第12話 帰還
◇
「東へ行く」
アムルの決断は早かった。
リューザスを囲んでいたレミーラ軍を打ち破った直後である。
戦場には、まだ戦いの熱が残っていた。
崩れた隊列を立て直そうとするレミーラ兵。敗走する部隊。散発的に反撃を試みる騎兵。
完全に勝負が終わったわけではない。
ここで判断を誤れば、せっかく開いた包囲網を再び閉じられる。
「東?」
ロックが聞き返した。
「ああ。チル湖の東岸を通ってパドゥーラへ帰る」
「ノースジョウじゃねえのか? 距離だけなら西岸の方が近いぞ」
「だから嫌なんだ」
アムルは即答した。
ロックが怪訝そうな顔をする。
傍らでヴァンが静かに地図へ視線を落とした。
「三か月だね」
「はい」
アムルは頷いた。
「俺たちは三か月近く、まともな情報を得ていません。ノースジョウがどうなっているのかも分からない。味方がどこまで展開しているのかも、敵がどこにいるのかも分からない」
ノースジョウへ向かう道は近い。
だが、その先に何が待っているのか分からない。
リューザスを脱出した兵たちは疲れ切っている。
ここまで連れてきた兵を、情報のない土地へ突っ込ませるつもりはなかった。
「東なら?」
エヴァンスが尋ねた。
「分かる」
アムルは地図の上、チル湖東岸を指でなぞった。
「こっちは俺たちの土地だ。パドゥーラからの支援も受けられる」
そして、回廊の位置を指さした。
「何より、エルがいる」
「……また嬢ちゃんか」
ロックが呆れたように言った。
「当然だろ?」
アムルは笑った。
「あの狼煙を上げてくれたんだ。エルなら、俺たちが帰ってくることを考えて、回廊の守りを固めているはずだよ」
「確かに、エルならそうするだろうな」
「だから、回廊まで入れば何とかなる。ノースジョウへ向かうより、ずっと確実だと思う」
ヴァンも頷いた。
「敵の動向が分からない以上、味方の支援を期待できる場所へ向かうのは妥当だね」
「でしょ?」
アムルは顔を上げた。
「全軍、パドゥーラ方面へ撤退。動ける部隊から先に行かせろ。負傷者を優先する」
「先導は誰に任せる?」
「パウロとギルフォード将軍に頼もう。回廊までの道を確保しながら、先行部隊を率いてもらう」
アムルは二人へ視線を向けた。
「先に行ってください。回廊に着いたら、エルたちに状況を伝えてほしいんです」
パウロが頷いた。
「分かった。だが、おまえはどうする?」
「俺は残ります」
「殿か?」
「はい。敵の追撃を引き受けます」
ギルフォードが険しい表情を浮かべた。
「アムル様、三か月も戦い続けたのです。これ以上、無理をなさる必要はありません」
「ありがとうございます。でも、俺の部隊が一番、こういう戦いに慣れていますから」
アムルは笑った。
「後続の兵を逃がしたら、すぐに追いかけます」
「……分かりました。必ず戻ってきてください」
「もちろんです」
パウロとギルフォードが先行部隊の指揮に向かった。
続いてアムルは、ロックとエヴァンスへ顔を向けた。
「二人も先に行け」
「大将」
「大丈夫だよ」
「またかよ。毎回お前が殿をやる必要があるのか?」
「誰かがやらなきゃならないだろ」
「だから、何でそれが毎回お前なんだ」
アムルは少しだけ笑った。
「俺が一番、逃げるのが上手いから」
「自分で言うか?」
「事実だろ?」
ロックは呆れた顔をした。
だが、否定はしなかった。
アムル旗下の軍勢は高速戦を得意とする。
進撃、展開、離脱。
そのいずれにおいても、彼の部隊の速度はリービッヒ随一と評されていた。
とりわけ撤退となれば、その能力は際立った。
戦闘に入ってしまえば別である。
だが、敵が戦闘態勢を整えるより先に離脱できる状況ならば、アムルには鉄騎兵からさえ逃げ切る自信があった。
「俺も先行部隊と一緒に行ってくる。だが、絶対に追いついてこいよ」
ロックが言った。
「分かってるよ」
「嬢ちゃんを泣かせるなよ」
