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アーネム戦記  作者: Tanu1016
第五章 278年の嵐 前編

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第12話 ジョン=ブラン

 エルがパドゥーラへ帰還したのは、予定していた時刻とほとんど変わらなかった。


 西の砦は落としていない。


 最初から、落とす必要もなかった。


 ユナ=リズナー率いる都市同盟軍を西の砦へ押し込み、パドゥーラ方面へ動かさない。その目的はすでに果たしている。


 ユナが砦から出てこないことを確認すると、エルは予定どおり兵を引き、パドゥーラへ戻った。


 異変に気づいたのは、城へ入って間もなくのことだった。


 北門が騒がしい。


 兵士たちが慌ただしく走り回り、負傷者が次々と運び込まれている。さらに北からは、リービッヒ兵が続々と戻ってきていた。


 だが、隊列などなかった。


 兜を失った者。


 槍を捨てた者。


 血まみれの肩を仲間に支えられ、どうにか歩いている者。


 帰還ではない。


 敗走だった。


「……なに?」


 エルが足を止めた。


 隣にいたケントも、ただならぬ様子の北門へ目を向ける。


「北の砦を攻めていた部隊です」


「それは分かる」


 エルは、次々と門をくぐってくる敗残兵を見た。


「なんで逃げてるの?」


 誰も答えられなかった。


 そこへ一騎の伝令が駆け込んでくる。


 馬から転げ落ちるように降りると、そのままエルの前まで走ってきた。


「申し上げます! 北の砦攻略軍、敵の攻撃を受け潰走しております!」


「敵?」


「パドゥーラ軍本隊です!」


 ケントが目を見開いた。


 エルは何も言わなかった。


「パドゥーラ侯率いる本隊が回廊より出現! 我が軍後方へ攻撃を開始しました! さらに北の砦守備隊も出撃し、我が軍は前後から挟撃を受けております!」


「……そう」


 エルは、それだけ答えた。


 ◇


 ――八日前。


 ライプニッツ北方。


 ライプニッツの森林地帯が終わり、コスタ平原へと開けていく一帯で、パドゥーラ軍とレミーラ軍が睨み合っていた。


 アムル率いるパドゥーラ本軍に加え、ライプニッツとコスタ方面の守備を担う北方師団も、この戦線へ展開している。


 その北方師団を率いるのが、第三次コスタ会戦末期にコスタ城を奪い返したジョン=ブランだった。


 対するのは、ハイファ率いる紅竜騎兵。


 ただし、両軍の間で大規模な戦闘が起きているわけではなかった。数十騎、多くても数百騎程度の部隊が斥候として動き、街道や水場を巡って小さな衝突を繰り返している。


 その小さな戦いで、パドゥーラ軍は負け続けていた。


「またか」


 ロックが顔をしかめた。


 前方から五人の負傷兵が運ばれてくる。その後ろからさらに三人が歩いてきたが、いずれも鎧や衣服へ血を滲ませていた。


「こっちは?」


「二人、帰ってきてません」


 報告した兵士が悔しそうに答えた。


「敵は?」


「分かりません。追おうとしたんですが、すぐ引かれて……」


「もういい。下がって休め」


「はい」


 兵士を下がらせると、ロックは隣にいるエヴァンスを見た。


「なあ」


「言うな」


「まだ何も言ってねえぞ」


「言いたいことは分かる」


 二人の視線の先には、地図を前にしたアムルがいた。


 地図を見ている時間が長い。


 以前なら、とうに次の命令が出ている。


「右手に敵騎兵、再び確認! 数およそ三百!」


 報告を受けたアムルが顔を上げた。


「さっきの部隊か?」


「旗は同じです」


「後ろに別の部隊は?」


「確認できません」


「左はどうだ」


「変化ありません」


 アムルはもう一度、地図へ目を落とした。


 右へ兵を出せば、敵はまた引くかもしれない。


 だが放置すれば、そのまま側面を突かれる可能性もある。


 そもそも、見えている三百だけが敵のすべてとは限らない。


「アムル様?」


「……右の部隊を前へ。深追いはするな」


「はっ!」


 命令が伝わり、部隊が動き始める。


 ところがしばらくして、別の斥候が駆け込んできた。


「敵騎兵、右手よりさらに迂回!」


