第12話 ジョン=ブラン
エルがパドゥーラへ帰還したのは、予定していた時刻とほとんど変わらなかった。
西の砦は落としていない。
最初から、落とす必要もなかった。
ユナ=リズナー率いる都市同盟軍を西の砦へ押し込み、パドゥーラ方面へ動かさない。その目的はすでに果たしている。
ユナが砦から出てこないことを確認すると、エルは予定どおり兵を引き、パドゥーラへ戻った。
異変に気づいたのは、城へ入って間もなくのことだった。
北門が騒がしい。
兵士たちが慌ただしく走り回り、負傷者が次々と運び込まれている。さらに北からは、リービッヒ兵が続々と戻ってきていた。
だが、隊列などなかった。
兜を失った者。
槍を捨てた者。
血まみれの肩を仲間に支えられ、どうにか歩いている者。
帰還ではない。
敗走だった。
「……なに?」
エルが足を止めた。
隣にいたケントも、ただならぬ様子の北門へ目を向ける。
「北の砦を攻めていた部隊です」
「それは分かる」
エルは、次々と門をくぐってくる敗残兵を見た。
「なんで逃げてるの?」
誰も答えられなかった。
そこへ一騎の伝令が駆け込んでくる。
馬から転げ落ちるように降りると、そのままエルの前まで走ってきた。
「申し上げます! 北の砦攻略軍、敵の攻撃を受け潰走しております!」
「敵?」
「パドゥーラ軍本隊です!」
ケントが目を見開いた。
エルは何も言わなかった。
「パドゥーラ侯率いる本隊が回廊より出現! 我が軍後方へ攻撃を開始しました! さらに北の砦守備隊も出撃し、我が軍は前後から挟撃を受けております!」
「……そう」
エルは、それだけ答えた。
◇
――八日前。
ライプニッツ北方。
ライプニッツの森林地帯が終わり、コスタ平原へと開けていく一帯で、パドゥーラ軍とレミーラ軍が睨み合っていた。
アムル率いるパドゥーラ本軍に加え、ライプニッツとコスタ方面の守備を担う北方師団も、この戦線へ展開している。
その北方師団を率いるのが、第三次コスタ会戦末期にコスタ城を奪い返したジョン=ブランだった。
対するのは、ハイファ率いる紅竜騎兵。
ただし、両軍の間で大規模な戦闘が起きているわけではなかった。数十騎、多くても数百騎程度の部隊が斥候として動き、街道や水場を巡って小さな衝突を繰り返している。
その小さな戦いで、パドゥーラ軍は負け続けていた。
「またか」
ロックが顔をしかめた。
前方から五人の負傷兵が運ばれてくる。その後ろからさらに三人が歩いてきたが、いずれも鎧や衣服へ血を滲ませていた。
「こっちは?」
「二人、帰ってきてません」
報告した兵士が悔しそうに答えた。
「敵は?」
「分かりません。追おうとしたんですが、すぐ引かれて……」
「もういい。下がって休め」
「はい」
兵士を下がらせると、ロックは隣にいるエヴァンスを見た。
「なあ」
「言うな」
「まだ何も言ってねえぞ」
「言いたいことは分かる」
二人の視線の先には、地図を前にしたアムルがいた。
地図を見ている時間が長い。
以前なら、とうに次の命令が出ている。
「右手に敵騎兵、再び確認! 数およそ三百!」
報告を受けたアムルが顔を上げた。
「さっきの部隊か?」
「旗は同じです」
「後ろに別の部隊は?」
「確認できません」
「左はどうだ」
「変化ありません」
アムルはもう一度、地図へ目を落とした。
右へ兵を出せば、敵はまた引くかもしれない。
だが放置すれば、そのまま側面を突かれる可能性もある。
そもそも、見えている三百だけが敵のすべてとは限らない。
「アムル様?」
「……右の部隊を前へ。深追いはするな」
「はっ!」
命令が伝わり、部隊が動き始める。
ところがしばらくして、別の斥候が駆け込んできた。
「敵騎兵、右手よりさらに迂回!」
「数は?」
「同じく三百ほど!」
「同じ部隊か?」
「分かりません!」
アムルは答えなかった。
ほんの数秒。
だが、戦場ではその数秒が長い。
「右を一度下げろ。敵を引きつけてから――いや、待て。中央から二百を回せ」
「はっ!」
命令が伝わった時には、紅竜騎兵はすでに離脱を始めていた。
追えば罠かもしれない。
かといって追わなければ、また同じことをされる。
結局、何も得られないまま、数人の負傷者だけが残った。
ロックが小さく息を吐く。
「……間違ってるわけじゃねえんだよな」
「ああ」
エヴァンスも否定しなかった。
敵を警戒する。
伏兵を疑う。
兵を無駄に失わないよう慎重に動く。
一つ一つの判断は間違っていない。
ただ、遅い。
以前のアムルなら、一つ目の報告を聞いた時点で敵の狙いをある程度まで絞り、すでに次の手を打っていた。
