第3話 ライプニッツ事件(後)
「トーマ……」
オーウェン=フランツベルクは、返事のない息子の名を呼んだ。
白布の下から覗く顔は、ひどく青ざめていた。
いつもならば父親を前にしても不満そうに口を尖らせ、何かにつけて言い訳を並べる男だった。
叱れば反発する。
諭しても聞き流す。
少し目を離せば、また余計なことをする。
出来のいい息子だったとは、到底言えない。
「……馬鹿者が」
震える手で、オーウェンは白布を握った。
「何度……何度、言えば分かったのだ……」
返事はない。
分かっていた。
どうしようもない奴だった。
ライプニッツを任せてからも問題ばかり起こした。パドゥーラとの関係を悪化させ、父親である自分の顔に泥を塗ったことも一度や二度ではない。
それでも。
「こんな……」
オーウェンの声が震えた。
「こんな死に方をするほどのことを、あいつがしたというのか……!」
拳が床を叩いた。
「トーマ……!」
ミュルス大公でもなければ、南部諸侯を束ねる大貴族でもない。
そこにいたのは、息子を失った一人の父親だった。
◇
事の始まりは、その数日前。
276年10月6日。
ライプニッツで起きた住民の蜂起だった。
「領主館へ向かえ!」
「トーマを引きずり出せ!」
通りを埋め尽くした人々の怒号が、市街を揺らしていた。
最初は小さな騒ぎだった。
パドゥーラへ向かおうとした住民を兵士が止めた。
それに家族が抗議した。
そこへ近隣の住民が集まった。
さらに商人や職人まで加わった。
気がつけば、数百。
やがて数千。
農具を握る者がいた。
棒を持つ者がいた。
倉庫から持ち出された古い槍を手にする者まで現れた。
兵士たちも必死だった。
彼らとて好きで住民に槍を向けているわけではない。
だが、命令は命令だった。
「下がれ!」
「これ以上近づけば反逆とみなすぞ!」
「ふざけるな!」
「俺たちは出ていきたいだけだ!」
「パドゥーラへ行かせろ!」
一つの石が飛んだ。
兵士の兜に当たった。
次の瞬間、別の場所で悲鳴が上がった。
誰が最初に手を出したのか。
もはや誰にも分からなかった。
押された兵士が槍を振るい、住民が倒れる。
それを見た群衆が激昂する。
兵士が殴り倒される。
矢が飛ぶ。
血が流れる。
騒乱は、一気に反乱へと姿を変えた。
◇
その数日前。
まだライプニッツで血が流れる前の、パドゥーラ。
「ライプニッツから救援要請?」
パドゥーラ城。
アムルは届けられた書状から顔を上げた。
「はい」
報告に来た役人が青ざめた顔で答える。
「住民と領主軍が市街で睨み合っております。このままではいずれ争乱になる可能性が高いと。また、ライプニッツの住民代表を名乗る者たちからも、パドゥーラ侯に仲裁を求める使者が到着しております」
「規模は?」
「分かりません。ただ……領主館周辺まで騒乱が広がっていると」
「……」
アムルは机上の地図へ目を落とした。
エルがすぐ隣から書状を覗き込む。
「アム、すぐに行かないと」
「お待ちください」
ホウアンだった。
冷たい声だった。
「侯には関係ないこととするべきです」
エルが顔を上げた。
「関係ないって何……」
「ライプニッツは我が領ではありません」
ホウアンは淡々と続ける。
「侯はすでにライプニッツを返還なさいました。そこで領主と住民が争おうと、それはライプニッツ内の問題です」
「でも、これから大規模な衝突が始まる可能性が高いよ」
「承知しております」
「ライプニッツの住民も、リービッヒの兵士も、このまま放っておけばたくさん死ぬかもしれない」
「では、リブロフから兵が来るまでお待ちになればよろしい」
「そんな悠長なこと言ってる暇ないって言ってるの!」
エルが即座に言い返した。
「リブロフに報せが届いて、兵を集めて、ライプニッツまで来るのに何日かかると思ってるの?」
「何日かかろうと同じことです」
「同じじゃないよ! その間に住民も兵士もたくさん犠牲になるかもしれない」
ホウアンは表情を変えなかった。