「……それは困るな」
アムルは苦笑した。
「だったら、ちゃんと帰ってこい」
「ああ」
アムルは頷いた。
「追いつくから」
そう言って、アムルは再び戦場へ向き直った。
◇
パドゥーラ回廊。
リューザスから撤退してきたリービッヒ軍が、次々と回廊へ入っていた。
先頭を率いていたパウロとギルフォードは、回廊内に構築された防御陣地を見て、思わず顔を見合わせた。
柵と土塁。
弓兵を配置できる高所。
敵の進路を限定するために設けられた障害物。
いずれも、急いで作り上げたものとは思えないほど、よく整っていた。
「……準備がいいな」
パウロが呟いた。
「すでに敵が攻め込んでくることを想定していたのでしょう」
ギルフォードが答える。
そのとき、守備兵が二人へ駆け寄ってきた。
「パウロ様! ギルフォード様!」
「我々はリューザスから撤退してきた。エル様はどこにいる?」
「エル様は北の砦に本陣を置いておられます。すでに到着をお知らせしております!」
「そうか。負傷兵が多い。まずは彼らを安全な場所へ移してほしい」
「はっ!」
兵士たちが慌ただしく動き始めた。
長い撤退行軍を続けてきたリービッヒ兵たちも、回廊の奥へと誘導されていく。
その様子を確認していた二人のもとへ、やがて一人の少女が現れた。
「パウロ君!」
「エル様!」
エルだった。
その後ろには、グランワルドも従っている。
「よく無事で……」
エルはパウロたちの姿を見て、ほっとしたように微笑んだ。
だが、すぐに周囲へ視線を巡らせた。
「……アムは?」
パウロとギルフォードの顔を見比べる。
ギルフォードが答えた。
「アムル様は殿を務めております。我々を逃がすため、敵の追撃を引き受けておられます」
「……アムが?」
「はい。最後の部隊を逃がしてから撤退するとのことです」
エルの表情が強張った。
殿。
撤退する軍の最後尾に残り、敵の追撃を食い止める役目。
最も危険な任務の一つだった。
「敵の追撃は?」
「続いている。ただ、アムルが巧みに食い止めているから、我々はここまで逃げることができた」
パウロが答えた。
「しかし、敵がいつ本格的な追撃に移るかは分からない」
「……そうですか」
エルは地図を広げた。
パウロたちがここに到着したということは、アムルも同じ道を通って撤退してくるはずだった。
だが、後方には敵軍がいる。
アムルがうまく逃げ切れれば問題はない。
しかし、敵の追撃が激しくなれば、回廊の手前で戦闘になる可能性があった。
「グランワルド」
「はっ!」
「回廊出口の防御陣地を確認してください。敵の追撃に備えます」
「承知いたしました!」
「パウロ君たちの部隊は、一旦北の砦に入ってください。負傷者の救護もお願いします」
「分かった。こちらは任せてくれ」
パウロが頷いた。
ギルフォードが尋ねた。
「エル様はどうなされる?」
「私も回廊の出口へ向かいます」
「出口へ?」
「はい。アムが戻ってきたら、すぐに迎え入れられるようにしておきたいんです」
エルは地図の回廊出口を指さした。
「敵が追ってくるなら、ここで迎え撃ちます。回廊に入ってしまえば、敵の騎兵も自由には動けません」
グランワルドが頷いた。
「左様。陣地はすでに完成しております。敵が押し寄せても、十分に迎撃できましょう」
「でも、アムたちの退路は塞がないで。味方が通過するまでは、中央の道を開けておきます」
「承知!」
「敵が追いついてきた場合は、アムたちを先に通してから攻撃を始めます」
ギルフォードが感心したように頷いた。
「なるほど。追撃してくる敵を、回廊の狭い場所へ誘い込むわけですな」
「はい。敵がどれだけの兵力を連れてくるか分かりませんが、ここなら少ない兵でも迎え撃てます」
エルはそう答えた。
しかし、その胸中は穏やかではなかった。
アムルが殿を務めている。
それだけで、今すぐ駆けつけたい気持ちになる。
