接触
色々アレです。察してください。
怪奇というものは人間の意識が創り出した無意識の、一種の『歪み』のような物だというのが彼━━御影勇闘の持論だった。
親の別居で日本からアメリカに渡り、妹と離別した彼は、いわゆる天才だった。
化物といってもいいかもしれない。
ハーバード大学を史上最短最年少で卒業した才媛でありながら、米国陸軍特殊部隊に所属。
あの『極東侵略』時には旅団長として一旅団を率いた。
12歳時の大学生時代に取得した特許は数え切れず、およそ20年分の科学の発展に貢献したとされ、その類希なる身体技能は陸軍特殊部隊入隊即日で隊長に任命されるほどの。
それほどの化物であり怪物だった。
天才をふた周りほど通り越して最早天災だった。
とある事情から日本に戻って来た彼は、自身の住むアパートでパソコンを操作していた。
総資産額は億を軽く超えているが、彼の住むこのアパートはそれに見合うようなものではなく、むしろ苦学生ですら遠慮するようなものだった。
畳にはシミができ、壁は隣の住人の息遣いが聞こえる位に薄く、人によっては息苦しさを感じる程に狭い。
しかし彼はここが気に入っていた。
そこらの成金の様に、金をかけて己を着飾るのは彼の趣味に合わなかったし、こういった雰囲気が彼に合っているのだ。
彼は一息つくと、シャワーを浴びるために立ち上がった。
スレンダーながらも筋肉質な肢体には、まさに歴戦の雄に相応しい風格が漂っていた。
風呂場に入り、バルブを回す。
暑さで滲んだ汗を、冷たい水がさらう。
長めの髪に指を通し、中の熱気を飛ばす。
一通り水を浴びると、彼はバルブを閉めた。
タオルで丁寧に身体を拭く。
その時、丁度彼の携帯電話が鳴った。
「はい。こちら『傭兵屋』」
『傭兵屋』
それが、彼が名乗っている職業だった。
その神懸かり的な身体能力を生かし、表では扱えないような要人の警護などを主としている。
『私だ…』
「ああ、村下さん。何か御用ですか?」
顧客の名前は声を聞けば分かる。
それでなくとも小説家の村下冬樹は、しばしば彼に警護を頼んでいる。
自身の、ではなく、客人のために。
どうやら彼にはそういった種類の、表に出せない付き合いがあるようだった。
『はやく…はやく助けにきてくれ』
「どうかしましたか?」
『なんだっていい!早く来てくれ!』
「どちらに向かえば?」
村下の口調は、何かに怯え、焦燥感に満ちたものだったが、こんな時だからこそ、彼は冷静に対応していた。
依頼者と感情を同期させたのでは意味がない。
ゆっくりと、その電話越しに伝わる情報を手に入れていく。
音の反響から建物の中か外かを判別して。
受話器にかかる気圧からその場の高さを推察して。
自分の声の伸びから距離を判断する。
それは彼にとっていつもしていることで。
何一つ不思議に思うような、特別なことをしているつもりはない。
彼が当たり前にできることを、当たり前にしているだけのことなのだ。
それがどれ程のことなのか、自覚しないままに。
『D地区の空矢橋の下だ!早く…早くしないとヤツが!』
「わかりました。直ぐに向かいます。落ち着いて、その場で待っていて下さい」
そう言った時には既に、彼は自分のバイクに跨っていた。
改造したエンジンが低く唸る。
頭の中で地図を描き、経路を確認する。
後は突き進むだけだった。
夕闇が浸食していく街の中に、バイクの音が溶けていった。
彼がその場に着いた時には、辺りは既に暗くなっていた。
空矢橋は、帝門と独立自治地区グンマーを繋ぐ唯一の道だ。
日本の中にありながら独立した国としての働きをするグンマーは、暴力団や国籍を持たない外国人などの巣窟と化していた。
村下はきっちり空矢橋の下にいた。
ガタガタと体と歯を震えさせながら、何かを大事そうに抱えている。
