存在の否定
……さて、どこまで話したかな。
ああ、そうだ。確か、哉沢しおりが私にとって最も忌むするべき存在であり、反吐が出そうになるほど、理解のできない思考をした女だったか。
言い過ぎだって? ああ、そうかもしれない。
確かに彼女は何も間違ってはいなかった。彼女が私に与えた言葉はこの国の“常識”であり、国民が信じている“正義”だ。だが、はみ出し者であった私にとっては、とても憎く、とち狂った見解に思えた。
……まあ、実際に"間違っていた"のは私なんだけれども。
話を変えよう。まず、何故私がこれほどまでにあの善かれ女を嫌うのか説明したい。
ある人が居た。彼の名は友枝京士郎――(由佳と言う名の悪友を除いて)私の唯一の友達だった。親子と言ってもいいぐらい年の離れた男性ではあったが、それを忘れてしまうほどに、私たちの仲は良かった。
皺のある目元、柔らかい瞳、たおやかな笑みを何時までも浮かべていた顔は、どこまでも優しげだった。おっちょこちょいでドジで、何処か達観としていた人。その人は誰よりも娘を愛し、慈しみ、宝物のように大切にしていた。
娘は妻の忘れ形見だった。だから、なおさら娘は彼にとって掛け替えの無い者となっていたのだろう。
彼のその溺愛っぷりは当時、初対面であった私から見ても明らかだった。今時珍しい紙媒体の娘の写真を持ち歩き、彼女の自慢話をしては、体をだらしなく笑ませる。時々、「いやだろうなぁ、こんなお父さん」と、娘には私も同情したものだ。
彼は本当に面白い人だった。正にからかい甲斐のある“おじさん”。
羊のような柔らかい雰囲気をもっていて、何時も綿飴を連想するような空気を漂わせていた。甘ったるい、でも何処か心地のいい、そんな“場所”。
ちょっとでもからかうと「土宮さあああああん!」と、涙目になりながら怒るその人は、かなり年の言ったおじさんのくせに本当に可愛らしく、親しみのある人だった。私はそんな彼が大好きだった。まだ出会ってそんなに時間は経っていなかったはずなのに、気が付けば私は彼ととても仲良くなっていた。悪友の由香曰く、「子供に懐いてじゃれつく、犬のよう」だったそうだ。少し府に落ちない例えではあったが、なるほど確かにそうだったかもしれない、と私も今は納得している。
話が思いっきり逸れてしまったように感じるが、とにかく彼は善と無害の塊だった。
だが、彼は死んでしまった。否、殺されてしまった――処刑と言う名の形で。
2105年、日本では絶対処刑法と言う名の法律が出来ていた。万引き、盗撮、ストーカー行為などを含む全ての犯罪行為は最低10年の懲役とされ、それの被害が1000万円を超えた時、人は処刑される。裁判官の判決次第では死刑さえもありえるのだ。
私の友――友枝京士郎はその法を犯してしまった。
きっかけは彼の娘の死だった。どうやら、彼は私と出会う前に、既に殺人計画を練っていたらしい。娘の死因は自殺だった。付き合っていた男に残酷な振られ方をされ、証拠はないが、“集団で弄ばれた”らしい。自殺する際、遺言としてその事実を書き残したようなのだが、男からはその証拠となる塵は一つも出ず、誰も信じてくれなかったようだ。警察に訴えようにも訴えられない、そんなやり場の無い悔しさと憎しみを、友枝さんはずっと抱えていた。
そして、己の娘を自殺へと追い込んだ男に復讐するため、彼は茨の道を歩んだのだ。
それに気づいた私は彼を必死に止めようとした。犯行が起きる前に彼を説得し、何度か煙たがられたり、罵倒されたりもしたが、私は諦めなかった。そんなことをしてしまえば彼の人生が台無しになるのは分かっていたし、自分のその思いも利己的なものだと分かっていたが、それでも諦められなかった。私は、彼との平穏な日常を失いたくなかった。
その粘着質な、しつこい性格のお蔭もあってか、例の男にストーカー行為を犯し、殺人にまで手を染めようとした彼を、私は何とか止めることが出来た。
だが、一歩遅かった。
友枝さんは捕まった。“哉沢しおり”に見つかってしまったのだ。