けれど、自分がここを離れれば、アムルが戻ってきたときに誰が迎え入れるのか。
ここで準備を整えておくことこそ、アムルを助ける一番確実な方法だった。
「……アム」
エルは小さく呟いた。
そして顔を上げる。
「グランワルド、行きましょう」
「はっ!」
エルは回廊出口へ向かった。
◇
レミーラ軍の反撃は散発的だった。
包囲網を突破された直後である。
各部隊の指揮系統は乱れ、命令も十分には行き渡っていない。
それでも敵は動いた。
敗走するリービッヒ軍を見れば追う。
敵が退けば押し返す。
戦場に立つ兵士としては当然の行動だった。
だが、そのたびにアムルが現れた。
「そこ、前に出すぎるな!」
追ってきた敵を弓兵が射る。
敵が止まれば退く。
騎兵が突っ込んでくれば槍兵を前へ出し、その足を止める。
決して深追いしない。
勝とうともしない。
ただ時間だけを奪った。
その間にも、リービッヒ軍の本隊は東へ、東へと遠ざかっていく。
やがて最後の部隊が十分な距離を取ったことを確認すると、アムルは後方を振り返った。
「よし」
もういい。
「撤収!」
そこからは速かった。
戦っていた部隊が一斉に離脱する。
追おうとしたレミーラ兵が態勢を整えた頃には、すでにアムルの姿は遠い。
隊列を組み直して追撃を開始した頃には、さらに距離が開いている。
追いつけそうで、追いつけない。
見えているのに、捕まらない。
アムルは敵の動きを確かめながら、撤退を続けた。
パドゥーラ回廊は、もう遠くない。
ここまで来れば、あと少しだった。
しかし、そのときだった。
「アムル様!」
後方の斥候が駆け込んできた。
「新手の騎兵が接近しております!」
「騎兵?」
「はい! かなりの速度です!」
アムルは振り返った。
遠くの地平線に、砂煙が見える。
その下から、重い蹄の音が響き始めていた。
「……鉄騎兵か」
アムルは目を細めた。
しかも、相当な速度だった。
これまで追撃してきた部隊とは明らかに違う。
こちらとの距離が、急速に縮まっている。
「旗は?」
「鉄騎兵第二大隊です!」
「……バルナか」
アムルは小さく息を吐いた。
「面倒なのが来たな」
◇
「見つけたぞ!」
バルナの声が響いた。
前方にリービッヒ軍の後尾が見える。
逃げている。
間違いない。
「追え!」
鉄騎兵第二大隊が速度を上げた。
重い蹄の音が大地を揺らす。
バルナはこれまで、アムルの部隊を何度も捕らえ損ねていた。
追いついたと思えば離脱される。
攻撃を仕掛ければ、巧みに受け流される。
敵の後尾を捕らえたと思ったときには、すでに主力が遠ざかっている。
その繰り返しだった。
だが、今度は違う。
逃げ続けた敵も、ついに足が鈍っている。
三か月に及ぶ籠城戦。
その後の決戦。
そして、休む間もない撤退行軍。
いかにアムルといえども、兵士たちの疲労までは消せない。
パドゥーラ回廊は近い。
だが、まだ入ってはいない。
ここで捕まえればいい。
「アムル!」
バルナは叫んだ。
「今度こそ逃がさんぞ!」
鉄騎兵第二大隊が、さらに速度を上げた。
◇
「アムル様! 敵が迫っています!」
「分かってる!」
アムルは後方を確認した。
鉄騎兵の速度は予想以上だった。
こちらも懸命に撤退しているが、距離は確実に縮まっている。
このままでは回廊へ到着する前に追いつかれる。
「槍兵を後ろへ! 騎兵の突撃を止めろ!」
「はっ!」
槍兵が隊列を組み、追撃してくる敵へ向き直った。
鉄騎兵が迫る。
重い蹄の音。
騎兵が槍を構える。
「構え!」
アムルの号令とともに槍兵が身構えた。
次の瞬間、鉄騎兵が突っ込んできた。
激しい衝突音が響く。
馬が倒れ、兵士が吹き飛ばされる。
だが、アムルの部隊も簡単には崩れなかった。
「下がれ!」
アムルが叫んだ。
槍兵が後退する。
敵が態勢を立て直そうとしたところへ、弓兵が矢を放つ。
鉄騎兵が足を止めた。
