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アーネム戦記  作者: Tanu1016
第四章 変転

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第3話 ライプニッツ事件(後)

「トーマ……」


 オーウェン=フランツベルクは、返事のない息子の名を呼んだ。


 白布の下から覗く顔は、ひどく青ざめていた。


 いつもならば父親を前にしても不満そうに口を尖らせ、何かにつけて言い訳を並べる男だった。


 叱れば反発する。


 諭しても聞き流す。


 少し目を離せば、また余計なことをする。


 出来のいい息子だったとは、到底言えない。


「……馬鹿者が」


 震える手で、オーウェンは白布を握った。


「何度……何度、言えば分かったのだ……」


 返事はない。


 分かっていた。


 どうしようもない奴だった。


 ライプニッツを任せてからも問題ばかり起こした。パドゥーラとの関係を悪化させ、父親である自分の顔に泥を塗ったことも一度や二度ではない。


 それでも。


「こんな……」


 オーウェンの声が震えた。


「こんな死に方をするほどのことを、あいつがしたというのか……!」


 拳が床を叩いた。


「トーマ……!」


 ミュルス大公でもなければ、南部諸侯を束ねる大貴族でもない。


 そこにいたのは、息子を失った一人の父親だった。


     ◇


 事の始まりは、その数日前。


 276年10月6日。


 ライプニッツで起きた住民の蜂起だった。


「領主館へ向かえ!」


「トーマを引きずり出せ!」


 通りを埋め尽くした人々の怒号が、市街を揺らしていた。


 最初は小さな騒ぎだった。


 パドゥーラへ向かおうとした住民を兵士が止めた。


 それに家族が抗議した。


 そこへ近隣の住民が集まった。


 さらに商人や職人まで加わった。


 気がつけば、数百。


 やがて数千。


 農具を握る者がいた。


 棒を持つ者がいた。


 倉庫から持ち出された古い槍を手にする者まで現れた。


 兵士たちも必死だった。


 彼らとて好きで住民に槍を向けているわけではない。


 だが、命令は命令だった。


「下がれ!」


「これ以上近づけば反逆とみなすぞ!」


「ふざけるな!」


「俺たちは出ていきたいだけだ!」


「パドゥーラへ行かせろ!」


 一つの石が飛んだ。


 兵士の兜に当たった。


 次の瞬間、別の場所で悲鳴が上がった。


 誰が最初に手を出したのか。


 もはや誰にも分からなかった。


 押された兵士が槍を振るい、住民が倒れる。


 それを見た群衆が激昂する。


 兵士が殴り倒される。


 矢が飛ぶ。


 血が流れる。


 騒乱は、一気に反乱へと姿を変えた。


     ◇


 その数日前。


 まだライプニッツで血が流れる前の、パドゥーラ。


「ライプニッツから救援要請?」


 パドゥーラ城。


 アムルは届けられた書状から顔を上げた。


「はい」


 報告に来た役人が青ざめた顔で答える。


「住民と領主軍が市街で睨み合っております。このままではいずれ争乱になる可能性が高いと。また、ライプニッツの住民代表を名乗る者たちからも、パドゥーラ侯に仲裁を求める使者が到着しております」