「村下さん」
声をかけると、彼は体を大きく震わせた。
「…『傭兵屋』か…」
彼の姿を見ると心したのか、村下は一瞬緊張が緩んだ。
ほんの一瞬だけ。
しかし、言いかえれば、一瞬でも隙を与えてしまった。
スッ、と。
音もなく、自然に、まるで初めからそうであったかのように。
村下の首が落ちた。
「!?」
少し遅れて、首から血が噴水のように噴き出した。
鼻から入ってきた鉄の臭いが、脳を蝕む。
それでも、彼は理性を失わず、辺りを見回した。
しかし、彼は逃げるべきだった。理性を棄て去るべきだった。
彼が見つけたのは、一匹の獣。
狼とハイエナをないまぜにしたような獣。
毛の薄い醜い皮と、鼻をつく腐臭が吐き気を誘う。
その『獣』は、彼を見ていなかった。
彼の先。
村下が大事に抱えていた物を見ていた。
それは、一冊の本だった。
本と呼ぶのも憚られる、紙を束ねただけの物。
装丁もおざなりで、表紙もない。
しかしそれは、傍から見ている彼にすら、禍々しい妖気を放っていた。
全身から冷たい汗が噴き出す。
『獣』は、機を図っている様に見えた。
未知に出会った時、必要なのは図ること。
自分と未知との差異を見違えないこと。
それを『獣』は知っているようだった。
少しでも気を抜けば、この『獣』は容赦なく彼の首筋を掻き切るだろう。
目の前にその証明がある。
なら、機を図る相手に気を抜かず、寧ろ奇を衒う。
初めに動いたのは彼だった。
地面を蹴って距離を詰める。
速さに自信はない。
腰に提げた刀に手をかける。
『獣』も動いた。
牙を剥いて首筋に噛み付こうとする『獣』。
御影は体を大きく捻ってそれを躱す。
そして彼らが交錯した瞬間。
『獣』の鮮血が闇に舞った。
くぐもった声が漏れる。
御影は、刀ではなく、硝煙の匂いのする拳銃を握っていた。
M&W社謹製《MoonWalker LIGHTNING》
彼が愛用している拳銃だ。
速射・連射性能を重視し、ロングバレルにサイレンサーを内蔵することで、命中率と遮音性にも優れている。
彼は速さに自信はない。
だから飛び道具を使った。
『獣』は彼の動作から肉弾戦を想定していたようだが、それはあまりにも早計だった。
元々この拳銃は、すぐに抜いてすぐに撃てるようにとデザインしてもらったオーダーメイドだ。
今回のように、相手に肉弾戦を予想させてからの銃撃に優れているし、事実、今までこの戦法は上手くハマっていた。
「…なんとか、なったか?」
まだ『獣』は死んではいないようだったが、それでも彼は自身の勝利を確信していた。
いや。
過信していた。
気を抜いた一瞬。
おぞましい程の寒気が彼を現実に引き戻した。
殆ど本能的に、彼は大きく仰け反った。
同時に、彼の首に紅い一本の線が入った。
後一瞬でも遅れていたら、彼は首無に仲間入りだっただろう。
『あら?外れちゃったかしら?』
ノイズの入ったような女の声。
目の前にいたのはあの『獣』ではなかった。
扇のように伸びる美しい黒の髪。
陶器のように白い肌。
その肌を隠すものは何もなく、月の光を浴びて『彼女』の裸体が惜しげもなく晒されていた。
しかし『彼女』を見る彼の頭に、下衆な思いは一欠片もわかなかった。
それどころか、彼は『彼女』をひどく恐れていた。
本能が彼に警鐘を鳴らす。
今目の前にいるのはか弱い女性ではない。
彼を喰らう【捕食者】だった。
『ねぇ、そこの本、取っていただけますの?』
『彼女』はその細長い人差し指で、村下の傍の本を指さした。
「………」
彼は答えない。
答えられない。
それほど、今の彼に余裕はなかった。
嵐の中に取り残された小舟のように、今の彼は座して死を待つだけの存在だった。
『取れ』
その一言に、強烈な威圧感を感じる。
「………嫌だと言ったら?」
彼の精神力は常人を軽く超えていた。
