邂逅
『神、霊、悪魔、ポルターガイストといったそれらの超常現象は物理学的な側面から全て解決できるものであり、一言でいえば、殆どの怪奇・心霊現象の原因は「プラズマ」に帰結する。』
――――――――――――――――――――――――――――上田継盛『Don't来い超常現象』
2013年8月15日。
暑い夏の昼下がり。
刑事である高井なつこと丹下敦盛は、 帝門にあるカフェで、事件明けのコーヒーブレイクを味わっていた。
帝門、二年前まで「東京」と呼ばれたこの大都会は、堕落した政界に嫌気がさした天皇が作り直した第二の「東京」だ。
政界は最早その機能を失い、暴力団をはじめとする闇の人間の命令で動く傀儡と化していた。
そこで、天皇家は勅令を発し、民主主義の名のもとに国民投票を実施。
支持率が90%を超えた天皇家に軍配が上がり、この国は天皇家の統治する王国に逆戻りしたのである。
しかしながら、国民の生活は殆ど変っていない。
天皇家の行ったことはあくまでも国家の運営体系の改革。
事実、中央集権化は免れなかったものの、政界を討伐した以外は全くと言っていいほどこの街に変化はない。
変ったことといえば、街に活気があふれたことだ。
街は前以上の発展を見せ、我が国の事業は急速に発展。
三年前の事件以降衰退するかと思われた我が国は、まさに不死鳥のように蘇ったのである。
そんな帝門の入り組んだ路地の奥にひっそりと佇むこのカフェは、まさに『隠れ家』的な静かさを持つ数少ない場所だった。
なつこ達は事件が終わると、いつもここでコーヒーを啜る。
街の喧騒から離れたこの場所は、毎日の激務の疲れを癒してくれる憩いの場だ。
しかしその反面、ここのコーヒーははっきり言って不味い。
少なくとも、市販のレトルトの方がまだマシに思える。
そんなコーヒーを今もなつこが渋い顔で飲んでいるのを見て、以前初めてなつこがこのカフェでコーヒーを飲んだ時、マスターに「…まっず」とコメントした時の事を敦盛は思い出した。
このカフェに人が少ない理由は、もしかしたら立地以外にあるのかもしれない。
そんな、良く言えば静かな雰囲気のカフェに、なつこのだるそうな声が通った。
「しっかし今日も暑いな。地球温暖化なんてのもこれからどんどん加速していくのかねぇ」
化粧っ気の殆どない顔を暑さで歪ませながら、なつこは半ば独り言の様に呟いた。
「どうっスかね。最近暑いのはホントですけど、地球温暖化と関係があるとかないとかは解んねぇっス」
敦盛はケーキのスポンジをコーヒーで流しながら、生返事をした。
「だよなぁ…」
レディーススーツの腕を無造作に捲くって、なつこは空気と共に、熱いコーヒーを啜った。
喉を通る熱い液体が、更に暑さを強くする様に感じた。
「…先輩のことは尊敬してますけど、少しは女らしくした方がいいんじゃないっスかね?」
「あ゛?」
「サーセン。」
敦盛は間髪を入れずに言って、自分のコーヒーを啜る。
やはり、熱いだけの旨くもない安いコーヒーが喉を通る。
ちょうどそんな時、ポケットの中のスマートフォンが振動した。少し遅れて、古いアニメの主題歌が申し訳程度の音量で鳴った。
なつこの携帯も同様の反応を見せたが、鳴ったのは無愛想なデフォルトのアラームだった。
「先輩まだデフォルトのまま使ってるんですか…」
敦盛は呆れた様な声音で呟く。
「うるさいな…お前だって、そんな電波な音楽だろ」
敦盛の独り言に目ざとくなつこが反応した。むすっとした顔で敦盛を睨みつける。
「原作観てもないのに批判しないで下さいよ。結構面白いんですから、これ」
そう言ってスマートフォンを操作する。
メールフォルダの『仕事』の欄にメールのマークが付いている。
どうやら新しい事件のようだった。
なつこに届いたのも同様のものだったのか、目つきが一層険しくなる。
「事件ですか…」
「去年銃刀法が改正されてから物騒になったからな。一般人は勿論、特にヤクザの動きが活発になってきてる。白昼堂々と拳銃をぶら下げてるヤツを見る回数も増えてるしな」