「そこで仮に死ぬ者が百人であろうと千人であろうと、パドゥーラ侯が軍を率いてリービッヒ領へ入ることの意味は変わりません」
「ホウアン」
アムルが止めた。
ホウアンが口を閉じる。
しばらくアムルは地図を見ていた。
ライプニッツは、すでに自分の領地ではない。
それは分かっている。
軍を率いて入れば、何を言われるかも分かっている。
それでも、目の前で起ころうとしている殺し合いを、ただ待って見ているという選択はできなかった。
やがて顔を上げる。
「ライプニッツの救援に入る」
「アム」
エルが振り向いた。
「俺とエヴァンスの部隊で出る。ロック、グランワルドは後詰め。エル、ティーエは物資を整えて」
「分かった」
「ボクもすぐに準備するよ」
ティーエが立ち上がった。
「食料と医薬品を優先する。負傷者が多いなら、こっちへ運び込むことも考えたほうがいいね」
「ああ。頼む」
ホウアンだけは何も言わなかった。
「……」
アムルは一度だけ彼を見た。
それでも命令を撤回することはなかった。
◇
「なんだ、この状況は……」
パドゥーラ軍がライプニッツへ到着したとき、街の混乱はすでに頂点に達していた。
煙が上がっている。
ところどころで火の手も見える。
道端には負傷者が横たわり、住民と兵士が入り乱れていた。
「急げ! 怪我人を運べ!」
アムルが馬上から叫ぶ。
「住民だろうが兵士だろうが関係ない! 生きてる奴から助けろ!」
兵士たちが散っていく。
エヴァンスが馬を寄せた。
「領主軍の一部はすでに統制を失っているようだ」
「住民側は?」
「同じだ。もはや誰が指揮しているのか分からん」
「最悪だな」
アムルは舌打ちした。
そのときだった。
「あ……」
一人の住民がアムルに気づいた。
「アムル様だ!」
声が広がった。
「アムル様が来たぞ!」
「パドゥーラ侯だ!」
あちこちから人々が集まってくる。
「助かった!」
「これでもう大丈夫だ!」
「アムル様!」
歓声が沸き起こった。
アムルの顔が曇る。
「歓声なんか上げてる場合じゃないだろ」
聞こえるように吐き捨てると、一番近くにいた男へ尋ねた。
「トーマは?」
「領主館です!」
「無事なんだな?」
「はい。まだ領主館にいるはずです!」
アムルはすぐにエヴァンスを見る。
「行くぞ」
「ああ」
「早く行って住民たちを説得しないと」
二人は馬を走らせた。
道を塞ぐ住民たちが、アムルの姿を見るなり左右へ分かれていく。
「道を開けろ!」
「アムル様を通せ!」
「侯爵様が来てくださったぞ!」
「違う!」
アムルが叫んだ。
「俺はトーマを倒しに来たんじゃない! 武器を捨てろ!」
だが、興奮した群衆すべてには届かない。
領主館が見えてきた。
その前を、黒山のような人々が取り囲んでいる。
「どけ!」
アムルは馬から飛び降りた。
「道を開けろ!」
人々を掻き分けて進む。
「アムル様!」
「来てくださった!」
「これで俺たちは――」
「後にしろ!」
あと少し。
領主館の門まで、もう百歩もない。
そのときだった。
「やったぞ!」
ひときわ大きな声が響いた。
アムルの足が止まった。
領主館の中から、男たちが飛び出してくる。
その顔は歓喜に満ちていた。
「トーマを打ち取ったぞ!」
爆発したような歓声が上がった。
「おおおおおおっ!」
「やったぞ!」
「これで自由だ!」
「ライプニッツは救われた!」
アムルの顔から血の気が引いた。
「……何?」
人々が領主館へ殺到していく。
そして誰かが叫んだ。
「アムル様万歳!」
別の誰かが続いた。
「パドゥーラ万歳!」
歓声が連鎖する。
「アムル様万歳!」
「パドゥーラ万歳!」
「アムル様!」
「アムル様!」
エヴァンスが無言でアムルを見る。
アムルも彼を見た。
街にはパドゥーラ軍がいる。
住民たちはアムルを歓呼している。
その中心で、ミュルス大公オーウェン=フランツベルクの息子が殺された。
アムルは額を押さえた。
「……マズい」
◇
そして今。
ライプニッツから運ばれてきた息子の亡骸を前に、オーウェンは長い間動かなかった。