今まで『彼女』の命令に逆らえた者はいなかったのだろう。
『彼女』は嬉しそうに一笑いした後、
『貴方を殺して私が取りに行きますわ』
一切の迷いなく『彼女』は言った。
「………そうか、残念だよ」
拳銃の銃口を向けて、すぐさまトリガーを引く。
『彼女』は驚いた様な顔をしたが、その鉛玉が『彼女』の躰に風穴をあけることはなかった。
すぐさま、風の様に『彼女』が彼の脇を抜いた。
「!!」
『残念ですわ。取っていただけたら殺すか生かすか考えてあげてもよかったんですのに』
美しい腕が、彼の頚を締める。
「ガッ、ァ…」
『殺すなら痛くない方がいいですものね。先にオトして、後で殺しますわ』
段々と締め付けが強くなる。
彼の筋力をもってしても、解くことが出来ない。
(こんな細い腕のどこにこんな筋力が………)
頭に酸素が回らず、思考が固まらない。
そして、彼はものの数分で気を失ってしまった。
『あら、案外あっさりとオチますのね』
鋼鉄をも切り裂く『彼女』の爪が、彼の喉を掻き切った。
8月16日。朝。
結局その後、その動物の毛についての進展はなく、被害者から回収した本の事を言うタイミングも逃し、なつこはそのまま署内で夜を明かした。
敦盛はさっさと家に帰って、今日ここに車で来ることになっている。
エントランスでなつこが待っていると、駐車場に一台のGT-Rが入ってきた。
「…あの趣味の悪そうなGT-Rは敦盛のだな」
案の定、そのGT-Rから敦盛が出てきた。
「あ、はよざまっス」
「おう。早かったな」
エントランスに入ってきた敦盛と挨拶を交わす。
「で、今日は何をするんスか?」
「今日こそは裕二のとこに行かんとな」
「あー、そういえばそうでしたね」
「てことで、宜しく頼むぞ」
「………え?」
敦盛がポカンとした表情を浮かべる。
「敦盛の車で行くんだろ?」
「え?そんなの聞いてないっスよ?あれ、かなり大事なクルマなんスけど?」
GT-Rを指さす敦盛。
確かに大事にされているようで、その車体にはキズも埃もない。
「まぁ諦めろって」
「あのクルマに乗せるのは彼女だけって決めてるんスよ」
「あぁ?こないだ私乗せただろ?」
「あれはあのクルマじゃなかったっス」
「だぁぁぁー、めんどくせぇなぁおい」
なつこが自分の髪をわしゃわしゃと掻き乱す。
「はぁ………乗せる用の車持ってきます………」
「おうあくしろよ」
「………はぁ」
気だるそうに敦盛が車に向かう。
それから大体30分ほどしてから、黒のベンツが入ってきた。
「………」
なつこの顔が曇る。
中から出てきたのは、やはり敦盛だった。
「先輩、クルマ持ってきま………」
「クソがぁぁぁあ!」
敦盛がなつこの方を向いた瞬間、なつこの張り手が飛んできた。
「!?」
「なんでわざわざベンツに乗ってくるんだお前は!」
「え?あ、いや、ベンツしかないんスけど………」
頬をさすりながら、何が起きたのか分からない敦盛は素直に答える。
「ベンツなんかに乗って現場なんていけるか!?無理だろ!そんなブルジョワアピール求められてないんだよ!」
「えぇー………」
理不尽を感じながらも、ベンツしか持っていないことを悔やむ敦盛だった。
その後も口論、というかなつこの自論が続き、出発出来たのは昼前だった。
同日。昼過ぎ。
なつこと敦盛は現場に到着した。
「おう、なつこか」
人の良さそうな笑みを浮かべて、後藤裕二が二人を迎えた。
「久しぶり」
なつこが後藤に向かって手を上げる。
「お前は相変わらず言葉が悪いんだな」
憎まれ口をたたきながらも、嫌な雰囲気を感じさせないのは、ひとえに彼の人柄だった。
「うるせぇよ。で?被害者は?」
「あぁ、こないだメールしたガイシャはもう鑑識に送っててな。今日は昨日の深夜に通報のあったとこの見聞だな」