その間にアムルたちは再び距離を取る。
しかし、バルナは諦めなかった。
「追え! 逃がすな!」
鉄騎兵が再び動き出す。
アムルは舌打ちした。
「……しつこいな」
だが、今度ばかりは笑っていられなかった。
敵の方が速い。
こちらの兵士たちは疲れ切っている。
戦闘を繰り返せば、そのたびに隊列が乱れ、撤退速度も落ちてしまう。
何より、敵は戦闘態勢を整えた騎兵部隊だった。
これまでのように、追撃準備が整う前に離脱することはできない。
「アムル様! 後方の部隊が遅れています!」
「置いていくな! 全員連れていくぞ!」
アムルは馬を巡らせた。
回廊まで、あと少し。
だが、その少しが遠かった。
◇
パドゥーラ回廊出口。
エルは防御陣地から、遠くの平原を見つめていた。
グランワルドが構築した陣地には、すでに兵士たちが配置されている。
弓兵は高所へ。
槍兵は回廊の入口付近へ。
左右の林にも、敵が接近してきた場合に備えて兵を伏せていた。
中央の道だけは、味方が通過できるように開けてある。
「エル様!」
斥候が駆け込んできた。
「アムル様の部隊を確認しました!」
エルが振り返った。
「アムは無事なの!?」
「はい! ただし、敵の騎兵が激しく追撃しております!」
「敵の兵力は?」
「鉄騎兵一個大隊と思われます!」
グランワルドが顔を上げた。
「鉄騎兵……」
「はい。相当な速度で接近しており、アムル様の部隊との距離が縮まっております!」
エルはすぐに地図へ目を落とした。
鉄騎兵。
正面からまともに戦えば、こちらも大きな損害を受ける可能性がある。
しかし、回廊の出口ならば話は別だった。
広い平原であれば騎兵は自由に動ける。
だが、道幅が狭まるこの場所では、騎兵の突撃力を十分に発揮できない。
「グランワルド」
「はっ!」
「左右の部隊に準備を命じてください。ただし、アムたちが通過するまでは攻撃しないように」
「承知!」
「中央の道は最後まで開けておきます。アムたちが入ったら、すぐに敵を迎え撃てるようにしてください」
「お任せくだされ!」
エルは遠くの平原を見つめた。
まだアムルの姿は見えない。
だが、確実に近づいている。
「……アム」
エルは小さく呟いた。
胸が苦しかった。
今すぐ迎えに行きたい。
けれど、ここを離れるわけにはいかなかった。
自分が守るべき場所は、ここなのだ。
「全軍、配置についてください!」
エルの声が響いた。
兵士たちが動き始める。
グランワルドの指揮のもと、陣地は速やかに戦闘態勢へ移行した。
エル自身も右翼の兵を率い、回廊出口を見渡せる位置へ進んだ。
そして、遠くの平原を見つめる。
(……アム)
必ず帰ってきて。
その願いを胸に、エルは剣を握った。
◇
「回廊が見えたぞ!」
アムルの部隊から歓声が上がった。
前方に山々が迫っている。
その間を抜ける道。
パドゥーラ回廊だった。
「よし! 全員、あそこへ入れ!」
アムルが叫んだ。
兵士たちが最後の力を振り絞って走る。
だが、後方から鉄騎兵が迫っていた。
「追いつかれます!」
「あと少しだ!」
アムルは振り返った。
バルナの部隊が、猛烈な勢いで突っ込んでくる。
すでに距離はほとんどない。
ここで再び槍兵を展開すれば、回廊への到着が遅れる。
しかし、何もしなければ後方から蹂躙される。
アムルは一瞬だけ考えた。
「弓兵! 最後の斉射だ!」
後方の弓兵が足を止めた。
「放て!」
矢が一斉に飛ぶ。
鉄騎兵の先頭がわずかに乱れた。
しかし、バルナは止まらなかった。
「構うな! 突っ込め!」
鉄騎兵が矢を浴びながら前進する。
アムルは剣を抜いた。
「全員、回廊へ走れ!」
兵士たちが駆け込んでいく。
そして、最後に残ったアムルも馬を走らせた。
背後から蹄の音が迫る。
もう振り返る余裕もない。
前方には、回廊の入口があった。
その左右に、パドゥーラ軍の旗が見える。
(……エル!)
