いち
自分が不遇な身であると理解するのと、前世の記憶が蘇ったのは同時だった。
というか前世の記憶と感覚が蘇ったから、今の自分の状況を正しく認識できたといったほうが正しい。それまでは意識はあるけど、自我がないみたいな状態で、前世の自分が蘇る以前のことは思い出せても映画を観ているみたいに実感がない。
だから生まれ変わったというより、この体に急に私という自我が乗り移ってしまったという感覚が近い。
硬いベッドに腰かけ、私は自分の手をじっと見つめた。
凄くちっちゃい。
紅葉の手じゃん。
つまり、幼女だ。
「ばんなそかな!」
あ、間違えた。そんな馬鹿な!
思い出したばかりの記憶が正しければ、私は二十代の孤独な社会人で、ベッドだってもっとフカフカだったはずだ。
トラックに跳ねられた記憶はないが、突然頭を勝ち割られたみたいな凄まじい頭痛に襲われて気を失ったことだけは、なんとか覚えている。確証はないけれど、そのままお陀仏してしまったんだと思う。不思議なことに、自分は一度死んだのだという確信が私の中にはあった。
そして転生して、いま記憶と自分を取り戻した。
とりあえず今はそう思うことにしよう。
そこで私は改めて部屋を見回した。
ベッドと粗末なテーブル以外何もない。明かりは天窓から差し込む月の光だけで、部屋の隅には塗りつぶしたみたいに真っ黒な闇がわだかまっている。
とても寒々しく、息がつまる部屋だった。
そう思うと急に寒気がして、私は膝を抱えて丸くなった。
真っ赤な髪の毛がさらさらと肩から流れ、視界は真紅のカーテンに閉ざされる。
その髪色があまりにも前世の黒髪とかけ離れていて、私はだだっ広い海のど真ん中で遭難したような心地になった。
自我がなかったころの記憶はどれもぼんやりとして、断片的だ。
それでも一生懸命かき集めて、わかっていることをまとめたいと思う。
私の名前はセシリア。
セシリア・ゴルトベルク。
バッハが不眠症の伯爵のために作曲したという逸話で有名な変奏曲と同じ家名だ。
そして私の実家であるゴルトベルク家も由緒正しき伯爵家で、私はその長女である。
伯爵家の長女なのにこの扱いは、いったい何事か。責任者はどこだ。パパとママにチクってやる!
と言いたいところだが、どうやら私は両親が選んだ「生贄」なのだそうだ。
いくらこの世界が中世ヨーロッパぽいからって、血の繋がりがある娘を生贄にするとか頭おかしいんじゃないだろうか。
しかもちゃんと跡継ぎになる弟と妹がいるらしい。
そう、私は生贄になるためだけに生まれてきた子供らしいのだ。
いやいやいや。
いやいやいやいやいや。
「ばんなそかな!」
あ、間違えた。
「そんな馬鹿な!」
言いなおしたところで、牢屋みたいな部屋の暗闇に吸収されるだけだった。
このままではせっかく色々思い出したのに、またすぐお陀仏することになってしまう。
お陀仏なんて言い方しているが、圧倒的死が私の背後に張り付いているのだ。
「……逃げなきゃ」
自分の体をぎゅっと抱きしめ、私は呟いた。
前世を思い出したのは、もしかしたら生き延びるためなのかも。
ここがどんな世界で、逃げ出した後どうやって生きていくのかとかは何もわからないけれど、何もしないよりはきっとマシだ。
幸いなことに今まで自我のない人形みたいにしていたからか、逃げるチャンスはいくつもありそうだ。部屋こそこんな感じだけど。
硬いベッドの上で、私は天窓から見える月を見上げた。
限りなく満月に近い月は、ただ冷たく静かに輝いていた。
いつ生贄にされてしまうかわからなかったので、脱走は夜に決行することにした。
外のことが全くわからない以上、暗闇に紛れて逃げるしかない。
朝から緊張してしまってあまり食事をする気になれなかったが、これからしばらくはちゃんとした食事をとれない可能性もある。
残さずしっかり食べると、食器を下げに来たメイドが驚いた顔をしていた。なんならおやつを持ってきてくれてもかまわんぞ。
「私はいつ殺されるの?」
そう尋ねると、まるで幽霊でも見たかのようにメイドは青ざめた。
実のところ長い間声を発していなかったせいで、ァダシ、ア、イヅゴロサ、ル……みたいな大変まがまがしい感じだったのだが、メイドの気をひくという目的は予想以上に達成されたのでオッケーということで。
真っ青な顔のメイドに気がつかれないように、私はこっそりとスプーンを袖の中に隠した。
そして私は何もしゃべっていませんよ、といつも通りの無表情で黙り込んだ。
よほど不気味だったのだろう。
メイドはスプーンがなくなっていることにも気が付かずに、そそくさと食器とともに部屋を出ていった。
ててーん!スプーンを手に入れた!