後藤は現場の方をチラッと見た。
「正直なにがなんだかさっぱりだ」
なつこもそっちに目をやると、そこでは後藤の部下や鑑識数人が写真を撮ったりしていた。
血だまりの中に人間と、一匹の動物が死んでいた。
動物は狼とハイエナをないまぜにしたような造形で、脚に銃創があり、全身から血を吹き出していた。
それはまだいい方で、人間の方はもっと酷く、首から上が飛んでいた。
「………なんだこりゃ?」
「だろ?」
敦盛は車から出てこようとしない。
「誰か一部始終を見た奴は?」
「血だまりの中に血まみれで気絶してた奴が一人。だけどまだ意識が戻ってない」
「そいつは何処に?」
後藤が顎をしゃくって側にある救急車を示した。
「なんであんなもんがあるんだ………」
「それがかなりの重体でな。完治までは1ヶ月はかかるそうだ」
後藤の言葉を受けながら、なつこは救急車に乗り込む。
そこには二人の救急隊員が、一人の男に付きっきりになっていた。
「どんな感じですか?」
警察手帳をみせながら、なつこがそのうちの一人に訊ねる。
「あまり良くはないですね。傷も深いですし、何より筋肉の繊維が引き裂かれてます」
「筋肉の繊維?」
「ええ。引き裂かれたと言っても、これは急激な運動でちぎれたみたいになっています。強いて似たような症状を挙げるなら極度の筋肉痛ですね」
「筋肉痛?」
「はい。その症状がかなり酷いものであるという認識で大体大丈夫です。手足はピクリとも動かないでしょうね」
なつこは男を見た。
確かに手足には深い傷があって、所々に腫れた跡がある。
「名前は?」
「財布の中の免許証から、御影勇闘という名前だと分かりました。住所なども一致しています」
「御影…勇闘…」
何かを思い出しそうで思い出せない嫌な既視感がなつこを襲う。
あと少しというところまで記憶を辿ったその時。
ドン、という大きな衝撃と共に救急車が大きく揺れた。
「!?」
なつこが救急車から飛び出すと、そこには悲惨な光景があった。
死屍累々と警官が道に倒れ、中には血を流している者もいる。
後藤も腕に血を滲ませながら、苦痛に顔を歪めていた。
「裕二!何があった!?」
「あいつだ………あいつが急に………」
よろよろと腕を上げて指さす先には、一人の女性が立っていた。
背の高い女性だった。
腰まで伸びた黒の長いポニーテール。
白い肌はその髪の黒さと相まって更に白く見え、切れ長の大きな瞳には冷徹な光が宿っていた。
曇りのない白の半袖のTシャツの裾を結び、ジーンズの片足を根元から寸断した奇抜なファッション。
そして何より目を引くのが、その手に持つ長い長い太刀。
彼女の背丈程はあろうその大太刀は、彼女の細い腕では到底振り回せられそうになかったが、それでも彼女にはそれを可能とするような威圧感があった。
「………違う」
凛とした声が、離れているなつこにも通る。
彼女は手に持っていた紙束を無造作に放り、なつこの方を見た。
「そこにいるんですね」
ゆっくりと彼女が脚を上げて、
なつこの直ぐ横に来ていた。
「!?」
彼女が脚を上げてから、一秒と経っていない。
たった一歩で、彼女はなつことの間の距離を埋めた。
「どいてください」
軽く押されただけ。
それなのに、なつこは宙に浮いた。
「………は?」
気づいた途端に重力を感じ、そのまま地面に叩きつけられた。
「ガッ…ッ…!」
彼女はなつこに一瞥すらくれず、まっすぐ救急車に向かっていく。
そして彼女は何を思ったか、脚を振り上げて車体を蹴った。
凄まじい音がして、車体の側面に抉れた穴を開けた。
もう無茶苦茶だった。デタラメだった。
なつこには、これが現実のことには思えなかった。
何か悪い夢でも見ているような錯覚に陥るほどだった。
「なにが起きてるんだよ………!」