「数は?」


「同じく三百ほど!」


「同じ部隊か?」


「分かりません!」


 アムルは答えなかった。


 ほんの数秒。


 だが、戦場ではその数秒が長い。


「右を一度下げろ。敵を引きつけてから――いや、待て。中央から二百を回せ」


「はっ!」


 命令が伝わった時には、紅竜騎兵はすでに離脱を始めていた。


 追えば罠かもしれない。


 かといって追わなければ、また同じことをされる。


 結局、何も得られないまま、数人の負傷者だけが残った。


 ロックが小さく息を吐く。


「……間違ってるわけじゃねえんだよな」


「ああ」


 エヴァンスも否定しなかった。


 敵を警戒する。


 伏兵を疑う。


 兵を無駄に失わないよう慎重に動く。


 一つ一つの判断は間違っていない。


 ただ、遅い。


 以前のアムルなら、一つ目の報告を聞いた時点で敵の狙いをある程度まで絞り、すでに次の手を打っていた。


 ところが今は、一つの可能性を考えた直後に別の可能性が浮かぶのか、最後の一手を決め切れない。そして紅竜騎兵は、そのわずかな遅れを見逃さなかった。


「三年前ならな」


 ロックが呟く。


「やめろ」


 エヴァンスが遮った。


「分かってるよ」


 ロックも、それ以上は言わなかった。


 アムルの様子がおかしいことなど、近くにいた人間なら誰にでも分かっていた。


 判断が遅くなった。


 遊び心も消えた。


 エルがいなくなってから、アムルは平静を装い、以前にも増して真面目に政務へ取り組んでいる。


 それ自体が悪いわけではない。


 だがロックたちには、周囲が求める『パドゥーラ侯』を演じ続けることで、心に空いた穴を埋めようとしているようにしか見えなかった。


 政務では、その真面目さによって隠されてきた。


 だが、瞬間ごとの決断を求められる戦場では隠しきれない。


 その時、平原の向こうから角笛が鳴った。


「敵軍、動きます!」


 紅竜騎兵だった。


 これまでの小競り合いとは違う。前列が一斉に動き始め、地面を震わせる蹄音が徐々に大きくなってくる。


「来るぞ!」


 兵士たちが武器を構えた。


 その直後。


 後方から一騎の伝令が駆け込んできた。


「伝令! パドゥーラより急報!」


 アムルが振り返る。


「何があった」


「リービッヒ軍がパドゥーラへ侵攻! ティーエ様は北の砦まで撤退し、その北の砦が現在包囲されています! さらに敵軍の一部がパドゥーラ城へ侵入!」


 周囲がざわついた。


「誰が率いてる」


「分かりません。ただ――」


 伝令は荒い息を整えた。


「紅い疾風の旗を掲げているとのことです」


 アムルが黙った。


 紅い疾風。


 ドゥットゥカース家の旗。


 だが、モンドではない。


「……エル?」


 どうしてエルがパドゥーラにいる。


 兵を率いて、自分たちの町へ攻め込んできた。


 なぜなのか。


 何のためなのか。


 それを知った自分が、どうすればいいのか。


 何一つ整理できなかった。


 ただ、エルが来た。


 それだけだった。


「アムル!」


 エヴァンスの声に、アムルは顔を上げた。


 紅竜騎兵はすでに攻勢へ移っている。


 エルのことは分からない。


 今考えたところで、答えが出るとも思えない。


 だが一つだけ、分かっていることがある。


 北の砦には、ティーエたちがいる。


「撤退する」


 ロックが振り返った。


「ライプニッツか?」


「ああ。そこから回廊へ入って、北の砦へ戻る」


「分かった」


「全軍撤退! ライプニッツまで下がる!」


 命令が飛び、兵たちが一斉に動き始めた。


 ◇


「俺が殿をやる」


 レミーラ軍が迫るなか、アムルは馬首を返そうとする。


 何を言っている。


 ロックが止めようとした、その時だった。


「駄目だ」


 横にいたジョン=ブランが前へ出る。


「ジョン」


「ここは私が残る」


「相手は紅竜騎兵だぞ」


「見れば分かる」


「撤退戦なら俺がやった方が――」


 言い終わるより先に、ジョンの拳が飛んだ。


「……っ!」


 まともに頬を殴られ、アムルの身体がよろめく。


 ロックもエヴァンスも、一瞬だけ言葉を失った。


挿絵(By みてみん)


