第8話 二人の密航者
◇
数日後。
ジャンはセイレンを発った。
まず陸路で向かうのは、セイレン領を流れるプラタ川河畔の川港レプターだった。
プラタ川はセイレンにはいった付近でレプターの滝という地形的な障壁があり、滝の上流のレプターがプラタ川上流への玄関口になっていた。
そこから船へ乗り換え、川を遡ってパドゥーラへ向かう。
今回、ジャンは一人だった。
普段ならば護衛としてハンス=ベッカーがつくことが多い。
ジャンには、武人としての才能がほとんどない。
というより、剣以前に体力からして怪しい。
六年前には少し歩いただけでへばり、地面に転がってよだれまで垂らしていた男である。
そんなジャンが各地を歩き回るようになってからは、昔から馴染みのあるハンスが護衛につくことが多かった。
だが、今回は同行させなかった。
必要がないと判断したからである。
セイレン市内の治安はリズナー家の統治の賜として安定していた。
街道を行く商人が山賊や盗賊に襲われたという話も、近頃ではほとんど聞かない。
そして商人たちの話を聞く限り、それは最近のパドゥーラも同じだった。
パドゥーラへ向かう街道も、プラタ川を行き来する船も安全だという。
アムル=ドゥットゥカースの統治が始まって以降、山賊や盗賊の類はほぼ消滅したらしい。
国交はなくとも、商人はすでに行き来している。
護衛を一人つけるためだけにハンスを連れ出す必要はない。
そう考えての一人旅だった。
数日をかけて川港へ到着すると、ジャンはパドゥーラ方面へ向かう船を探した。
心配していたほど難しくはなかった。
港には大小いくつもの船が停泊している。
上流から運ばれてきた荷を下ろす船。
反対に、パドゥーラ方面へ商品を運ぶ船。
商人たちの姿も多い。
「なるほどな……」
ジャンは港を見回した。
国交がないという言葉から想像していたほど、人の往来が途絶えているわけではない。むしろかなり人の往来がある。
政治と商売は別ということらしい。
パドゥーラへ向かう船を決め、荷物を積み込ませる。
出航までは、まだ少し時間があった。
ジャンが船着場で積み荷を眺めていると――。
「姉さん、だからもう無理だって」
「しーっ! 声が大きい!」
聞き覚えのある声がした。
ジャンの眉が動いた。
ゆっくり振り返る。
少し離れた荷物の陰から、二つの頭が覗いていた。
「……お前たち」
二人の肩が同時に跳ねた。
ユナ=リズナーが、ぎこちなく振り返る。
「あ」
その隣でリックが目を閉じた。
「だから言ったのに……」
「何をやってるんだ、お前たちは!」
「ばれちゃった」
「ばれちゃった、じゃない!」
ジャンは頭を抱えた。
「なんでここにいる!」
「ジャンがパドゥーラに行くって聞いたから」
「だからなんでついてくる!」
「行ってみたかったの」
「俺は仕事で行くんだぞ!」
「分かってるよ」
「分かってる奴は黙ってついてこない!」
ジャンは今度はリックを見る。
「リック!」
「ぼくは止めたよ」
「嘘!」
「姉さんが絶対行くって言うから!」
「最後にはリックも行きたいって言ったじゃん!」
「それは川港まで来てからだよ!」
「同じでしょ!」
「同じじゃないよ!」
「二人とも黙れ!」
二人が同時に口を閉じた。
ジャンは大きく息を吐いた。
「ユマの許可は?」
ユナが目を逸らした。
「……取った記憶がないなぁ」
「帰れ!」
「やだ」
「やだじゃない!」
「でも、ここから二人だけで帰るの?」
「それは……」
ジャンが言葉に詰まった。
ここまで数日。
二人だけで帰すこと自体、不可能ではない。
セイレン領内の治安はいい。
だが、わざわざそんなことをさせるくらいなら――。
「それに」
ユナが続けた。
「ジャン、護衛いないじゃん」
「必要ないからハンスを連れてきてないんだ」
「でも、何かあったら?」
「何もないと判断したから一人で来たんだ」
「だったら私たちが一緒でも問題ないよね?」
「話が飛んでるぞ」
「飛んでないよ」
ユナは胸を張った。
「私もリックも戦えるし」
「姉さまの言う通りだよ」
「リック、お前まで乗るな」
「むしろさ」
ユナがにっこり笑った。
「護衛が必要なの、ジャンじゃない?」
「……」
「私とリックがジャンを守ってあげる」
「誰が誰を護衛するって?」
「私たちが、ジャンを」
「二回言うな」