彼女はズカズカと救急車に乗り込み、鞘から刀身を少し抜くと、そのまま鞘に納めた。
キンという高い音がして、簡易ベッドがズタズタに斬り裂かれた。
「………?」
しかし、彼女は手応えを感じていなかった。
シーツを剥ぎ、中を確認する。
そこには、誰もいなかった。
直後、彼女は自分がハメられたと悟り振り返った。
そして、御影の拳が彼女の顔を捉えた。
なつこは呆気に取られていた。
自分をあそこまで簡単に吹き飛ばした彼女を、目の前で吹き飛ばした男がいた。
しかも、その男はさっきまで意識もなく、あと1ヶ月は動けないと言われていたのに。
「ッ!?」
完全に気配も殺気も消した動き。
彼女は一気に警戒体勢に入る。
「あぁー………体が痛い………」
自分の体の調子を確かめるように、御影は腕を回す。
「頭も痛い…ボーっとする………」
彼女は愛刀である大太刀―――七天七刀に手を掛ける。
走り抜きざまに首を斬るイメージを浮かべて、その通りにした。
ドン、と音がして、彼女は地面に顔を埋めていた。
「!?」
「えっと…確か依頼受けてここに来て…それから…ダメだ、そこから記憶がないな」
何が起きたのかわからないまま、彼女はもう一度愛刀を取る。
「裂けろッ!」
鞘に納めた刀身を、少しだけ抜いて、また納める。
するとコンクリートに亀裂が走り、御影に向かって伸びていく。
御影は焦る訳でもなく横に大きく跳んだ。
縦の亀裂は御影の脇を通り過ぎ、御影に傷をつけることは出来なかった。
「よけた!?」
さて、と御影は続けて、
「今度はこっちから行かせてもらうぞ」
御影が地面を蹴った。
空気を裂くような音と共に、そのスピードを乗せた拳が飛ぶ。
彼女ら間髪のところで大太刀を挟み、それでも後ろに弾き飛ばされる。
「…ッ!」
「当たらなかったか」
手を閉じて開く動作をして、御影は彼女を見た。
「次は当てる」
彼女はよろよろと起き上がり、口から血を吐いた。
ダメージを抑えたというのに、彼女はすでにボロボロの死に体だった。
「尋常じゃないですね…『聖人』の私をここまで簡単に、一方的にできるなんて」
「鍛えてるからな」
その言葉を、彼女は笑った。
「鍛えただどうのの問題ではありませんよ。私は、この世界で十二人しかいない『聖人』なんです。イエス=キリストと似た身体的特徴を持ち、生まれながらに神の力の一部を使役できる、そんな人間なんですよ、私は。肉体的にも、魔術的にも、生身の人間とは比べ物にならないほど精通している。そんな私をこんなに痛めつけられる人間なんて、片手ほどもいないんです」
「………」
「わかりますか?貴方は…」
そこで、彼女が周りを見渡した。
不審に思った御影もそれに倣う。
すると、今まで気づかなかったのが嘘のような喧騒が耳を劈いた。
野次馬が彼らの周りで騒ぎ立てる。
彼らの間合いに入らなかったのは、なつこと後藤が止めているからだろう。
「少々、目立ちすぎましたね。今日のところは一旦引きましょう」
彼女はそう言うと、電柱のてっぺんまで跳ねた。
「おい!まだなにも…」
「私は神咲香織。もう会うことがないように願っておきます」
それだけを言い残して、神咲の影は夕闇に溶けていった。
気づけば空は赤く染まって、太陽は沈みかけている。
同日。午後七時すぎ。
御影は警察署で取り調べを受けていた。
「…で、もっかい聞くけど、仕事は?」
「………その質問には答えられません」
後藤が聞くと、目を閉じたまま、静かに御影が答える。
彼の答えはほとんどこれだった。
「チッ…埒があかねぇな」
「お疲れ、裕二。交代だ」
後藤と交代で入ってきたのはなつこと敦盛だった。
「おう高井か…じゃあ俺ァ飯でも食ってくるわ。お前らもなんか頼んで食っとけ」
「じゃあ『嗚呼噛』の特上寿司で」
「んなもん食えるかボケ」
なつこがさらりと言って、後藤が即座にツッコんだ。
