんでだろう。同じクラスの子は、満点を取れば褒めてもらえるって言ってたのに。どうしてわたしは褒めてもらえないんだろう。

 いつもそう。おかあさんはわたしのことを褒めてくれない。なんでかはわからない。でも「すごいね」「よくできたね」なんて、一言も言ってもらえたことがない。

 だから、おかあさんはわたしのことが嫌いなのかもしれない。それに、おとうさんもわたしのことが好きじゃないんだと思う。ふたりとも、わたしのことを褒めてくれたことが一度もない。

「どうしたら、いいのかな」

 ある日、同じクラスの子が別の子に話している声が聞こえた。

「この間テストの点数が悪くて、ママに怒られちゃった」

 ……怒られる。そっか、おかあさんから掛けられる言葉は褒め言葉だけじゃないんだ。子供の為を思ってなんだから、怒るってことは嫌いじゃないってことになる。

 わたしにとってその考えは天からの恵みのように、輝いていた。

 それからわたしはわざとテストの点数を少しずつ下げていった。いきなり低すぎる点数を取ったら怪しまれると思ったからだ。

 何度目かのテストの結果が、ようやく誰が見ても悪いと感じられる点数になった。

 ようやく、ようやくだ。これでおかあさんはわたしのことを見てくれる。きっとおかあさんは褒めるのが下手なだけで、わたしのことは好きなはずだ。きっとおとうさんだっておんなじはずだ。

「お、おかあさん。今日のテストね、あんまりよくできなかったの」

 わざとしおらしい態度で、落ち込み反省している風を装って、そっと手汗の滲んだ答案用紙を差し出した。

 ねえ、ほら、怒って。よくできなかった悪い子だよ。今までいい子だったのに悪い子になっちゃったから、怒って。

 ――お願い……!

 自分では気づけていなかった。わたしにとって褒められる、怒られるなんてことはどうでもいいことなのだと。それを通じて両親からの愛情を求めていたんだと、気づかなかった。気づけなかった。

「そう……、次頑張ればいいんじゃないかしら」

 興味がない、それを明確に感じさせる声音だった。足元が抜ける感覚というのを子供ながら知った。自分は愛されていないのだと、いらない子なのだと思いこむのには時間がかからなかった。

 それ以来わたしはテストの結果や、日常の出来事の断片さえも両親に話すことはしなくなった。

 学校では、急に性格が暗くなったわたしを気味悪く思ってか、もともと少なかった友達はみんな離れていった。

 余計に、強く、孤独を感じるようになった。

 誰も、誰も私を見てくれない。私の周りには誰もいない。それがあまりにも恐ろしくて自分の部屋でガタガタと震えた。自分の存在が空気に等しいのだと家でも、学校でも、思い知らされた。

 いつかはもう忘れた。けれど、高校生の始めあたりで心の折れた感覚があった。

 友達だと思っていた人がいた。けれどそれは私の思い込みで、その人にはたくさんの友達がいて、その大勢の一人に過ぎないのだと自覚した。私を特別だと思ってくれる人は、この世界に一人もいないのだと、思うしかなかった。私には誰もいないのだと。

 それから世界はすべて色褪せて、遠くの出来事のように感じるようになった。心が折れた後も惰性で日々を過ごしていたが、その惰性すら尽きた。

 

 高校二年の七月。夏休みが明日から始まる日に、人生を終わらせようとした。

 鍵の壊れた屋上の扉を開けると、視界いっぱいに広がった。憎たらしいほどきれいな青空。

 転落防止用の柵を乗り越えて、私を見下す入道雲に舌打ちをした。

 感情が渦巻いて吐き気を感じながら、存在しない足場に一歩を踏み出した。重力に身を任せて落下する――その直前。

「琥晴」


 ***


 懐かしいような懐かしくないような、思い出したくもない夢を見た。考える気力がまるで湧かない。寝返りを打つと、目の前に芭月の顔が現れた。ぎょっとしたがなんとか声を飲み込む。

 昨日……、昨日? 今が何時かわからなくてスマホに手を伸ばす。

『23:37』

 まだ今日というべき時刻だ。

 今日、何があったのかまるで思い出せない。そこだけごっそりと抜け落ちたように、きれいに記憶がなくなっている。

 覚えていることとしては、芭月を家に招待したこと、私の部屋につれてきたこと……、あとはもう記憶にない。そのせいで推測しかできないが、きっと二人して疲れて眠ってしまったのだろう。でなければ私のベッドで二人一緒に眠っていることの説明ができない。

 人の温もりが、芭月の体温があったかくて微睡む。あくびを一つして、再び目を閉じるとあっという間に意識を手放せた。

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