アムルは馬を走らせた。
あと少し。
あと少しで届く。
そして、ついに回廊の入口へ飛び込んだ。
「アムル様が入りました!」
防御陣地から声が上がった。
エルは剣を握り直した。
「……よかった」
小さく呟く。
だが、安心するのはまだ早かった。
アムルのすぐ後ろには、バルナ率いる鉄騎兵第二大隊が迫っている。
「グランワルド!」
「はっ!」
「迎撃します!」
「承知!」
エルは剣を掲げた。
「全軍、攻撃準備!」
左右に伏せていた兵士たちが、一斉に身構えた。
◇
「逃がすな!」
バルナは叫んだ。
アムルが回廊に入った。
だが、まだ手の届く距離にいる。
ここまで追い詰めたのだ。
今さら諦めるつもりはなかった。
「突撃!」
鉄騎兵第二大隊が回廊へ突っ込んでいく。
しかし、そこは平原とは違った。
左右の地形が迫り、進路が狭まっている。
隊列を広げる余地がない。
それでも、先頭の騎兵たちは勢いを保ったまま前進した。
そのときだった。
「今です!」
少女の声が響いた。
次の瞬間、左右から矢が降り注いだ。
「なに!?」
バルナが顔を上げた。
林の中から、パドゥーラ兵が姿を現す。
「伏兵だと!?」
鉄騎兵の先頭で馬が倒れた。
後続の騎兵が避けようとする。
しかし、狭い道では自由に動けない。
前方の騎兵が速度を落とせば、後続も詰まる。
そこへ、左右からさらに矢が放たれた。
「慌てるな! 左右を押し返せ!」
バルナが怒鳴った。
だが、パドゥーラ軍はすでに攻撃を始めていた。
「かかれ!」
左翼からグランワルドが突入する。
大柄な男が兵を率い、混乱した鉄騎兵へ襲いかかった。
騎兵たちは槍で応戦しようとする。
しかし、十分な速度を得られないままでは、騎兵の突撃力を発揮できない。
さらに右翼からも鬨の声が響いた。
「突撃!」
エル=リージェット。
小柄な少女が兵を率い、鉄騎兵の側面へ攻撃を仕掛けた。
両翼から挟まれ、鉄騎兵第二大隊の隊列が崩れていく。
「くそっ!」
バルナが馬を巡らせる。
左右から敵が迫っている。
しかも、前方にはパドゥーラ軍の槍兵が展開していた。
これでは前進できない。
後退しようにも、後続の騎兵が詰まっている。
「道を開けろ!」
バルナが叫んだ。
だが、すでに遅かった。
そのとき。
前方から、新たな鬨の声が響いた。
「反転!」
アムルだった。
回廊へ飛び込んだアムルは、先行する兵を安全な場所まで進ませると、残った兵士たちへ向き直るよう命じていた。
そして剣を掲げる。
「鉄騎兵を潰す!」
「おおおおおおっ!」
リービッヒ兵が一斉に反撃を開始した。
前方からアムル。
左右からエルとグランワルド。
鉄騎兵第二大隊は、三方から攻撃を受けることになった。
「……しまった!」
バルナはようやく気づいた。
アムルは、ただ回廊を目指して逃げていたわけではなかった。
ここには、最初からパドゥーラ軍の防御陣地が用意されていたのだ。
そして自分は、追撃に夢中になるあまり、その陣地へ飛び込んでしまった。
「突破しろ!」
バルナは叫んだ。
「止まるな! 道を開けろ!」
だが、兵士たちは思うように動けなかった。
槍が馬を止める。
矢が騎兵を射落とす。
密集したところへアムルの兵が突っ込んでくる。
騎兵の最大の武器は速度である。
その速度を奪われた鉄騎兵は、もはや本来の力を発揮できなかった。
追い詰めたはずだった。
逃げ場を失ったのは、自分たちだった。
「くそぉぉぉぉ!」
バルナの怒声が響いた。
だが、その声も戦場の喧騒に飲み込まれていった。
◇
鉄騎兵第二大隊は壊滅した。
バルナ自身は辛うじて戦場を脱出したものの、重傷を負い、もはや反撃を続けられる状態ではなかった。
アムルは追わなかった。