「………それを持ってきてもらえるか?」
「あ゛?」
今度は御影の言葉になつこがツッコミをいれた。
「『嗚呼噛』の特上寿司を持ってきてもらえるか?」
真面目な顔で、御影は言った。
「はっ、こりゃァいい。こいつは自分の立場が分かってないらしいぞ」
手を上げてやれやれとポーズをとる。
「………聞こえてないのか?」
敦盛には、なつこの血管がちぎれる音がはっきりと聞こえた。
机に思い切り脚を乗せる。
激しい音が空気を震わせた。
「調子乗ってんじゃねェぞ…こっちは事件の捜査をしてンだよ…電話の取次嬢をファックしたいならサッサと質問に答えてソープの予約でもとりやがれ」
物凄い剣幕でまくしたてるなつこにも、御影は動じない。
それどころか、敦盛の方を向いて、
「…この警察署は犬に首輪をつけ忘れてるけど、放し飼いでもしてるのか?」
と、自分の首を指さして言った。
なつこが勢い良く御影の胸倉を掴む。
「いい加減にしろよ………そろそろ沸騰しそうだ」
「失礼。犬じゃなくてヤカンだったか。………頭に入ってるのは水だけか?」
なつこが無言で腕を振り上げた。
しかし、その腕が下ろされることはなかった。
「………おい敦盛、手ェどけろ」
「また殴って給料下げる気ですか?今度は減給じゃ済まないかもしれないんスよ?」
「………………チッ」
なつこは椅子を蹴って扉に向かう。
「先輩!」
「…後はお前が適当にやっとけ。涼んでくる」
乱暴に扉を閉めて、なつこが外に出ていく。
「…はぁ」
「…いつもあんな感じか?」
「元はといえば!あなたが挑発するのがいけないんですよ!?」
「沸点の低いのとは合わなくてね。その点君なら建設的な話が出来そうだ」
「…はぁ」
敦盛の口から溜息がもれる。
まずは目の前の難攻不落の城を落とさなければならず、それができようができまいが、その後
「チッ、ほんっとなんなんだアイツは!」
一人で署の白い廊下をカツカツと苛立ちを隠そうともせず、なつこは歩いていた。
「あのぅ…」
「大体、敦盛も敦盛だ。あそこは一発かまさないとああいう奴はわからねぇんだよ。あぁイライラする」
ブツブツとぼやくなつこは、後ろから付いてくる人影に気づいていない。
なつこが向かったのは喫煙室だった。
何を思ったか、なつこは突然、喫煙室前の自動販売機をヒールの爪先で蹴りあげた。
「ひっ…」
ドンと大きな音がして、取り出し口にコーラが落ちてくる。
「チッ、コーラかよ」
「あ、あの!」
「ん?」
そこでなつこは初めて自分の後ろにいた人影に気づく。
なつこの肩より少し低いくらい、女性としては平均に僅かに満たない程度の身長の、大人しそうな女性警官が居た。
「…どちら様ですか?」
「あ、あのっ!自動販売機を蹴ってタダで商品を盗るのは、自動販売機も傷つきますし、その、ダメ、かと…」
最初の一声こそ大きな声だったものの、彼女の声はどんどん尻すぼみしていった。
「管理がずさんなのが悪いんだよ。アラームも壊れてるみたいだし、こんなの置いとく方がダメなんじゃないの?…で、どちら様ですか?」
再度同じ質問をするなつこ。
「あぅ…わ、私は、第一課加賀美班所属の成宮鈴です。高井警部補に、班長から伝言があります」
「加賀美…?あぁ、署長のジジイか」
「班長のことを悪く言うのはやめて下さい!」
成宮の急な強い口調に、なつこは一瞬たじろいだが、今度は成宮が萎縮する番だった。
「ひっ…」
なつこの冷たい眼光が成宮を突き刺す。
「悪いけど、見ての通り私は今イライラしてる。用事があるならさっさとして」
「え、えと、『暇な時に署長室に』とのことです」
「あぁ?そのくらいなら放送しろよあのジジイ…」
成宮はむっとした表情を浮かべるが、口を開くことはなかった。
「ったく…で、私は署長室に行けばいいんだな?」