2011年4月、日本の銃刀法が改正され、一般人でも拳銃を購入、所有することが許可された。
『極東侵略』と呼称される、2010年に起きた無国籍軍の本国強襲がその主な理由となっているが、その実情は政治団体と暴力団との癒着による政界の腐敗であり、この国が天皇に支配される直前の、無様な足掻きに過ぎなかった。
「さて、どんな事件かな、っと…」
『From:後藤裕二』
『To:丹下敦盛・高井なつこ』
『SubTitle:捜査協力要請』
君たち二人にメールを送ったのは他でもない、我々の事件に手を貸して欲しいからだ。
事件の直後にこんな頼みをするのもあれだが、こっちも人手が足りなくてね。
我々は『変死体事件』を追っている最中だ。参考様に画像を添付しておいたが、少し刺激が強いかもしれないので注意してくれ。(もっとも、この程度で気分が悪くなるようでは刑事は務まらないかも知れないが)
とにかく、ぐだぐだと長文を綴ったが、結局のところ君たちに聞きたいのは我々の捜査に協力してくれるかどうかだ。
yesかnoで答えてくれ。
いい返事を期待している。
《添付ファイル1》
「うーんこれは…」
添付された写真には、胸の中央を丸く抉られた女性が写っていた。
腕や脚の肉も削げている感はあるが、添付された写真の解像度が悪く、はっきりとしたことは分からない。
「どうします、先輩?」
敦盛がなつこの様子を伺う様に彼女を見た。
「裕二は同僚だし、困ってるなら手伝ってやりたいが、お前はどうだ、敦盛?」
「そうっスね、俺はこの事件結構気になってましたし、いいと思いますよ」
ケーキに乗った苺をフォークで突き刺し、敦盛は答えた。
「へぇ…お前、こういう事件とか興味あるのか」
「まぁ派手な事件ですしね」
口をもぐもぐさせながら、敦盛は言った。
「そりゃそうか…じゃあ…了解、っと」
なつこは、傷の入ったふたつ折りの携帯電話でたどたどしくメールを打つ。
「それにしても、今度は変死体かぁ…」
なつこがため息と共に声をこぼす。
「どうかしたんですか?」
「いやなに、なんだか一気に刑事らしい事件を担当するんだと思ってさ」
苦笑を浮かべるなつこ。
その笑みをフッと消して、
「…ちょっとは近づいたのかな」
「え?何ですか?」
「何でもない。さて、行こうか」
カップに残ったコーヒーをぐっと一息であおると、伝票を取って先に出ていく。
「あ、ちょっと先輩!」
残された敦盛は急いで彼女を追いかけた。
同日同時刻。
私立探偵であるプロール・D・片桐は遅めの昼食を摂っていた。
彼の経営する『プロール探偵事務所』は、首都である帝門に堂々と居を構える人気の探偵事務所だ。
探偵としての腕前も勿論、人気の秘密は彼の甘いマスク。
美形ハーフの彼の魅力の虜になった貴婦人たちが、夫の『仔猫』の捜査依頼をするのだ。
流石に首都にいる貴婦人たちだけあって羽振りも良く、「何の心配もない」と答えるだけでウン十万が手に入る楽な仕事だ。
ただ、彼はそこで手を抜かない。
しっかりと自分の仕事をこなし、きっちりと謝礼分の働きをする。
そんな生真面目な性格と相まって、この『プロール探偵事務所』は帝門にある探偵事務所の中でも不動の地位を確立している。
そんな彼のもとに、一人の依頼人がやって来た。
「喜多川景子です」
黒髪が扇の様に流れる美しい女性だった。
脚はスラリと長く伸び、肉付きも程よく、息をのむ程の美貌だ。
「プロール・D・片桐です」
しかし、プロールはそれに動じず、いつも通り名刺を差し出した。
「それで、ご依頼は何でしょうか」
彼女は自分の美貌が通じなかったのが意外だったのか、少し呆気に取られていたが、
「…ええ、こちらを見て頂けますか?」
そう言って1枚の写真を取り出した。
中肉中背の男の写真だった。
特にこれといった特徴もない男。
だがプロールは彼に見覚えがあった。
「小説家の村下冬樹先生ですか?」
「あら、ご存知でしたか?」
「ええ。先日とあるパーティーで見かけたことが。その時はお話も出来ませんでしたが」
プロールは数日前のパーティーのことを思い出した。