そしてこの入手したスプーンを使っていかにクレバーな脱出をお見せするかというと、まずメイドが夕食を運びに部屋に入ってきたら、このスプーンを床にわざと落とす。メイドが、あら、なにかしら?とスプーンをしゃがんだ瞬間にシーツを被せて、素早く部屋を飛び出し、外鍵を閉める。あとはひたすら逃げるだけだ。
なんという行き当たりばったり。
よくこれでクレバーな脱出とか言えたな。
などと我ながら不安しかない計画だが、天窓は高すぎるし、他に使えそうな物も、時間も私にはない。
ジリジリと体が内側から焦げるような思いで、夕食が運ばれてくるのを待った。
そしていよいよ時は来た。
ノックもなしに扉が開く。
質素な食事とともにメイドが現れた。
鍵を閉めないままに、彼女の両足がしっかりと室内に入ったのを見届け、私はシーツで隠した手元からスプーンを放り投げた。
コ、コンッ!
部屋の隅に金属の落ちる音がする。
すぐにメイドは怪訝そうな顔になり、食事をテーブルに置いて音のしたほうへ歩み寄った。
口の中が干上がって、バクバクと騒ぎ立てる心臓の音で気づかれてしまうんじゃないかとひやひやする。
しかし彼女が私の緊張には気が付かつく素振りはなかった。
「どうしてスプーンがこんなところに……」
手を伸ばしつつ、ゆっくりとしゃがむ。
瞬間、私はバネ仕掛けの玩具みたいに彼女に飛び掛かった。
「きゃあっ!?」
すっぽりと頭からシーツを被せ、鍵のかかっていない扉へと駆ける。
ノブを引っ掴んで、捻る。
扉は、開いた。
急いで外から鍵を閉めると、中からはまだメイドがシーツと格闘する音がしていた。
「誰か!」
廊下は暗く、誰もいない。
メイドの悲鳴を聞きつけて誰かが来る前に、私は走り出した。
「はっ、はっ、はっ……!」
息が切れるのが早い。
全然体が思うように動かない。
というか幼女だから脚が短い!!いまだけでいいから股下三メートルとかにしてくれ!
とにかく廊下をまっすぐ進んで最初に現れた階段を降り、重たい扉をこじ開けると、景色は一変した。
きらびやかな燭台の灯り。
フカフカの赤い絨毯。
古めかしい絵画や美しい装飾の陶器が飾られ、どこもかしこも艶々と輝いている。
私はこんなにも美しい屋敷にいたのだ。
私の両親は、弟は、妹は、私が月明かりしかない寒々しい部屋で膝を抱えている間、この眩しい空間で暮らしていたんだ。
沸々と怒りがわき上がり、体がブルブルと震えた。
その時、視界の端に人影が写った。
「ヒッ!」
驚いてそちらを見ると、美しい少女がいた。
燃えるような豊かな赤髪に、青空を切り取ってはめ込んだ瞳。人形と言われても信じてしまいそうなほどに整った顔は、ひどく血色が悪い。
それは鏡に映り込んだ私だった。
「これが、私……?」
その瞬間、私は自分が何者なのか、何の生贄なのか、ようやく理解した。
私の名前はセシリア・ゴルトベルク。
乙女ゲーム「ラブ・クインテット」に登場する、悪魔に取り憑かれ、死ぬことでしか解放されない哀れな悪役令嬢だ。