「もういい」
逃げていく敵を見ながら、剣を下ろした。
そして、大きく息を吐いた。
ようやく終わった。
三か月に及ぶ籠城戦。
包囲突破。
そして、ここまでの撤退戦。
そのすべてが終わったのだ。
「……帰ろう」
アムルはそう呟いて振り返った。
そこに。
ずっと会いたかった少女がいた。
「アム!」
エルが走ってくる。
「エル」
何か言おうとした。
だが、その前にエルが飛び込んできた。
「うわっ」
細い身体を受け止める。
エルは何も言わなかった。
ただ、アムルの服を両手で強く掴んでいた。
三か月。
連絡はほとんどなかった。
生きているという報告が届いても、その次の日にはどうなっているか分からない。
包囲された。
逃げられない。
決戦になる。
断片的な情報だけがパドゥーラへ届いた。
エルは顔を上げた。
「……遅い」
「ごめん」
「ずっと待ってた」
「うん」
「馬鹿アム」
「それは酷くない?」
「酷くない」
エルの声が震えていた。
アムルは笑った。
そして、その身体を抱きしめた。
「ただいま、エル」
「……うん」
エルも腕を回す。
「おかえり、アム」
三か月に及んだ戦いが、ようやく終わった。
◇
後に第三次コスタ戦役と呼ばれる一連の戦闘は、リービッヒ王国に甚大な被害を与えた。
コスタにおける一次会戦。
戦死者。
レミーラ帝国軍、約二千五百名。
リービッヒ王国軍、約五万名。
一方、リューザスを巡る第二次会戦から撤退戦にかけての戦死者は、
レミーラ帝国軍、約八千五百名。
リービッヒ王国軍、約五百名。
二度の会戦におけるレミーラ側の戦死者の、およそ八割。
それはアムル=ドゥットゥカースとの直接戦闘によって生じた損害であった。
またアムルは第二次会戦において、旗下の兵力のおよそ九割を本国へ帰還させることにも成功した。
包囲された軍勢を救い。
決戦で敵を退け。
追撃部隊を壊滅させ。
自らも生還した。
アムル=ドゥットゥカース個人の戦績だけを見れば、紛れもない勝利であった。
その後、アムルと戦った将軍たちは、彼の撤退戦について奇妙なほど一致した証言を残している。
――あれほど綺麗に逃げる者はいなかった。
東部辺境軍鉄騎兵団長オスワルトは、それを「魔法」と呼んだ。
バルナは「芸術」と評している。
勝利する将軍は数多い。
敵を打ち破る猛将も珍しくない。
だが、数万の軍勢を率いながら、追撃する敵の眼前から軍そのものを消してしまうように逃げる将軍は、大陸広しといえどもアムルくらいのものであった。
そして、この戦いでは、もう一人の存在も無視できなかった。
エル=リージェット。
パドゥーラに残された彼女は、ライプニッツ失陥の報を受けるや回廊の防衛を固め、敵の補給線を脅かすために兵を派遣していた。
さらに、リューザスの兵士たちへ味方の存在を知らせ、包囲軍に後方への警戒を強いている。
そして最後には、自ら整えた防御陣地でアムルを迎え入れ、追撃してきた鉄騎兵第二大隊を撃破した。
アムルとエルは、互いに連絡を取り合って作戦を立てたわけではない。
それぞれが自分の置かれた状況を判断し、最善と思う行動を取った。
その結果が、回廊における勝利につながったのである。
しかし――。
リービッヒ王国は、この戦争に敗北した。
レミーラ帝国の逆侵攻によって、リービッヒは外征戦力の大半を喪失。
ライプニッツまでもがレミーラ帝国の支配下へ入った。
第三次コスタ戦役以前、リービッヒには自国を守るだけの十分な軍事力が存在していた。
それが、わずか数か月で失われたのである。
アムルは勝った。
だが、リービッヒは負けた。
そしてこの敗北は、後のリービッヒ王国とパドゥーラの運命を大きく変えることになる。