村下とは直接関係はないが、そのパーティーでプロールはある事件に遭遇していた。
そういえば、あの時一緒にいた刑事は元気だろうか。
名刺をもらったのに連絡もしていない。
真面目な彼はそこまで考えたが、今は依頼人を優先する時だ、と自分の意識を喜多川に向けた。
喜多川は少し考え込む様なポーズを取ったが、すぐに首を振った。
「ご存知なら話は早いですわ。この方、実は私の婚約者ですの」
「ほう…」
小説家としては成功といっていい部類に属するはずの村下に婚約者がいるとなれば、世間はそこそこの騒ぎになるはずだが、と彼は考えたが、生憎と彼はその情報が嘘か真かを判断するだけの材料を持っていなかった。
「ですが、最近すっかりと連絡が来ないと思って彼の部屋に行ってみると、新聞がささりたい放題で…」
「同棲されてはいないんですね」
「ええ…彼がまだ執筆に専念したいらしくて…」
考えられなくもないことだ。
事実、村下冬樹はインタビューでも自身の執筆への情熱を語っていたのを彼は思い出す。
「ご自身で探されたりはしましたか?」
「ええ。彼の行きそうな場所は一通り」
ふむ、と頷いて彼はメモをとる。
「では、村下先生を探すのがご依頼、ということでよろしいでしょうか」
「はい。よろしくお願いします」
そう言うと、彼女はソファを立ち上がり、事務所の扉を開けて出ていく。
その時、何かを思い出した様に振り返り、
「夜に出歩く時はお気をつけ下さい」
と一言いった。
「…それは私の台詞では?」
「うふふ、この御時世ですから、男も女もありませんよ」
彼女は目を三日月のように曲げて笑った。
「それはそうですが…」
「では、失礼しますわ」
今度こそ扉を閉めて、彼女は外に出ていった。
「…さて、何から手をつけようかな」
一人になったプロールは机に向かってパソコンを立ち上げた。
遅めの昼食から夕食前の間食になったトーストを齧って、冷めたコーヒーを流し込む。
「…苦いな」
その苦さが、何故か今は不安になった。
同日。
夕焼けが街を赤く染める頃。
帝門の中心部に位置する『私立帝門大学』。
日本最大級の大学であり、世界一といっても過言ではない設備に講師を擁する大学だ。
その厳しさ故に卒業までこぎつけられる学生は少なく、卒業生はこの就職氷河期と評される時代においてさえも、大企業からの引く手は数多だ。
その帝門大学の医学部。
榊原ゼミの内線電話が鳴っていた。
しかし、学生たちは談笑していて誰も取ろうとしない。
はぁ、とため息をついて教授が電話を取った。
「はい…あぁ、私です。…はい、はい。分かりました。では、取り次いでもらえますか?……………あぁ、私だ。珍しいね。それで?…ふむ…わかった。これから向かおう」
その会話に、談笑しているうちの一人が聞き耳を立てていた。
彼の名前は加村友紀。帝門大学医学部の六回生だ。
その容姿は男か女かわからない様な中性的なもので、パッと見ただけでは女性かと思うような顔立ちをしている。
「……あ、加村君!何を聞き耳たてているんだい」
彼が聞き耳を立てているのに気づいた教授が彼を怒鳴りつける。
「やべっ」
「単位没収だ」
この教授はなにかにつけてしばしば単位を没収する。しかもそれが冗談ではなく本気なのだから困る。ただでさえこの帝門大学では単位1つが大きな意味を持つのだから。
「えー、それはないっすよー」
しかし、そんな一大事を彼は笑って済ます。
「よし加村君もついてきたまえ」
「え?どこにっすか?」
友紀が聞くと、教授はニヤリと人の悪い笑みを浮かべて言った。
「警察署だよ」
「教授、なんかしたんすか?」
「鑑識に知り合いがいてね。変死体を漁っていいらしいから行くんだよ。こんな経験は滅多にないしね」
友紀はこの教授がグロテスクな話になると目を輝かせる様な人物だということを思い出した。
「変死体…っすか」
友紀は記憶の中を探り、過去にもそんな事件があったことを思い出す。
「確か昔にもそんな事件がありましたよね?」
「ん?…そうかい?」
考えるような格好をする教授。