ところが今は、一つの可能性を考えた直後に別の可能性が浮かぶのか、最後の一手を決め切れない。そして紅竜騎兵は、そのわずかな遅れを見逃さなかった。
「三年前ならな」
ロックが呟く。
「やめろ」
エヴァンスが遮った。
「分かってるよ」
ロックも、それ以上は言わなかった。
アムルの様子がおかしいことなど、近くにいた人間なら誰にでも分かっていた。
判断が遅くなった。
遊び心も消えた。
エルがいなくなってから、アムルは平静を装い、以前にも増して真面目に政務へ取り組んでいる。
それ自体が悪いわけではない。
だがロックたちには、周囲が求める『パドゥーラ侯』を演じ続けることで、心に空いた穴を埋めようとしているようにしか見えなかった。
政務では、その真面目さによって隠されてきた。
だが、瞬間ごとの決断を求められる戦場では隠しきれない。
その時、平原の向こうから角笛が鳴った。
「敵軍、動きます!」
紅竜騎兵だった。
これまでの小競り合いとは違う。前列が一斉に動き始め、地面を震わせる蹄音が徐々に大きくなってくる。
「来るぞ!」
兵士たちが武器を構えた。
その直後。
後方から一騎の伝令が駆け込んできた。
「伝令! パドゥーラより急報!」
アムルが振り返る。
「何があった」
「リービッヒ軍がパドゥーラへ侵攻! ティーエ様は北の砦まで撤退し、その北の砦が現在包囲されています! さらに敵軍の一部がパドゥーラ城へ侵入!」
周囲がざわついた。
「誰が率いてる」
「分かりません。ただ――」
伝令は荒い息を整えた。
「紅い疾風の旗を掲げているとのことです」
アムルが黙った。
紅い疾風。
ドゥットゥカース家の旗。
だが、モンドではない。
「……エル?」
どうしてエルがパドゥーラにいる。
兵を率いて、自分たちの町へ攻め込んできた。
なぜなのか。
何のためなのか。
それを知った自分が、どうすればいいのか。
何一つ整理できなかった。
ただ、エルが来た。
それだけだった。
「アムル!」
エヴァンスの声に、アムルは顔を上げた。
紅竜騎兵はすでに攻勢へ移っている。
エルのことは分からない。
今考えたところで、答えが出るとも思えない。
だが一つだけ、分かっていることがある。
北の砦には、ティーエたちがいる。
「撤退する」
ロックが振り返った。
「ライプニッツか?」
「ああ。そこから回廊へ入って、北の砦へ戻る」
「分かった」
「全軍撤退! ライプニッツまで下がる!」
命令が飛び、兵たちが一斉に動き始めた。
◇
「俺が殿をやる」
レミーラ軍が迫るなか、アムルは馬首を返そうとする。
何を言っている。
ロックが止めようとした、その時だった。
「駄目だ」
横にいたジョン=ブランが前へ出る。
「ジョン」
「ここは私が残る」
「相手は紅竜騎兵だぞ」
「見れば分かる」
「撤退戦なら俺がやった方が――」
言い終わるより先に、ジョンの拳が飛んだ。
「……っ!」
まともに頬を殴られ、アムルの身体がよろめく。
ロックもエヴァンスも、一瞬だけ言葉を失った。
「何を!」
「守るべきものを違えるな」
ジョンの声は低かった。
「……何?」
「お前が守るのはここじゃない。パドゥーラだ」
ジョンは南を指した。
「北の砦にはティーエたちがいる。そこが抜かれれば、パドゥーラに戻るすべを失う」
「分かってる。だから早く敵を止めて――」
「分かってないから殴ったんだ」
ジョンは吐き捨てるように言った。
「お前がパドゥーラに戻らずして、誰が戻る」
「しかし、殿は危険だ」
「何を言っている。だからお前にはやらせられん」
「でも……」
「お前がおかしいことは、なんとなく気づいていた。だから言わせてもらう」
ジョンはアムルをまっすぐ見た。
「お前は戻れ」
「……」
「私はお前のためにパドゥーラへ来たんじゃない」
迫ってくる紅竜騎兵へ目をやる。
「お前が作ろうとした町に、少しばかり希望を持った。それだけだ」
ジョンは続けた。
「北で盗賊を追い払って、村を立て直して、レミーラとも散々やり合った。今さら、こんなところで全部潰されてたまるか」
「ジョン……」
「だから行け」
「でも――」
「アムル」
ジョンが睨んだ。
「もう一発いるか?」
「……いらない」
「なら行け」
それからジョンは、北方師団の副将へ視線を移した。
「シェ=ウィンク」
「はい」
「北方師団はお前に任せる。コスタ城へ戻って、守りを固めろ」
「パドゥーラへは?」
「行く必要はない。そっちはアムルの仕事だ」
ジョンは北の平原を見る。
「こちらが退けばレミーラは動く。コスタまで抜かれたら、北方師団がここにいる意味がない」
「……将軍は?」
「私はここに残る」
「ですが――」
「師団まで道連れにする気はない。残りは全部連れていけ」