行政機関の期待の星、100年に一度の逸材――哉沢しおりは以前申したように“正義感の強い”女だった。悪を絶対に許すことはせず、彼女は色んな事件に首を突っ込み、沢山の謎を解決して来た。学生の身にも関わらず、彼女は警察に意見することを唯一許されている学生だった。
そんな哉沢しおりは友枝さんを捕まえる数日前――ある日の事、あの娘を自殺へと追い込んだ男に頼まれたらしい。偶然、男が困っているところに通りかかり、彼の相談に乗ったようだ。というのは、一体何処でその情報を手に入れたのか分からない私の悪友からの話だった。
男は言った。どうやら自分はストーカーされているようだと。哉沢しおりは目を光らせた。「これは事件だ。私が解決せねばなるまい」、彼女はそう決意し、犯人を捕まえるために立ち上がった。そうして自分のコネを駆使し、犯人――友枝京士郎に辿りついた。哉沢しおりは友枝さんが復讐を諦め、計画の後処理をしている最中に、無理やり土足で彼の自宅に踏み込んだのだ。そして彼女は見つけた――八つ裂きにされた数多くの写真と幾つかの凶器を。
これ等は全て人伝(由佳と言う謎の悪友)で聞いた話だが、どれも哉沢しおりらしい言動で、信憑性があったので、私は何となくその想像が出来た。彼女なら間違いなくするだろう。
事件当時、友枝さんは正直に話したらしい。自分が復讐をやめた意を、反省した思いを。だけど、哉沢しおりは構わず警察へと通報し、彼に無情にも言い捨てそうだ。
――罪は罪です。あなたは被害者に多大な損害と恐怖を与えました。あなたはその命を持って償うべきです。
それこそが彼の願いであり、あなたに出来る唯一の善意。法を犯してしまったあなたに弁明の余地はありません。
大人しく受け入れてください。
友枝京士郎は捕まってしまった。裁判に赴き、そこで被害者や哉沢しおりの証言、検事の言葉に反論することを許されず、一方的な裁判の元、彼は死刑判決を下された。
その時の私の怒りようと言ったら……今、思い出しても腹立たしい。腸が煮えくり返りそうだ。
とにかく判決を納得できなかった私は抗議した。確かに、友枝京士郎は罪を犯した。許されない行為を犯し、殺人にまでも手を染めようとした。だが、彼は悔いていた。反省し、心を入れ替えていた。憎いはずの男にさえも彼は堅実に頭を垂れた。それなのに、それは無いだろう。それは可笑しいだろう?
何故、彼が死ななくてはならない?
私は何度も法務省を訪れた。もう一度裁判をやり直してほしい、ちゃんと加害者の言葉を聞いてあげてほしいと訴えかけた。だが、私の声に耳を貸すものは誰一人、居なかった。
そんな時だった、哉沢しおりが私の前に姿を現したのは。法務省の一角、人通りの空くない廊下の中、哉沢しおりは哀れな者を見るかのように私を見つめた。そして言った。
――何でそこまで彼に執着するのかは分からないけど、諦めた方が……ううん、受け入れた方が良いです。
あなたのその考えは間違っている。彼は大きな罪を犯したんです、例えどんな理由があろうともそれは許されない。
私はこの事件前から彼女のことは知っていた。同じ大学の学部に在籍する期待の星。既に行政機関に目をつけられている100年に1度の逸材。彼女は有名だった。その数々の功績と“正義感”、そしてその愛らしい容姿で、学生から多大な人気を集めていた。彼女を知らぬ者はモグリでも居ない。
だが、私は彼女のことが苦手だった。何故かはわからない、ただ彼女を見たその瞬間から、嫌悪感を感じた。私はずっと不思議に思っていた、何故自分は彼女をこんなにも苦手としているのだろう――。
その疑問は、直ぐに解けた。
相容れないのだ。彼女と私は決して相容れることのできないものを持っている。それは言わば水と油。
純粋な瞳を向けてくる哉沢しおり。己の中で膨れ上がる苛立ちを、拳を握ることで抑えなふがら、私は言葉を紡いだ。。
――……どうして、それで処刑になるの? 彼は反省している。悔いて、心を改めて、あの男にも謝罪したわ
――だから? その言葉が本当とは限らないじゃないですか……嘘かもしれませんよ?
