旅行⑧
ディーネが飲みかけのお茶を卓上に置いて立ち上がろうとすると、メイドから待ったの声が掛けられる。
「お嬢様。まさか、どこかへ行こうとなされていますか? そんなに冷えたお身体で?」
「……っ顔が怖いわよ、カミラ!」
一見、笑顔のメイドから凄みを感じた。
(こういうことになる気がしたから、なかなか動けなかったのよね……)
「カミラ。貴女が私を心配してくれるのは嬉しいのだけれど、ほら、クリスさんも逃げる刺客を追われたみたいでね? 彼は怪我とか大丈夫なのかって考え出したら、落ち着かな……」
「そういったことでしたら、私が聞いて参ります。お嬢様は夕食まで、暖炉の前から絶対に動いてはなりません!!」
「あっ、待っ……!」
メイドの決断と動きが早くて付いていけない。ディーネはタウロスと共に、部屋に取り残される。……と思ったら、カミラはすぐに帰ってきた。
「お嬢様ー! 分かりましたわっ」
「もう!?」
「はい。幸運なことに、そこで使用人とすれ違ったので、クリス様を見たかと聞いてみたのです。ぴんぴんしているのを今しがた偶然見たそうですよ。杞憂で済んで良かったですね!」
「ええ。安心したわ。ありがとう、カミラ。私より貴方が行ったほうが早くて確実だったわね。なんだか悔しいくらい」
仮にディーネが部屋を出ていって使用人を捕まえようにも、彼らは彼女の視界に入るのは恐れ多いとばかりに隠れようとするので手こずってしまうのだ。以前、彼女が王都の屋敷の廊下で使用人を見かけた時に挨拶しようとしたら逃げられた経験があった。そのとき後ろにいたカミラの説明によると、使用人の中にも身分差があって、許されていない者は貴族の目に入るのもいけないらしい。つまりディーネはマルクの客人だから貴族と同列の扱いを受けているのだ、と察せられた。勿論、本当のところディーネは貴族でないし、使用人に避けられるのは複雑な気分である。
そのことを、進まない昼食を食べながらカミラに打ち明けると、しかし笑い飛ばされた。
「え、悲しいのですか? ……私は嬉しいですけどね! うふふ。使用人としてですが、お嬢様を独り占め出来るのですものっ!!
ですが、こんなことを旦那様に漏らしたら、私も女の身とはいえ嫉妬されて抹殺されるかもしれないので、内密にお願いしますね!」
「そんなことを言ったら、私だって貴女を独り占め出来て良かったわ。貴女は明るいし、話してくれることは楽しかったり、私が求めていることだったり。貴女の存在に私がどれだけ救われているか。
将軍が私に貴女を付けてくれたこと、貴女に出会えたことに感謝しているの」
「~~それ以上言うのは勘弁して下さいっ、お嬢様! これ以上、貴女のことを好きにはなれませんからっ!!」
「どういうこと?」
「その純粋な御心と無自覚っぷりが大好きです……。旦那様の苦労が分かるようですわ」
「?」
肩を落とすメイドに理解が追い付かず、ディーネは首を傾げるばかりであった。
**
部屋は平穏で静かだった。雨が絶え間なく降り続ける音と、薪の爆ぜる音だけがしている。時折、作業するカミラが遠慮がちに小さな物音を立てた。けれど、それらの音はディーネの気を荒立てる種類のものではなかった。
ディーネは今朝の襲撃者たちのことを考えると落ち着かなかったが、荷ほどきの続きを再開するカミラに見張られていることもあって、暖炉の前で読書をすることにする。屋敷を出発する際にクリスが預けてくれた本である。
「あまり根を詰めないで下さいね? あくまで、晩餐の装いをするまでの暇つぶし程度で済ませて下さい」
「分かったわ」
カミラが櫃から取り出してくれた本を受け取りながら、ディーネは頷く。
(『魔術大成』には……、あの頁以外、惑いの術に関することは載っていないみたいね。他のを読みましょう)
『魔術大成』は全頁を捲って眺めるにとどめて置いてしまい、『ヒュレイア戦争に関する考察』に手を付け……ようとしたところで、タウロスが足元にじゃれてくる。
「だめよ、今は。忙しくて遊んであげれないわ。……仕方ないわね、もう。ここで大人しくしていてよ?」
膝に乗せてやったのは良いものの、犬の体温で何だか眠くなってくる。旅の疲れが出たのかもしれない、と思った。うつらうつらと舟を漕ぎ始めると、カミラに寝台で休むように言われる。
「分かったわ。でも将軍が部屋に来る前に食堂に行かなければいけないから、早めに支度しないといけないの。だから、少ししたら起こしてちょうだいね、カミラ」
(そうよね。夕食が本番――――マルク様に今朝の刺客のことを詳しく聞く機会になるかもしれないし、ゆっくり身体を休めておきましょう)
言い訳めいたことを考えながら彼女は睡魔に逆らえず、寝台に入った。
夕方になるとカミラにたたき起こされて、晩餐の支度をする。今宵は紫色のドレスを選ばれた。
「黙っているように命じられたのですが、お嬢様、あのう……」
最後にディーネの髪を整え、一輪のチェリカを耳の上に挿しながら、メイドはおずおずと言った。
「どうしたの、カミラ」
「ずいぶん前から旦那様が廊下でお待ちだと思います」
「え?」
「今度こそ、お嬢様と一緒に食堂へ行くのだと仰られたようで、お部屋の前にもういらっしゃるのではないでしょうか」
「えええ!?」
「とても愛されていらっしゃいますねえ。ふふっ、旦那様の真剣なこと!」
マルクの行動に頭を抱えたくなっていると、カミラが肩を震わせて始めた。その様子を見て、つられたディーネも一緒に大笑いしてしまう。なにせ彼と一緒に食堂に行くか行かないか位のことで、お互い子どもみたいに意地を張って何度も競っているのだ。
「……笑っている場合じゃないわね。お待たせしているなら、早く行かないと」
ディーネが廊下に出ると、本当にマルクが待ち構えていた。
「今日は単独で行かせませんよ」
すねた顔で宣言されて、彼女は笑みがこぼれてしまう。
「お待たせしてしまったみたいですね、マルク様」
「……いや、そんなことは……ないです」
顔を赤くしてたじろいだ様子の彼に、ディーネは戸惑った。
「どうしました?」
「貴女の可愛い笑顔を見られた上に、愛称で呼んでもらえるのが嬉しくて」
「…………」
この男は、どうしてこんなに次から次へと頭が痛くなることを平気で言えるのだろう、と彼女は改めて思ったのだった。