シェ=ウィンクはしばらくジョンを見ていた。
やがて何かを呑み込むように、深く頭を下げる。
「……承知しました」
「ああ。コスタを頼んだぞ」
蹄音はもう近い。
アムルが拳を握った。
「……ジョン」
「行け」
「死ぬなよ」
ジョンは少しだけ笑った。
「それは約束できんな」
「ジョン」
「行け!」
怒鳴られたアムルは歯を食いしばり、それ以上は何も言わずに馬首を返した。
「全軍、急げ!」
パドゥーラ本軍が南へ走り出す。
それとほぼ同時に、シェ=ウィンク率いる北方師団も進路を変え、コスタ城へ向かった。
ジョン=ブランは、二つに分かれて遠ざかっていく軍勢を見送った。
「聞いたな」
周囲に残った兵たちが武器を構える。
「侯爵様も北方師団も忙しいらしい。なら、少しくらい時間を稼いでやろう」
紅竜騎兵が迫ってくる。
ジョンは剣を抜き、その切っ先を前へ向けた。
「ここから先は通すな」
◇
ジョン=ブランは、よく戦った。
紅竜騎兵の最初の突撃を受け止め、街道を塞ぎながら少しずつ後退する。追ってきた敵を狭い場所へ誘い込み、反撃してはまた下がった。
勝つための戦いではない。
アムルを南へ走らせ、シェ=ウィンクたちをコスタへ帰す。
そのために一刻でも長く、紅竜騎兵をここへ引きつけておく戦いだった。
「まだだ! もう少し引きつけろ!」
迫る槍をかわし、一騎を斬り落とす。
横から突き出された穂先を剣で払い、そのまま相手の腕を斬った。
だが次の瞬間、馬が悲鳴を上げた。
ジョンの身体が宙へ投げ出され、地面を激しく転がる。
「隊長!」
「構うな!」
痛む身体を起こし、落ちた剣を拾う。
ジョンは周囲の兵たちへ怒鳴った。
「もう十分だ! お前たちも行け!」
「ですが――」
「ここで全員死んでどうする! コスタへ行け! シェ=ウィンクと合流しろ!」
それでも部下たちは躊躇した。
ジョンがもう一度怒鳴ると、ようやく一人、また一人と馬首を返していく。
その姿を見届けてから、ジョンは迫ってくる紅竜騎兵へ向き直った。
ふと、ずいぶん昔のことを思い出した。
ハイトが焼かれた日。
山の中へ逃げ込んできた子供たちがいた。
モンドの息子と、その傍らにいた銀髪の少女。
二人とも泥と煤に汚れ、疲れ果てていた。
それでも、生きようとしていた。
しばらく山で面倒を見て、やがてリブロフへ送り出した。
その時は、それで二人との縁も終わりだと思っていた。
ジョンはすでに、リービッヒという国に何の期待も持っていなかった。
貴族にも。
政治にも。
誰かが世の中を良くするなどという話にも、とっくに愛想を尽かしていた。
だからセレスの山中で、山賊まがいに生きていればそれでよかった。
ところが南北戦争が終わったあと、あの少年がまた戻ってきた。
少し大人になっていた。
それでも妙なところは昔のままだった。
目を輝かせながら、新しいパドゥーラを作りたいと言った。
誰でも飯が食えて。
働けば暮らしていけて。
戦争なんかしなくても生きていける町にしたい。
そのために、自分の力を貸してほしいと。
馬鹿な話だと思った。
そんなものが簡単に作れるはずがない。
世の中がそんなに都合よくできていないことくらい、ジョンは嫌というほど知っていた。
それでも。
あの時のアムルの目を、少しだけ信じてみようと思った。
だから山を下りた。
北の村々を回って盗賊を追い、揉め事を収めた。
レミーラ軍が来れば山中を駆け回り、遊撃部隊を率いて何度もその後方を襲った。
そうしているうちに。
いつの間にか、自分もパドゥーラの人間になっていた。
「……まったく」
ジョンは小さく笑った。
紅竜騎兵が再び迫ってくる。
アムルにはパドゥーラを任せた。
コスタにはシェ=ウィンクを向かわせた。
自分にできることは、もう一つしかない。
かつて何も信じなくなった自分が、最後にもう一度だけ信じてみようと思った場所。
それを守るためなら、この命くらいくれてやろう。
「来い」
ジョンは剣を握り直した。
紅竜騎兵が殺到する。
一人を斬り伏せたところで、二人目の槍が脇腹を貫いた。
焼けるような痛みに顔を歪めながらも、ジョンは槍の柄を掴み、騎兵を馬から引きずり落とす。
直後、背中を斬られた。
膝が地面につく。
それでも剣を杖にして、もう一度だけ立ち上がった。
遠くへ目を向ける。
アムルたちの姿は、もう見えない。
コスタへ向かった北方師団の旗も、はるか遠く小さくなっていた。
それでいい。
十分だった。
ジョン=ブランは、ほんの少しだけ笑った。
「あとは頼んだぞ」
誰に聞かせるでもなく呟き、再び剣を構えた。
その日、パドゥーラ北方師団長ジョン=ブランは戦死した。