「教授はホント興味ない話はとことん興味ないっすよね」
呆れたように友紀が言った。
「いやいや、この事件には興味をそそられるよ。変死体ということはそうなるまでに何らかの外的かつ害的な要因が働いているはずだからね…それを想像するのはとても面白いよ」
教授がコーヒーカップを友紀に渡す。
しぶしぶ彼はそれを受け取り、インスタントコーヒーを淹れる。
「その興味が昔にあった事件には向かなかったんすね」
友紀からコーヒーカップを受け取り、口に運ぶ。
すると、そういえば、という様に教授が口を開いた。
「今思い出したが、十五年前に起きた事件じゃないかな?」
「ええそうです。全身の血が全て抜き取られていたあの事件っす」
そこで教授はあぁ、と頷いたが、同時に頭を振った。
「あの事件じゃ私の好奇心は揺さぶられないね。どうしてそうする必要があったのかを考えなければならない事件にこそ、考える価値がある」
「いやいや、血が抜き取られていたんですよ?」
「そんなことする理由なんて一つだよ」
馬鹿馬鹿しいといった様に教授がまた頭を振る。
「…何ですか?」
そこで教授はコーヒーを飲み干した。
「…飲むのさ」
冷たい沈黙が辺りを包んだ。
「…そんな馬鹿なことを言ってないで、ちゃんとしたことを言ってください」
「いやいや、これはあながち間違いではないと思うがね」
教授はコーヒーカップに牛乳を注いだ。
「母乳の成分は血と殆ど変わらない。つまり、我々は粉ミルクで育てられていない限りは、赤ん坊の頃に血を飲んで成長しているということで相違ない。母乳と血は、甘いか苦いかの違いしかないのだよ」
教授は一冊の本を取り出した。
その本の頁をパラパラと捲り、文字を目で追っていく。
「そして、我々が幼児期に欲するのは母乳と同じ甘みを持つものだ。だが、考えてみたまえ。成長するにつれ、我々が好む味覚は段々と苦いものになっていく。山葵然り、ゴーヤ然り、珈琲然り」
彼はまた別の本を取り出す。
「幼児期に得たものを人間は本能的に求める傾向にある、ということは既に多くの研究者によって研究されている」
新たに手にとった本の題名を友紀に見せる。
『幼児性と本能』という題名だった。
著者は、帝門大学の著名な脳科学者。
この教授が博識なのは友紀も知っていたが、脳科学にまで手を出しているのは知らなかった。
そんな友紀の心の裡を知ってか知らずか、教授は更に続ける。
「そういった事実と照らし合わせてみると、人間が成長して求めるものは『血』であると言えなくもないのではないかい?」
そこまで一気に吐き出すと、教授はくっ、と牛乳をあおった。
「ふむ、牛乳もすてたものではないな」
そして友紀は率直な感想を述べた。
「…教授が変人だということはよく解りました」
「君は平生から私を変人だというが、それは個体数が少ないから平均から外れているというだけであって、私が君と同じ人間という事実は覆しようもないことなんだが」
「…それが変人だって言ってるんですよ」
「しっかし、いくら場数を踏んでも、現場に行くのは慣れねぇなぁ…」
「そっスね」
メールを返信するとすぐ、現場の場所を教えられた敦盛となつこは徒歩で現場に向かっていた。
「そんなすぐに行かなくてもいいだろうし、コンビニでも寄っていくか」
「いいっスね。俺ジャンプ立ち読みします」
そんな事を言いながらコンビニに向かおうとする二人の耳に、男性の悲鳴が届いた。
「「!」」
二人は顔を合わせ、悲鳴の方に向かって走っていく。
ある程度まで近づいた辺りで、靴がぴちゃぴちゃと水を踏んでいることに気づいた。
そして、それに気づくと、周りに嫌な臭気が立ち込めているのにも気づいた。
「…水?」
よく嗅いだ臭い。
「…これは、血?」
彼女たちは、血だまりの中にいた。
「…先輩」
「しっ!…この角からだ」
その臭いは、曲がり角の奥から手を伸ばしていた。
内に潜めたニューナンブに手をかけ、直ぐに発砲できるように安全装置を解除する。
「動くな!」