彼は既に法を犯しているんです。もう二度とやらないとは限らない。
――何故、そうなるの? どうして、あなたはそう言い切れるの?
尚も反論する私にしょうがないとでも言うかのように嘆息を漏らす哉沢しおり。それはまるで聞き分けのない子供を相手にするような態度だった。
――じゃあ、逆に聞きます。
あの人が処刑になって何が悪いの? 大きな罪を犯したんだもの、死んで償わないと駄目よ
その瞬間、自分の中で何かが切れるのが分かった。それは理性の糸か、己を保つための誇り(プライド)か――。
――パン!
気が付けば己の手はヒリヒリと熱を持っていた。目の前には床へと倒れこむ哉沢しおり。その乳白色の頬は赤く腫れあがっていた。瞳は唖然と見開いており、何が起きたのか解らないと言う表情だった。
はあはあ。何故かはわからない。だが、私の呼吸は荒れていた。息が苦しい、眼球が痛い、何かが胸の奥から競りあがってくるのを感じた。言いたいことは沢山あるのに、口から出るのは吐息だけで、私は唇を強く引き結んだ。
周りで人が騒いでいるのが聞える。どうやら現場を見られたらしい。野次馬が集まり、人混みが己を囲み始める中、低いバリトンが空間に響いた。
――何をしている?
ピクリ。瞬間、身体が固まった。それは己が憧れ、ずっと追いかけ続けていた人の声だった。忘れるはずもない、恩人の声。中学生の頃、“あの事件”で助けられて以来、一度も会っていない人。その顔を見ようと、私は恐る恐る振り返った。
短い黒髪に、清楚な顔立ち。凛々しい眉毛と鋭い眼光は、己が最後に見た時よりも険しかった。
――どういう理由があるのかは知らないが、彼女に暴力を振るうつもりなら此処から出て行ってもらおう
その言葉はあまりにも冷ややかで、私はまるで胸を氷柱か何かで刺されたような感覚を味わった。その冷たい眼差しには軽蔑の感情がはっきりと現れていた。
――氏春さん!
驚きの声を上げた哉沢しおりに“氏春”と呼ばれた彼は彼女の元へと歩み寄った。180センチほどの長身が己を横切る瞬間、私は得体のしれない不安を感じた。
――大丈夫か?
――あ、はい……すみません
どういう関係かはよく分からないが、哉沢しおりが事件に首を突っ込む度、何時も彼女の傍にいる刑事の噂を聞いたことがある。恐らくその刑事が目の前の彼なのだろう。
それを理解した瞬間、心がゆっくりと凍り付くのが分かった。まるで心臓が凍傷を起こしているのではないかと疑ってしまうほどに、胸が鈍く傷んだ。
――顔が腫れている。来い、直ぐに冷やすぞ
――は、はい!
手を優しく差し伸べる憧れの彼、それに小さく繊細な指を伸ばす哉沢しおり。その光景を呆然自失として見つめる私の耳に周囲の囁き声が届いた。
――誰だよあれ?
――……のに、おっかねーな
――“ブラッド”か?
ブラッド、それはこの国の“法”を受け入れず、犯罪者を受け入れる“非常識者”、或いは“偏屈”な屑を称する略称だ。
この瞬間、私はやっと理解した。
――ああ、そうか。
間違っていたのは彼女じゃない。本当に間違っていたのは……この国の常識を受け入れられなかった“自分”だ。
哉沢しおりは何処までも“法に染まった”女だった。だが、それは間違いではない。それは当然のことであり、常識だ。“法”こそが“正義”、“正義”こそが“絶対”――それこそが今の日本が掲げる信念なのだ。
この日、私は己の存在を否定されたような気がした。