部屋にはガレス、イーワン、パウロ、ギースらフランツベルク家の者たちが集まっていた。
誰も口を開こうとはしない。
やがてオーウェンが立ち上がった。
目は赤く腫れていた。
「……アムルは」
低い声だった。
「アムル=ドゥットゥカースは、何をしていた」
「パドゥーラ軍を率いてライプニッツへ侵入しました」
報告役の男が答える。
「兵力は?」
「先行したのはアムル侯直属とエヴァンス隊。後方にも部隊が控えていたとのことです」
「トーマが死んだのは」
「パドゥーラ軍到着後です」
オーウェンの拳が震えた。
「……奴が殺したのか?」
「いえ」
そこだけは、報告役も明確に否定した。
「トーマ様を直接殺害したのは、領主館へ乱入したライプニッツの住民たちです。アムル侯が殺害を命じたという証拠はございません」
沈黙。
「むしろアムル侯は、騒乱を止めるため領主館へ向かっていたとの証言もあります」
「ならば!」
イーワンが声を荒らげた。
「奴には何の責任もないと言うつもりか!」
「そうは申しておりません」
報告役は頭を下げた。
「パドゥーラ軍がライプニッツへ入ったことは事実。また、住民たちがパドゥーラ侯を歓迎していたことも事実です」
ガレスが鼻を鳴らした。
「十分ではないか」
「ガレス」
「親父殿。奴に責任を取らせんとフランツベルクの名が廃る」
イーワンも立ち上がった。
「俺も同じです。親父殿がなんと言われようと、俺は奴を許さん」
「……」
オーウェンは答えなかった。
ギースが静かに尋ねた。
「モンドはどうする?」
その名が出た瞬間、部屋の空気が変わった。
モンド=ドゥットゥカース。
南北戦争以来、リービッヒを支えてきた将軍。
そしてアムルの養父。
「アムルだけの問題にはできんだろう」
ギースは続けた。
「奴はモンドの息子だ」
「そもそも奴にも責任がある」
ガレスが吐き捨てる。
「あの小僧を拾い、育て、好き勝手をさせたのは誰だ。パドゥーラがここまで増長したのも、奴が庇い続けたからではないか」
「……」
オーウェンは目を閉じた。
脳裏に、幼い頃のトーマが浮かんだ。
いつから、あの息子とうまく話せなくなったのだろう。
いつから叱ることばかりになったのだろう。
もっと違う言い方があったのではないか。
もっと早くライプニッツから呼び戻していれば。
だが、もう遅い。
トーマは死んだ。
そしてライプニッツには、パドゥーラの軍旗が入った。
オーウェンはゆっくりと目を開いた。
もう、その顔に涙はなかった。
「……召還令を出せ」
ガレスが顔を上げる。
「アムル=ドゥットゥカースを、リブロフへ召還する」
そして、わずかな間を置いた。
「モンドにも出頭を命じろ」
誰も異を唱えなかった。
「パウロ」
不意にガレスが呼んだ。
「……はい」
それまで黙っていたパウロが顔を上げる。
「お前はラレドへ戻れ」
「ラレドへ?」
「兵を集めろ。ラレド方面を固めておけ」
パウロは答えなかった。
何に備えて兵を集めろと言っているのか。
聞くまでもなかった。
「……ガレス兄上」
「お前もフランツベルクなら分かっているな」
言葉を遮るように、ガレスが告げた。
「……」
パウロは拳を握った。
アムルがトーマを殺したとは思っていない。
あの男が住民を扇動して、ライプニッツを奪おうとしたとも思っていない。
第三次コスタ戦役以来、何度も言葉を交わしてきた。
だからこそ分かる。
そんなことをする男ではない。
だが。
白布の下には、トーマがいる。
出来の悪い男だった。
パウロ自身、何度呆れたか分からない。
それでも血を分けた一族だった。
そして自分もまた、フランツベルクだった。
「……承知しました」
それだけを答えた。
ガレスも、それ以上は何も言わなかった。
オーウェンはもう一度だけ、白布に覆われた息子を見た。
「……必ず、責任を取らせる」
その日。
リブロフからパドゥーラへ、一通の召還令が発せられた。
そしてラレドでは、パウロ=フランツベルクが兵を集め始めた。




