旅行⑨
「さあ、早く食堂に行きましょう?」
ディーネはマルクの手がのびてくる前に身を翻し、三歩ほど進む。けれど、それ以上先には行けなかった。
「待って下さい」
という、いつもよりも固くなった声が彼女を呼び止めたのだ。
「どうかしたのですか? 急がないと、食事が冷めてしまいますよ」
ディーネは振り返らないまま、明るく尋ねる。すると、つかつかとマルクは彼女を追い越し、向かい合うように立った。ディーネは反射的に彼と顔を合わせないよう、俯いてしまう。
急に、温かな手が彼女の両頬を包み込むように添えられた。その手で顔を優しく持ち上げられ、彼に瞳を覗き込まれる。
「顔色がそれほど良くないですね。食欲はあるのですか?」
「あ……」
(見透かされてしまった。……カミラには何とか隠せたのに)
マルクが心配してくれた通りだった。晩餐の支度の時間まで眠って体力を回復させるはずが、余計に疲れてしまっている状態なのだ。それでも今日を逃したら刺客のことをもう聞けなくなる気がして、無理をして動こうと思っていた。
「少しなら食べられます。食堂に連れていってもらってもいいですか?」
今まで彼の腕で運ばれることをさんざん嫌がっておきながら、今日だけはと思って懇願してみる。
「喜んで。どんな形であろうと、貴女に触れられるのは嬉しいことです」
ディーネは横抱きにされ、 ちゅっ、と軽く唇を合わせられてから移動する。
「………………接吻は許していませんが?」
体温が上昇するのを感じながら、抗議の細目を向け、可愛げのない言葉を紡ぐ。
「つれないことを言わないで下さい。愛しい女性が自分の腕の中にいるのに、自制するのは困難だ。これでも私は我慢しているのです。本当は、もっと――――」
「それ以上のお話は結構です」
彼の物言いに恥ずかしくなって、ぴしゃりと遮断すると、ため息を吐かれた。
「この熱い恋情を口にすることすら許してもらえないのか……」
「だから、貴方はいちいち大袈裟です! そんな、この世の終わりみたいに消沈した顔をわざと作って見せないで下さい!!」
「貴女もずいぶんと言うようになりましたね。しかし、そうやって考えて反論出来るのも元気な証拠です。良かった」
その安心したような笑顔が最も性質が悪いのだ、という肝心な一言を伝えることが彼女には出来なかった。
**
彼の微笑みと気遣いを受けながらの夕食は、何だか胸に沁みた。それなのに彼女は、この大切な時間を自ら壊そうとしているのだった。
「マルク様」
「何ですか?」
「今朝の刺客のことなのですが、彼らは一体何者で、何を目的にこの城へやって来たのでしょう? 反乱軍の手の者かもしれないとのことでしたが」
言い終えない間に、マルクの優しい眼差しと声音が、鋭さを帯びたものへと一変する。
「そうでしたね。やはり貴女は真っ直ぐで、真実をきちんと知ろうとする女性です。私としては、聞かないでくれても良かったのに。
でも、そうですね。いずれはお話ししなければいけないことだったのかもしれません」
そこでマルクは一息置いてから話し始めた。
「貴女が初めて王城に姿を現した日。王が『魔術を使ったのではないか』と仰っていたのを覚えていますか?」
「はい」
「ご存知かもしれませんが、王軍は三年前から反乱軍の鎮圧に手こずっています。その反乱軍は頻繁ではありませんが、こちらの不意を突いて魔術での侵入を図ることがある。魔術の前には、どんな警備も役に立ちません。それで彼らの侵入を許してしまう。今回の場合も、魔術が使われていたようです。
王城で貴女が行った塔――――のように、魔術除けの魔術が施された場所は今や数が少ない。元々、魔術が使える者というのは少ないし、更に年々減少している上に、その持って生まれる力も弱くなっています。むしろ、もう王軍に魔術を使える者というのはいないに等しい。あえて挙げるとすればレオール様の叔父上くらいですね。しかし彼は伏せっているし、彼が得意とするのは予言だけ。他の魔術は使えません。
ところが反乱軍には何人かの術者がいる。反乱軍の統率者ラーゼミンは彼らを使役し、王とその側近達を暗殺し、王軍の力を削ごうとしているのです。つまり、今回の暗殺対象も私かと。その点について刺客に尋問を始めましたが、口が堅くて何も吐こうとしないところです。
……それよりも貴女には怖い思いをさせてしまいましたね。王都の屋敷でも、この城でも常に警備体制は見直して強化しているのですが、それは言い訳にはなりません。
勿論、私の我儘で貴女を私の傍に置き、危険にさらしているという自覚はあります。けれど、それでも時間の許す限り貴女に近くにいたい。この身勝手な感情をどうか許してほしい」
彼によって新たな情報がもたらされ、考えるべきことは山とあった。なのに、どうしてなのか、彼から向けられる愛情に胸は一杯になって、頭は沸騰しそうになる。
「今は何も難しいことを考えなくていいのです。せめて、この短い旅行の間は私のことだけを見てもらえませんか?」
マルクに重ねるように言われて、つられるように「はい」と頷く。そうすると、彼の顔が明るくなった。
「それは良かった! ところで、明日は町を歩いてみませんか?」
「町? とても楽しみです!」
「では約束ですよ」
*
夕食後は再びマルクに部屋まで運んでもらって慣れずに恥ずかしい思いをしたが、あまり深くは考えないようにしてやり過ごした。それよりも明日のことを考えると心が浮き立って、良い意味で落ち着かないということもあった。
だが同時に、ほんのわずかの不安も頭から離れず、思わず念じてしまう。
(どうか、もう彼が危険な目に合うことなどありませんように。刺客なんて二度と来ませんように)
それが到底叶えられない願いであったとしても、彼女は祈らずにはいられなかった。