「規模は?」


「分かりません。ただ……領主館周辺まで騒乱が広がっていると」


「……」


 アムルは机上の地図へ目を落とした。


 エルがすぐ隣から書状を覗き込む。


「アム、すぐに行かないと」


「お待ちください」


 ホウアンだった。


 冷たい声だった。


「侯には関係ないこととするべきです」


 エルが顔を上げた。


「関係ないって何……」


「ライプニッツは我が領ではありません」


 ホウアンは淡々と続ける。


「侯はすでにライプニッツを返還なさいました。そこで領主と住民が争おうと、それはライプニッツ内の問題です」


「でも、これから大規模な衝突が始まる可能性が高いよ」


「承知しております」


「ライプニッツの住民も、リービッヒの兵士も、このまま放っておけばたくさん死ぬかもしれない」


「では、リブロフから兵が来るまでお待ちになればよろしい」


「そんな悠長なこと言ってる暇ないって言ってるの!」


 エルが即座に言い返した。


「リブロフに報せが届いて、兵を集めて、ライプニッツまで来るのに何日かかると思ってるの?」


「何日かかろうと同じことです」


「同じじゃないよ! その間に住民も兵士もたくさん犠牲になるかもしれない」


 ホウアンは表情を変えなかった。


「そこで仮に死ぬ者が百人であろうと千人であろうと、パドゥーラ侯が軍を率いてリービッヒ領へ入ることの意味は変わりません」


「ホウアン」


 アムルが止めた。


 ホウアンが口を閉じる。


 しばらくアムルは地図を見ていた。


 ライプニッツは、すでに自分の領地ではない。


 それは分かっている。


 軍を率いて入れば、何を言われるかも分かっている。


 それでも、目の前で起ころうとしている殺し合いを、ただ待って見ているという選択はできなかった。


 やがて顔を上げる。


「ライプニッツの救援に入る」


「アム」


 エルが振り向いた。


「俺とエヴァンスの部隊で出る。ロック、グランワルドは後詰め。エル、ティーエは物資を整えて」


「分かった」


「ボクもすぐに準備するよ」


 ティーエが立ち上がった。


「食料と医薬品を優先する。負傷者が多いなら、こっちへ運び込むことも考えたほうがいいね」


「ああ。頼む」


 ホウアンだけは何も言わなかった。


「……」


 アムルは一度だけ彼を見た。


 それでも命令を撤回することはなかった。


     ◇


「なんだ、この状況は……」


 パドゥーラ軍がライプニッツへ到着したとき、街の混乱はすでに頂点に達していた。


 煙が上がっている。


 ところどころで火の手も見える。


 道端には負傷者が横たわり、住民と兵士が入り乱れていた。


「急げ! 怪我人を運べ!」


 アムルが馬上から叫ぶ。


「住民だろうが兵士だろうが関係ない! 生きてる奴から助けろ!」


 兵士たちが散っていく。


 エヴァンスが馬を寄せた。


「領主軍の一部はすでに統制を失っているようだ」


「住民側は?」


「同じだ。もはや誰が指揮しているのか分からん」


「最悪だな」


 アムルは舌打ちした。


 そのときだった。


「あ……」


 一人の住民がアムルに気づいた。


「アムル様だ!」


 声が広がった。


「アムル様が来たぞ!」


「パドゥーラ侯だ!」


 あちこちから人々が集まってくる。


「助かった!」


「これでもう大丈夫だ!」


「アムル様!」


 歓声が沸き起こった。


 アムルの顔が曇る。


「歓声なんか上げてる場合じゃないだろ」


 聞こえるように吐き捨てると、一番近くにいた男へ尋ねた。


「トーマは?」


「領主館です!」


「無事なんだな?」


「はい。まだ領主館にいるはずです!」


 アムルはすぐにエヴァンスを見る。


「行くぞ」


「ああ」


「早く行って住民たちを説得しないと」


 二人は馬を走らせた。


 道を塞ぐ住民たちが、アムルの姿を見るなり左右へ分かれていく。


「道を開けろ!」


「アムル様を通せ!」


「侯爵様が来てくださったぞ!」


「違う!」


 アムルが叫んだ。


「俺はトーマを倒しに来たんじゃない! 武器を捨てろ!」


 だが、興奮した群衆すべてには届かない。


 領主館が見えてきた。


 その前を、黒山のような人々が取り囲んでいる。


「どけ!」


 アムルは馬から飛び降りた。


「道を開けろ!」


 人々を掻き分けて進む。


「アムル様!」


「来てくださった!」


「これで俺たちは――」


「後にしろ!」


 あと少し。


 領主館の門まで、もう百歩もない。


 そのときだった。


「やったぞ!」


 ひときわ大きな声が響いた。


 アムルの足が止まった。


 領主館の中から、男たちが飛び出してくる。


 その顔は歓喜に満ちていた。


「トーマを打ち取ったぞ!」


 爆発したような歓声が上がった。


「おおおおおおっ!」


「やったぞ!」


「これで自由だ!」


「ライプニッツは救われた!」


 アムルの顔から血の気が引いた。


「……何?」


 人々が領主館へ殺到していく。