「はい」
「あぁイライラする…」
なつこは頭を掻きながら、署長室の方に向かった。
「…あ。コーラ…」
成宮が自動販売機を見ると、そこにはコーラが入ったままになっていた。
「………(´・ω・`)」
成宮は釣り取り口にお金を入れて、そっとコーラを取りだした。
同日。同時刻。
プロール探偵事務所では、プロールが晩酌をしていた。
静かに流れるクラシックをバックに、調べたデータに目を通す。
「村下冬樹が死亡、か」
今日の夕刊で大きく報じられたその見出しを声に出す。
報道メディア各界でも速報で取り上げられたため、信憑性は高いだろう。
これで依頼は終わったことになるが、プロールにはイマイチ釈然としない点があった。
直ぐ側で死んでいた狼の様な生物や、現場で警察を薙ぎ倒した大太刀の美女。
そして、その美女を殴り飛ばした男など、野次馬のコメントに、今回の事件とは関係の無さそうな不可解な点も多い。
「喜多川さんも来ないし、この事件は何かありそう、かな?」
ヴィンテージのワインで喉を潤して、彼は独り呟く。
明日少し詳しく調べてみようと思って、彼は一枚の名刺を取り出した。
無骨なフォントで打ち出されたそれを机に置いて、彼は寝室へ向かった。
8月16日。午前7時。
訊問が終わって、取り敢えず留置所に連れていかれた御影は、硬い床で目を覚ました。
首をひねって小気味よい音を立て、彼は完全に覚醒した。
元々寝起きはいい方だ。
それが軍で訓練したおかげで、こうして直ぐに覚醒できるようになった。
そして彼の鋭敏な五感は、こちらに向かってくる気配を感じ取っていた。
「気分はどうだい、御影勇闘くん」
そこに立っていたのは初老の男性だった。
手を後ろに回してはいるが、その立ち方には隙がない。
「…アンタは?」
「私はここの署長であり、第一課で班長もしている加賀美だ」
「加賀美…もしかして、『鬼の加賀美』…」
「ふむ…その名前を知っているということは、君も『極東侵略』に参加したクチかな?」
「ええ、自分はその時は米軍所属でしたけど、それでも『鬼の加賀美』の雷名は響いてきましたよ」
日本で『極東侵略』に参加したのは自衛隊と少数の警察官、そして沖縄に駐屯していた米軍だった。
『極東侵略』を行った無国籍軍の正体は朝・韓・中・露の極秘同盟組織だと言われているが、4国は今でもそれを否定しており、無関係を主張している。
そう噂される程の規模と軍備の無国籍軍と日本とでは、明らかに戦力的にも、そして、侵略が突発的だった分精神的にも大きな差があった。
しかし、その差を覆して被害を最小限に留めたのは、『鬼の加賀美』こと加賀美陸の活躍があったからというのが大きい。
戦力として期待されていなかった日本警察を指揮し、自らも戦乱の中に身を投じる姿はまさに一騎当千だった。
「それで、何の御用ですか?」
そんな人物にも、御影は物怖じすることなく言葉を投げる。
「君に、ひとつ提案がある」
そんな彼の、見ようによっては不遜とも取れる言動を、加賀美は全く気にせず話を続ける。
「提案、ですか」
「そう。単刀直入に言えば、今回の変死体事件に協力して欲しい。そうすれば、君を直ぐにここから出そう」
「………もしノーと言えば?」
「法の許す限り君をここに入れておくよ」
御影は大きなため息をひとつ吐いた。
「ええ。構いませんよ。俺もこの事件が気になってきましたし」
「そう言ってもらえると思っていたよ」
加賀美は牢を開け、御影に彼の拳銃や持ち物を返した。
「それで、俺はどんなのと一緒に捜査するんですか?まさか一人ってことはないでしょう?」
「彼女とだよ」
加賀美は扉の向こうを指さした。
そこにいた彼女を、御影は見上げる。
「親っさん、もしかして、こいつと一緒に捜査しろってんじゃないだろうな?」