角から飛び出し、何かが居ると分かるや否や、流れるような手つきで拳銃を取り出し、長年の勘と慣れだけでその太腿に向けて鉛玉を放つ。
果たして彼女の銃弾は見事にその太腿を捉え、低く呻くような声が聞こえた。
『それ』はローブの様なものを着ていて、フードを目深に被っていた為に顔は見えなかったが、その体つきから男であるように見えた。
そしてその男は、ブロック塀に倒れかけさせた男性の懐をまさぐっていた様だった。
男性からは今もドクドクと血が流れている。生死が分かれるのは時間の問題だろう。
「手を挙げて!」
銃を構えたまま、呻く男に叫ぶ。
日が傾いたとはいえまだ辺りは明るい。
この騒ぎを聞きつけた住民が出てくる事態だけは避けたかった。
すると、その男は痛むであろう足を引きずりながら走り出した。
「待ちなさい!」
彼女の静止を聞かず、男はそれでも走る。
「敦盛!あの男を追って!」
「え?あ、はいっス!」
事態をよく呑み込めていない敦盛だったが、それでもあの男を追いかける。
「大丈夫ですか!?」
それを見てなつこは倒れている男性に声をかける。
「う…あ…」
見ると、その男性の四肢は所々喰いちぎられた様な痕が残っている。
「ひどい………大丈夫ですか?!今救急車を呼びますから!」
携帯電話を取り出してコールする。
一般人なら取り乱して何処にかけるのか混乱しそうなものだが、幸い彼女は刑事で、それ以上に精神がタフだった。
間違えることなく救急車を呼び、警察署にも連絡を入れた。
「もうすぐ救急車がきますからね!」
「あ…う………ほ、…ん…」
「え?何ですか?」
男性は彼女の手を取り、傍に落ちていた本を取らせた。
確かに辺りは血だまりであるはずなのに、その本だけは血を避けるかのようにそこにあって、それでいて血を吸っているかの様に紅く鈍い光を反射していた。
そこはかとなく不気味で嫌な空気が、その本には纏わりついていた。
「私の…代わりに…うっ…」
「喋らないでください!」
内臓がかなり傷んでいるのが見て取れた。
彼に残された時間がもう幾ばくもないのは自明だった。
だが、たとえ間に合わなかったとしても、彼女の頭の中に見捨てるという選択肢はなかった。
「私の…代わりに…これを……」
だが、それは目の前の男とて同じだった。
彼の身体はもう殆ど機能を停止し、残された時間も自覚していたであろう彼は、だからこそ彼女に託そうとした。
その眼の光だけは、強く輝いていた。
「これを?」
「これを…守って……」
だがその光も一瞬のこと。
そう言うと、男性はすっ、と何も言わなくなった。
急に力が抜けた様に男性の体が重くなる。
体が熱を失い、夏であるにも関わらず、みるみるうちに冷たくなっていく。
もしかすると、あの光は消える命の最期の煌めきだったのかもしれない。
「…くっ…」
彼女は拳をアスファルトに思い切り打ち付けた。
痛みは感じなかった。
だが心には深い穴が開いたような喪失感と、守れなかった罪悪感だけが残った。
「先輩!」
敦盛が息を切らしながら向かってくる。
その手には例の男の着ていたローブがあった。
「先輩、その人は…」
なつこは力なく首を振った。
それで敦盛は全てを察した。
「そうですか…追いつきはしたんですが、捕まえたと思ったら、このローブだけ掴んでて…」
「…そうか。いや、仕方ない。そのうちここの管轄の刑事が来る。それまで待っていよう」
「そうっスね…」
程なくして、数名の刑事と鑑識が到着した。
「どうもお久しぶりです、丹下さんに高井さん」
その中の一人に、彼ら二人は声をかけられた。
独特の掠れたような低い声音。
その声の主は、署内でも最古参の一人である古畑任二郎だった。
迷宮入りしそうになった事件をその類希なる観察眼と洞察力、推理力でことごとく解決してきた伝説の刑事だ。
しかし、新人である敦盛やなつこにも優しく接し、その人の良さから多くの刑事から畏敬の念を抱かれてもいる。
「古畑さん…」
「お久しぶりっス」
「どうしましたか、高井さん」
古畑が落ち込むなつこに声をかける。
「いえ…ただ、私はあの人を守れなかった…それが、悔しいんです」