 そして誰かが叫んだ。


「アムル様万歳!」


 別の誰かが続いた。


「パドゥーラ万歳!」


 歓声が連鎖する。


「アムル様万歳!」


「パドゥーラ万歳!」


「アムル様!」


「アムル様!」


 エヴァンスが無言でアムルを見る。


 アムルも彼を見た。


 街にはパドゥーラ軍がいる。


 住民たちはアムルを歓呼している。


 その中心で、ミュルス大公オーウェン=フランツベルクの息子が殺された。


 アムルは額を押さえた。


「……マズい」


     ◇


 そして今。


 ライプニッツから運ばれてきた息子の亡骸を前に、オーウェンは長い間動かなかった。


 部屋にはガレス、イーワン、パウロ、ギースらフランツベルク家の者たちが集まっていた。


 誰も口を開こうとはしない。


 やがてオーウェンが立ち上がった。


 目は赤く腫れていた。


「……アムルは」


 低い声だった。


「アムル=ドゥットゥカースは、何をしていた」


「パドゥーラ軍を率いてライプニッツへ侵入しました」


 報告役の男が答える。


「兵力は?」


「先行したのはアムル侯直属とエヴァンス隊。後方にも部隊が控えていたとのことです」


「トーマが死んだのは」


「パドゥーラ軍到着後です」


 オーウェンの拳が震えた。


「……奴が殺したのか?」


「いえ」


 そこだけは、報告役も明確に否定した。


「トーマ様を直接殺害したのは、領主館へ乱入したライプニッツの住民たちです。アムル侯が殺害を命じたという証拠はございません」


 沈黙。


「むしろアムル侯は、騒乱を止めるため領主館へ向かっていたとの証言もあります」


「ならば!」


 イーワンが声を荒らげた。


「奴には何の責任もないと言うつもりか!」


「そうは申しておりません」


 報告役は頭を下げた。


「パドゥーラ軍がライプニッツへ入ったことは事実。また、住民たちがパドゥーラ侯を歓迎していたことも事実です」


 ガレスが鼻を鳴らした。


「十分ではないか」


「ガレス」


「親父殿。奴に責任を取らせんとフランツベルクの名が廃る」


 イーワンも立ち上がった。


「俺も同じです。親父殿がなんと言われようと、俺は奴を許さん」


「……」


 オーウェンは答えなかった。


 ギースが静かに尋ねた。


「モンドはどうする?」


 その名が出た瞬間、部屋の空気が変わった。


 モンド=ドゥットゥカース。


 南北戦争以来、リービッヒを支えてきた将軍。


 そしてアムルの養父。


「アムルだけの問題にはできんだろう」


 ギースは続けた。


「奴はモンドの息子だ」


「そもそも奴にも責任がある」


 ガレスが吐き捨てる。


「あの小僧を拾い、育て、好き勝手をさせたのは誰だ。パドゥーラがここまで増長したのも、奴が庇い続けたからではないか」


「……」


 オーウェンは目を閉じた。


 脳裏に、幼い頃のトーマが浮かんだ。


 いつから、あの息子とうまく話せなくなったのだろう。


 いつから叱ることばかりになったのだろう。


 もっと違う言い方があったのではないか。


 もっと早くライプニッツから呼び戻していれば。


 だが、もう遅い。


 トーマは死んだ。


 そしてライプニッツには、パドゥーラの軍旗が入った。


 オーウェンはゆっくりと目を開いた。


 もう、その顔に涙はなかった。


「……召還令を出せ」


 ガレスが顔を上げる。


「アムル=ドゥットゥカースを、リブロフへ召還する」


 そして、わずかな間を置いた。


「モンドにも出頭を命じろ」


 誰も異を唱えなかった。


「パウロ」


 不意にガレスが呼んだ。


「……はい」


 それまで黙っていたパウロが顔を上げる。


「お前はラレドへ戻れ」


「ラレドへ?」


「兵を集めろ。ラレド方面を固めておけ」


 パウロは答えなかった。


 何に備えて兵を集めろと言っているのか。


 聞くまでもなかった。


「……ガレス兄上」


「お前もフランツベルクなら分かっているな」


 言葉を遮るように、ガレスが告げた。


「……」


 パウロは拳を握った。


 アムルがトーマを殺したとは思っていない。


 あの男が住民を扇動して、ライプニッツを奪おうとしたとも思っていない。


 第三次コスタ戦役以来、何度も言葉を交わしてきた。


 だからこそ分かる。


 そんなことをする男ではない。


 だが。


 白布の下には、トーマがいる。


 出来の悪い男だった。


 パウロ自身、何度呆れたか分からない。


 それでも血を分けた一族だった。


 そして自分もまた、フランツベルクだった。


「……承知しました」


 それだけを答えた。


 ガレスも、それ以上は何も言わなかった。


 オーウェンはもう一度だけ、白布に覆われた息子を見た。


「……必ず、責任を取らせる」


 その日。


 リブロフからパドゥーラへ、一通の召還令が発せられた。


 そしてラレドでは、パウロ=フランツベルクが兵を集め始めた。

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