「だってジャン、弱いもん。すぐにへばるし、よだれは垂らすし」
「うるさい、過去の話を持ってくるな」
「私よりずっと弱いよね」
「知ってる!」
横からリックが真面目な顔で口を挟んだ。
「ぼくよりもかなり弱いと思う」
「お前は冷静に分析するな!」
「じゃあ決まりね」
「何も決まってない!」
ジャンは頭を抱えた。
だが、安全面だけを理由に二人を追い返すことは難しかった。
そもそも危険だと思っていれば、自分だってハンスを連れてきている。
ここまでの街道で治安に不安を感じることはなかった。
港には商人だけでなく、普通の旅人の姿まである。
パドゥーラ方面についても、商人から盗賊や山賊を警戒するような話は聞いていない。
そして、何より。
腹立たしいことに、ユナとリックの言っていることは事実だった。
三人の中で、何かあったときに一番役に立たないのはジャンである。
「……絶対に勝手なことをするな」
ジャンが低い声で言った。
ユナの顔がぱっと明るくなる。
「じゃあ!」
「まだ何も言ってない!」
「連れていってくれるんでしょ?」
「仕方なくだ!」
「やった!」
「俺は仕事で行くんだからな。向こうでは俺の指示に従え」
「うん!」
「リック」
「分かった」
「それから、ユナが馬鹿なことをしそうになったら止めろ」
「分かった」
「なんでリックが私の監視役なの?」
「お前が一番信用できないからだ!」
こうして。
一人で向かうはずだったジャンのパドゥーラ行きは、なぜか三人旅になった。
◇
船はゆっくりと川港を離れた。
風を受けた帆が膨らみ、船はプラタ川を遡っていく。
岸辺には畑が広がり、その向こうには低い山々が連なっている。
ユナとリックにとっても、ここから先は初めて見る土地だった。
しばらくして、ジャンが船縁から川岸を眺めていると、ユナが隣へやってきた。
「ねえ、ジャン」
「なんだ」
「カールさんとやりあったんだってね」
ジャンがちらりと横を見る。
「誰から聞いた」
「お姉さま」
「あいつ……」
「パドゥーラから麦を買うかどうかで、結構言い合ったんでしょ?」
「言い合ったというほどじゃない。意見が違っただけだ」
「ふーん」
ユナは船縁に両腕を乗せた。
「ジャン、カールさんとあんまり仲良くないよね」
「ニコス大学の奴は気に食わない。俺はニューアーク――」
「はいはい。ニューアーク大学主席」
「最後まで言わせろ」
「何回も聞いたと思ってるの?」
「ニコスよりニューアークの方が上だ」
「それも何回も聞いた」
「事実だからな」
「はいはい」
ユナがくすくす笑った。
ジャンは不満そうに鼻を鳴らし、再び川へ目を向ける。
ユナはその横顔をしばらく眺めていた。
ジャンがカールを気に入らない理由くらい、とっくに分かっている。
大学がどうこうという話だけではない。
ジャンが誰を見ているのかも知っている。
六年も一緒にいれば、それくらい分かる。
だからこそ、それを本人に指摘してやるつもりはなかった。
お姉さまとジャンは年齢も近い。
でも、お姉さまにはカールがいる。
それでいい。
「……ジャン」
「今度はなんだ?」
「なんでもない」
「なんなんだ、お前は」
ユナは笑った。
自分がどれだけ近づいても、ジャンは昔から変わらない。
十二歳の頃と同じように、教え子か妹を見るような目を向けてくる。
もう十九歳なのに。
そこだけは、少しくらい変わってくれてもいいと思う。
「ジャン」
「だからなんだ」
「パドゥーラ、どんなところかな」
「知らん。俺も初めてだ」
「商人の話だと、すごく景気がいいんでしょ?」
「らしいな」
「若い侯爵様なんだよね」
「おまえたちと同じくらいだったはずだ」
「へえ」
少し離れたところで景色を眺めていたリックも振り返った。
「ぼくもパドゥーラの話、もっと聞きたい」
「だから俺も噂しか知らないって」
三人とも、パドゥーラを訪れるのは初めてだった。
セイレンとパドゥーラには国交がない。
彼らが知っているのは、商人たちが持ち帰ってきた噂だけである。
荒廃していた土地が、急速に豊かになっている。
新しい農地が次々と拓かれている。
商人が集まり、船が増え、食料が余るほど作られている。
そして、その中心にはアムル=ドゥットゥカースという若い領主がいる。
どこまでが本当なのか。
ジャン自身、まだ半信半疑だった。