「高井さんが落ち込むことではありませんよ」
古畑は続ける。
「高井さんはその時に出来る最善を尽しました。それで守れなかったのは仕方ありません。そこで落ち込むのではなく、我々は彼の為にも、その犯人を探さねばならないのですよ」
「…はい」
「それで丹下さん、大体のあらましを説明して頂けますか?」
「あ、はいっス」
敦盛は古畑やその他の刑事、鑑識に事の顛末を話した。
「…ふむ、そんなことが」
「ええ」
「取り敢えず、一通りのことを済ませて死体を運びましょう。高井さん方もついて来て下さい」
「………」
「高井さん?」
「…え?あ、はい」
「あぁ、それから、私の知り合いの法医学者にも声をかけましょう」
そう言うと古畑は携帯電話を取り出して、どこかへ掛けだした。
その声を聞きながら、なつこは昔のことを思い出していた。
あの悲惨な事件のことを。
ーー1998年8月
当時小学生だった高井なつこは、夏休みを利用したホームステイをしていた。
滞在先はアメリカ。
そしてそのホームステイの最終日、彼女はホストファミリーに連れられてハーバード大学の見学に来ていた。
「えっと…あいきゃんしーひあーばいまいせるふ!」
たどたどしい英語で彼女はホストファミリーに告げる。
元々彼女は一人でここを見に来るつもりだったのだ。
ただ、ホストファミリーはかなり親切な人で、仕事などの空き時間を無理に使ってついて来ているということは彼女も子供心にわかっていた。
それに、ただ単純に、この広い大学を一人で見て回りたいという気持ちもあった。
そういう意味も込めて言うと、ホストファミリーはひどく心配そうな顔をして、何かあったらここに電話するように、とアドレスを書いた紙を渡した。
「てんきゅー!」
ニコリと笑って、彼女はとてとて走っていったのを覚えている。
初めて見る大学。それも異国のもの、ということで、彼女の気分は高陽していた。
広大なキャンパスは多種多様な人種の人々で彩られ、歴史ある施設が時間の重さを物語る。
「うわー…」
すると、キャンパスの中にいた数名のグループが彼女に近づいてきた。
彼らは皆一様に同じローブを羽織り、ブツブツと何かを呟いていた。
彼女の近くまで来ると、そのうちの一人が彼女に鼻の詰まった英語で話しかけた。
『貴女は神を信じますか?』
「え?え?」
英語が分かるといっても、小学生相応のなつこには、彼らが何を言っているのか理解できなかった。
『人間は生まれた時から罪を重ねて生きています。死こそが全ての償いであり、我々の魂を神に返還することで、我々は初めて救われるのです』
「えっと…」
彼女は心細さで涙目になりながら、辺りを見回した。
しかし、周りの人々は皆、彼女と目を合わせない様に足早に通り過ぎていく。
本気で泣きかけた時、一人の少年と目が合った。
彼女と同じ黄色の肌を持つ彼は、やれやれと首を振ると、彼女の方に近づいてきた。
『おい、彼女、困ってるだろ』
そして男たちとそのまま英語で二、三言話しをすると、男たちは諦めたように背を向けて去っていった。
「助かった…」
彼女は思わず呟き、少年の方を向く。
少年とはいっても、高い身長と整った顔立ちは、彼に年不相応な雰囲気を漂わせていた。
「あー…てんきゅーべりーまっち」
「日本人か?」
英語で礼を言う彼女に、彼が日本語で聞いた。
「え?あ、はい」
「そうか。俺も日本人だ。だから日本語でいい」
「そう?…じゃあ、日本語で」
「それにしても、面倒なのに当たったな」
「さっきのは?」
「最近流行り出したカルト集団だ。日本にもいるらしいんだが」
「そうなんだ…」
「知らないならいいんだ。これからは気をつけろよ。じゃ」
そう言って彼はその場を離れた。
「親切な人もいるもんだなぁ…」
彼女は呟くと、またとてとてと走っていった。
そして………
「…先輩?」
「ん…?…うおっ!?」
なつこが目を開けると、目の前に敦盛の顔があった。
「なんだ敦盛か…驚かすなよ…」
「いや、先輩がいくら言っても起きないのが悪いんスよ。署につきましたから、さっさと行きましょ」