「何を!」


「守るべきものを違えるな」


 ジョンの声は低かった。


「……何?」


「お前が守るのはここじゃない。パドゥーラだ」


 ジョンは南を指した。


「北の砦にはティーエたちがいる。そこが抜かれれば、パドゥーラに戻るすべを失う」


「分かってる。だから早く敵を止めて――」


「分かってないから殴ったんだ」


 ジョンは吐き捨てるように言った。


「お前がパドゥーラに戻らずして、誰が戻る」


「しかし、殿は危険だ」


「何を言っている。だからお前にはやらせられん」


「でも……」


「お前がおかしいことは、なんとなく気づいていた。だから言わせてもらう」


 ジョンはアムルをまっすぐ見た。


「お前は戻れ」


「……」


「私はお前のためにパドゥーラへ来たんじゃない」


 迫ってくる紅竜騎兵へ目をやる。


「お前が作ろうとした町に、少しばかり希望を持った。それだけだ」


 ジョンは続けた。


「北で盗賊を追い払って、村を立て直して、レミーラとも散々やり合った。今さら、こんなところで全部潰されてたまるか」


「ジョン……」


「だから行け」


「でも――」


「アムル」


 ジョンが睨んだ。


「もう一発いるか?」


「……いらない」


「なら行け」


 それからジョンは、北方師団の副将へ視線を移した。


「シェ=ウィンク」


「はい」


「北方師団はお前に任せる。コスタ城へ戻って、守りを固めろ」


「パドゥーラへは?」


「行く必要はない。そっちはアムルの仕事だ」


 ジョンは北の平原を見る。


「こちらが退けばレミーラは動く。コスタまで抜かれたら、北方師団がここにいる意味がない」


「……将軍は?」


「私はここに残る」


「ですが――」


「師団まで道連れにする気はない。残りは全部連れていけ」


 シェ=ウィンクはしばらくジョンを見ていた。


 やがて何かを呑み込むように、深く頭を下げる。


「……承知しました」


「ああ。コスタを頼んだぞ」


 蹄音はもう近い。


 アムルが拳を握った。


「……ジョン」


「行け」


「死ぬなよ」


 ジョンは少しだけ笑った。


「それは約束できんな」


「ジョン」


「行け!」


 怒鳴られたアムルは歯を食いしばり、それ以上は何も言わずに馬首を返した。


「全軍、急げ!」


 パドゥーラ本軍が南へ走り出す。


 それとほぼ同時に、シェ=ウィンク率いる北方師団も進路を変え、コスタ城へ向かった。


 ジョン=ブランは、二つに分かれて遠ざかっていく軍勢を見送った。


「聞いたな」


 周囲に残った兵たちが武器を構える。


「侯爵様も北方師団も忙しいらしい。なら、少しくらい時間を稼いでやろう」


 紅竜騎兵が迫ってくる。


 ジョンは剣を抜き、その切っ先を前へ向けた。


「ここから先は通すな」


 ◇


 ジョン=ブランは、よく戦った。


 紅竜騎兵の最初の突撃を受け止め、街道を塞ぎながら少しずつ後退する。追ってきた敵を狭い場所へ誘い込み、反撃してはまた下がった。


 勝つための戦いではない。


 アムルを南へ走らせ、シェ=ウィンクたちをコスタへ帰す。


 そのために一刻でも長く、紅竜騎兵をここへ引きつけておく戦いだった。


「まだだ! もう少し引きつけろ!」


 迫る槍をかわし、一騎を斬り落とす。


 横から突き出された穂先を剣で払い、そのまま相手の腕を斬った。


 だが次の瞬間、馬が悲鳴を上げた。


 ジョンの身体が宙へ投げ出され、地面を激しく転がる。


