旅行⑪
「お嬢様」
長いこと外に立ち尽くしていたからだろう、気遣うようにそっとクリスに声を掛けられる。
「っ……、クリスさん」
ディーネはずっと彼が側に残ってくれていたことにすら気付いていなかった。
「本日は大事を取ってお部屋にいていただけると、貴女様をお守りしやすいのですが。私は廊下に控え、何かあれば駆けつけます」
「あの、私のことは別に気にされなくても大丈夫なので、それよりマルク様のことを守っ————」
「いけません。貴女は閣下の大事な御方で、守られるのは当然のこと。いつ敵の標的になってもおかしくはないのですから自重なさって下さい」
感情が、深いところに隠された紫の瞳。町で会った男と少し似た色を長く見てられず、彼女は目を逸らした。
「……分かりました。部屋に戻りましょう」
(私を守れと、クリスさんにマルク様が命じてくれたんだわ。
昨日は城で、今日は町で刺客が現れて、いよいよ彼の周囲が不穏になってきたから)
腹をくくったディーネは客室まで歩き出す。
するとしばらくして、
「この城の図書室ですが」
と、不意に後ろから付いてくるクリスが漏らした。
「魔術関連の本を探しましたが、特に目新しい情報はございませんでした」
「! そうですか、探してくれたのですね。まさか夜通しで?」
「いいえ、当然のことをしたまでです。貴女様の手間を減らすことが私の務めですから」
「そんな。でも、ありがとうございます」
(ここの図書室には……私に掛けられた秘術の情報は無いのね)
ドレスの胸元を右手で強く掴む。身の内に巣食う邪の文様を解き放つ術を見つけるのは、まだ先の話となりそうであった。
「そういえばクリスさん。なんだか今朝からお城が慌ただしいようですけれど、何かあるのですか?」
「騒がしいのはこちらの不手際ですが、客人の貴女様が気になさることではございません。特別なことは何もありません、どうかお気になさらず」
「……はい。余計な詮索だったようですね」
軽い気持ちで尋ねただけなのに、クリスにぴしゃりと言われてディーネは肩をすくめた。
**
卓に広げた本の内容が頭に入ってこない。
時間は既に夜になっていて、夕食も寝る支度も終えてある。ディーネはぼんやりして、忙しなく櫃に荷物をまとめているカミラを眺めた。明日には王都へ向かって発つので、メイドはその準備に追われているのである。
「何かおかしいのよねぇ……」
ディーネのドレスを仕舞い込みながら、カミラがぽつりと呟いた。
「え?」
「ああっ、独り言です!! どうか、お嬢様はお気になさらずに!」
————『気になさらずに』。昼間からクリスといいカミラといい、ディーネに対して皆がそう言う。さすがに毎回そんなに隠し事をされて除け者にされたら、かちんとくるものがあった。
「教えて。カミラ、貴女は何がおかしいと思うの?」
「お嬢様、目が座ってます……」
「早く言いなさい」
「………………分かりました。ええっとフィラル城に着いた時から、何かがおかしい気がするのです。私が立ち入り禁止の場所が多くて、そこに他の使用人達は出入りして何かの準備のようなことをしていて……。
今も部屋から出ずにお嬢様をお守りしながら帰りのお支度をするよう申しつけられているのですが、それは体の良い口実で、実は秘密裏に何かが着々と————」
「それよ、私も同じことを思っていたの!」
「お嬢様もですか!?」
「ええ。私達二人に内緒で何かが進められているということでしょう」
メイドと顔を見合わせる。
「心当たりはある? カミラ」
「いいえ、全く」
「…………」
「…………」
答えを出せないディーネとカミラは悶々と悩んだが、これ以上考えても仕方がないということになり、早朝の出立に備えて就寝した。
**
「そう、ですか。マルク様はお忙しいのですね…………」
翌日ディーネとカミラが馬車に乗り込む時になっても、マルクは姿を現さなかった。
「仕方がないことなのです。我々は参りましょう」
馬上にいるクリスの一声に、御者は馬を走り出させる。
馬車を守る護衛達も当然いた。それはまるで、この旅行の往路をディーネに思い出させる。何もかも行きと同じだ。ただディーネが馬に乗っておらず、その横にマルクがいないことだけが違う。隣にいてくれた男がいない喪失感が、彼女の胸を締め付ける。
マルクのいる城が遠くなっていく。
(我慢、しないと)
マルクもクリスも護衛達もカミラも、ディーネを守ろうとしてくれているのだった。彼女は今、彼らの指示に従うべき立場なのだということをディーネは理解していた。
(なのに、どうして。こんなに胸騒ぎがするの!?)