どうやら彼女は帝門署に向かう車両の中で寝ていた様だ。
しかし、どの辺りから夢だったのかは曖昧で、はっきりとは分からなかった。
「…そうだな」
彼女は警察車両から降りて、大きく伸びをした。
肩の骨が小気味の良い音を立てる。
「しっかしあれだな。事件に巻き込まれたってのに、あんまり実感湧かないもんだな」
「あれ?先輩は今までこんな事件を担当してたんじゃないんですか?」
署内のえらく白い床をカツカツと踏み鳴らしながら、二人は鑑識課に向かっていた。
「むかーしはな。でも最近じゃひったくりや食い逃げしか相手にさせてもらえないんだよ」
眉間にシワを寄せて不機嫌そうに言う。
「頑固な親っさんのせいでな」
「さいですかー」
そんななつこの様子を気にもとめずに、敦盛は隣をなに食わぬ顔で歩く。
鑑識課の前では、古畑と初老の男が話していた。
「また会えて嬉しいよ、古畑」
初老の男性は古畑に手を差し出す。
その様子は非常に親しげだ。
「それはこちらのセリフですよ、榊原君」
古畑も同じように手を出す。
「警察署内じゃ、かなりの有名人らしいな。まあ、君なら当然だろうがね」
「いえいえ、お陰様ですよ」
そう言って笑い合う二人は顔見知り以上の関係に見えた。
「古畑警部」
なつこが声をかける。
「あぁ、高井さんに丹下さん」
「そちらの方は?」
敦盛が古畑に問いかける。
「こちらは私の友人の榊原君です。帝門大学で医学部の教授をしているんです」
「以後お見知りおきを」
榊原が手を差し出す。
二人もそれに応じた。
「あれ?そういや帝門って…」
なつこが敦盛の方を見る。
「ん?…あぁ、俺の母校っスよ。俺は大学までは行きませんでしたけど」
「帝門って進学校だよな?お前、見かけによらずすごかったんだな」
「…そんなことないっスよ」
感心した様に敦盛を見るなつこ。
そんな視線から逃れる様に、酷く言えば鬱陶しそうに顔を逸らす敦盛。
「…?」
なつこも、そんな彼の様子に何か察するところがあったのか、それ以上見ることはしなかった。
「あっれー?敦盛じゃない?」
「ん?」
少し高めの声が廊下に響いた。
「やっぱり敦盛じゃん!」
ドン、という鈍い音と共に、白い何かが敦盛にぶつかった。
「っ痛!」
「やっほー敦盛。久しぶり!」
そのやけに明るい声を、敦盛は覚えていた。
「お前、友紀か?」
「正解( •̀∀•́ )b」
「…おい敦盛、お前の友達か?」
なつこがわけがわからないというふうに聞く。
「あ、そうっス。同じ高校だった加村友紀っス」
絡んでくる友紀を引き剥がしながら敦盛が言う。
友紀はそれでも敦盛に絡んでいく。
「敦盛ぃ~お前も隅に置けないな~」
「あン?どういうことだよ」
ニヤニヤしながら友紀がなつこの方を見る。
「こんな彼女さんがいるなんて聞いてねぇぞ?」
「ばっ…!お前なぁ、先輩はただの先輩だっての!」
「そうかー?…ども、加村友紀っす。帝門大学の医学部に通ってますっす」
友紀がなつこに向かって頭を下げる。
「あ、あぁ。高井なつこだ。よろしく」
なつこもつられて頭を下げた。
視界の中ではまだ敦盛が友紀を引き剥がそうとしている。
「お前、不思議な友達がいるんだなぁ」
「不思議で済めばいいんですけどね、っと」
ようやく引き剥がすのに成功して、敦盛はホッと息を吐いた。
いくら男でも、見た目が殆ど女の様な友紀と密着するのは、流石の敦盛でも精神的に疲れるらしかった。
「警部」
一人の鑑識員が古畑に声をかけたのは、そんな時だった。
「はい?何ですか?」
「これが、被害者に付着していました」
「…動物の毛ですか?」
古畑が小さな袋を受け取り、照明に透かす。
眉間に皺を寄せてじっくりと見つめ、やがて口を開いた。
「高井さん達もどうぞ」
どうやら彼にはわからないことらしかった。
彼にわからないことがなつこ達に分かるとは思わなかったが、二人は同じようにそれを光にかざした。
「それは確かに獣の毛なんですが」
鑑識員が言った。
「この世界には存在しない生物の毛なんです」