「隊長!」


「構うな!」


 痛む身体を起こし、落ちた剣を拾う。


 ジョンは周囲の兵たちへ怒鳴った。


「もう十分だ! お前たちも行け!」


「ですが――」


「ここで全員死んでどうする! コスタへ行け! シェ=ウィンクと合流しろ!」


 それでも部下たちは躊躇した。


 ジョンがもう一度怒鳴ると、ようやく一人、また一人と馬首を返していく。


 その姿を見届けてから、ジョンは迫ってくる紅竜騎兵へ向き直った。


 ふと、ずいぶん昔のことを思い出した。


 ハイトが焼かれた日。


 山の中へ逃げ込んできた子供たちがいた。


 モンドの息子と、その傍らにいた銀髪の少女。


 二人とも泥と煤に汚れ、疲れ果てていた。


 それでも、生きようとしていた。


 しばらく山で面倒を見て、やがてリブロフへ送り出した。


 その時は、それで二人との縁も終わりだと思っていた。


 ジョンはすでに、リービッヒという国に何の期待も持っていなかった。


 貴族にも。


 政治にも。


 誰かが世の中を良くするなどという話にも、とっくに愛想を尽かしていた。


 だからセレスの山中で、山賊まがいに生きていればそれでよかった。


 ところが南北戦争が終わったあと、あの少年がまた戻ってきた。


 少し大人になっていた。


 それでも妙なところは昔のままだった。


 目を輝かせながら、新しいパドゥーラを作りたいと言った。


 誰でも飯が食えて。


 働けば暮らしていけて。


 戦争なんかしなくても生きていける町にしたい。


 そのために、自分の力を貸してほしいと。


 馬鹿な話だと思った。


 そんなものが簡単に作れるはずがない。


 世の中がそんなに都合よくできていないことくらい、ジョンは嫌というほど知っていた。


 それでも。


 あの時のアムルの目を、少しだけ信じてみようと思った。


 だから山を下りた。


 北の村々を回って盗賊を追い、揉め事を収めた。


 レミーラ軍が来れば山中を駆け回り、遊撃部隊を率いて何度もその後方を襲った。


 そうしているうちに。


 いつの間にか、自分もパドゥーラの人間になっていた。


「……まったく」


 ジョンは小さく笑った。


 紅竜騎兵が再び迫ってくる。


 アムルにはパドゥーラを任せた。


 コスタにはシェ=ウィンクを向かわせた。


 自分にできることは、もう一つしかない。


 かつて何も信じなくなった自分が、最後にもう一度だけ信じてみようと思った場所。


 それを守るためなら、この命くらいくれてやろう。


「来い」


 ジョンは剣を握り直した。


 紅竜騎兵が殺到する。


 一人を斬り伏せたところで、二人目の槍が脇腹を貫いた。


 焼けるような痛みに顔を歪めながらも、ジョンは槍の柄を掴み、騎兵を馬から引きずり落とす。


 直後、背中を斬られた。


 膝が地面につく。


 それでも剣を杖にして、もう一度だけ立ち上がった。


 遠くへ目を向ける。


 アムルたちの姿は、もう見えない。


 コスタへ向かった北方師団の旗も、はるか遠く小さくなっていた。


 それでいい。


 十分だった。


 ジョン=ブランは、ほんの少しだけ笑った。


「あとは頼んだぞ」


 誰に聞かせるでもなく呟き、再び剣を構えた。


 その日、パドゥーラ北方師団長ジョン=ブランは戦死した。

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