「……お願いですっ、馬車を止めて!!」
ディーネの叫びに、御者が応じた。馬車が止まると、すぐさまディーネは扉を開けて外に出る。それは誰も彼女を止める時間はないほど、素早い行動だった。
「ごめんなさい、馬を貸して下さい!!」
ディーネの必死の剣幕に押され、頼まれた兵士が黒馬から降りる。その馬に彼女は飛び乗り、フィラル城へ馬首を向けた。
「いけません!! お嬢様。戻ってはなりません!! 我々は王都へ行くのです!」
クリスが追いすがってくるが、彼女はそれどころではない。
「すいません、早くっ早くマルク様のところに行かないと!! お願い、力の限り走って!!」
「……くっ、追いつけない!」
ディーネを乗せた馬は彼女の意思をくみ取り、光のように速く森を駆ける。目指した城は、またすぐに彼女の目の前に現れた。
「……ああっ!!」
ディーネは言葉を失う。
ちょうど開門され、中から出てくる大量の武装した兵士達の群れ。馬々の背にくくり付けられた白い布袋の荷。それは恐らく兵糧や武器だった。
「戻ってきてしまったのですね、ディーネ嬢。決心が鈍るから今朝は会わずにいたのに」
軍隊の先頭で騎乗した男は——————、マルクだった。
「私に黙って行かないで! ……戦争になんか行かないでよっ!!」
「落ち着いて下さい。馬が驚く」
マルクはひらりと馬から降りた。そして彼女に近付き、寄り添って手を差し伸べる。ディーネはマルクの手を借り、黙って馬を降りた。
「済まない、しばし待て。彼女と話がある」
マルクは兵士達に言い残すと、そこから少し離れた木陰に彼女を連れていく。
「……泣かないで下さい」
「っ……、だって!」
しゃくり上げたディーネをマルクは抱き締めた。彼の着けた銀の胸当ての感触は、冷たくて硬かった。
「元々この旅行が終わったら出陣する予定だったのです。それが一日早まっただけで。
貴女に黙って行こうとしたのは悪かったですから、泣かないで下さい。そんなに泣かれたら、離れがたくなってしまう」
拘束を緩め、彼女の目を覗き込みながらマルクは優しく言った。
「離れないで下さいっ。私も共にっ、参ります。貴方の役に立ってみせます! だって私は女神——————」
「それは誰にも言ってはいけないことのはずです」
マルクに言葉を遮られ、その強い視線に彼が彼女の正体をとうに知っていたことを悟る。
「…………ご存知だったのですか?」
「貴女は分かりやすい。言動が他の女性とは違う」
マルクは柔らかく微笑む。
「貴女は本来、私などでは手も届かない至高の存在です。しかし、それでも私は貴女を愛している。だから私の帰りを待っていてくれませんか。この戦争から絶対に生きて帰ってきて、貴女を娶りたい」
ディーネは首を横に振った。
「……私は年を取りにくいのですよ? 貴方が老いても、私の見た目は変わらないかもしれない」
「そんなことは構いません。どんな障害も貴女を得られるという大きな喜びの前には霞んでしまう」
茶目っ気たっぷりに断言され、彼女は噴き出す。
「貴方の力を信じて、ずっと帰りを待っています。愛しているわ、マルク」
「ディーネ……。どうか自愛を一番に考えてくれ。自分の身体に負担がかかるような無理は決してしないで。でないと私は心配で、心置きなく戦えない」
「分かったわ」
「約束だ」
マルクが顔を寄せてきて、唇を合わせるだけの短い接吻を交わす。
「時間がないから、続きは帰ってきてからの楽しみに取っておく」
にやりとして言われ、ディーネは頬を染めた。
「では行ってくる。元気で」
そう言ってマルクは背を向けたが、すぐに振り返った。
「ディーネ。こう言うのはとても不本意だが、もし…………何かあったらレオール様を頼るといい。彼は私が一番に認めた男だから。でも近付きすぎるのは駄目だ、私は妬くぞ」
「ふふっ、大丈夫よ。私には貴方だけだもの」
彼女の笑顔を見て安心したのか、マルクは頷いて今度は本当に去っていく。
「……クリスさん。私、笑ってちゃんと彼を見送れていました?」
「はい。大変ご立派でした」
ディーネが呼びかけると、クリスが近寄ってくる。
もうマルクを乗せた馬は見えなくなっていた。彼に続く騎士や兵士達が列をなして遠ざかっていく光景が、涙で滲んだ。
「今日、王都に戻るのは取り止めにしましょう」
「っ、いい、のですか?」
「はい」
「ありがとうございます。何だか辛くて……」
本気の恋とは甘くて切ないものだと、女神は初めて知ったのだった。




