第八十二話「線を置く場所」
〖前書き〗
前回まで:
土手の切れ目の先には、家も畑も作られていない低地が残されていた。
そこへ入った水は広がりながら河原へ戻る。
守るためには、すべてを閉じるのではなく、水が通る場所をあえて残すことも必要だった。
龍地で見つけた「逃がす」という理は、甲斐の広い土地へ形を変え始めていた。
信玄は、土手の切れ目から河原へ続く低地を歩いていた。
勘助がその後を追う。
少し離れて、樹玄と六人も続いた。
何も作られていない土地は、緩やかに下っている。
だが、まっすぐ川へ続いているわけではなかった。
途中で地面がわずかに盛り上がり、その向こうでは別の低い筋が河原へ伸びている。
三那兜が足を止めた。
「ここ、水は真っ直ぐ行かないな」
四糸乃も地面を見る。
「こちらが高いです」
六嗣が首を傾げた。
「じゃあ、水は?」
五風が少し先まで歩き、低い方を指した。
「こっちへ回る」
土の上には、細かな砂が筋になって残っている。
枯れ草も、同じ方向へ倒れていた。
勘助がしゃがみ込む。
「水は、人が開けた場所を選ぶとは限らぬ」
信玄が振り返る。
「土地の方が、先に道を決めているということか」
「少なくとも、逆らえば力が要りましょうな」
一鶴が土手の方を見る。
「じゃあ、どこでも切れ目を作ればいいわけじゃない」
「そういうことです」
樹玄が答えた。
「開ける場所を間違えれば、水を逃がすつもりが、人のいる方へ導くことにもなります」
六嗣が紙を取り出す。
「閉じない場所にも、選び方がある」
「選ぶというより」
四糸乃が周囲を見回した。
「土地が示している場所を見つける、でしょうか」
信玄は何も言わず、低地をさらに進んだ。
やがて、二つの地形が見える場所へ出た。
右には、わずかに高い土地。
その上には畑と数軒の家がある。
左には、石の多い低地。
草ばかりで、人の暮らしはない。
その先は広い河原へ続いていた。
「分かりやすいな」
三那兜が言った。
「水なら、低い方へ行く」
「今はな」
勘助が返す。
その言葉に、老人の言葉が蘇った。
――今はな。
川は場所を変える。
大雨の量も同じではない。
土砂が積もれば、昨日まで低かった場所が高くなることもある。
一度見ただけでは足りない。
一度決めれば終わりでもない。
二羽花が低地へ目を向けた。
「こっちは、声が薄い」
五風が隣へ立つ。
「人があまり使ってないから?」
「たぶん」
二羽花は今度も土へ触れなかった。
ただ、静かに周囲を見る。
「でも、あっちは違う」
視線の先には家がある。
子どもの声。
畑で働く人。
馬をつなぐ柱。
水が来れば、失われるものが多い場所だった。
信玄は高い土地と低い土地を交互に見た。
「守るべき場所と、水に渡す場所を分ける」
勘助が頷く。
「されど、それだけではありますまい」
勘助は低地の途中にある、小さな盛り上がりを示した。
「ここで少し向きを変えれば、水は家からさらに離れる」
三那兜が歩いて確かめる。
「大きな壁はいらない?」
「水を全部止めるのでなければな」
信玄の目が細くなった。
高く積み上げて、正面から受け止めるのではない。
土地の高低を使う。
水が行こうとする方へ、少しだけ道を示す。
「線は、水を閉じ込めるためだけに引くのではないのか」
樹玄が静かに頷いた。
「水に、こちらへ行けと教える線もあります」
四糸乃が紙へ書き加える。
守る場所。
開ける場所。
受ける場所。
戻す場所。
一鶴がその文字を覗き込んだ。
「全部、別々じゃないんだな」
「つながっています」
四糸乃は答えた。
一つを変えれば、その先も変わる。
土を置く場所。
置かない場所。
切れ目を残す場所。
人が暮らす場所。
それらすべてが、水の道を形作っていく。
信玄は河原の向こうまで目を凝らした。
「線を引く前に、土地を見る」
勘助が笑う。
「ようやく、話が大きくなって参りましたな」
信玄も、わずかに口元を緩めた。
龍地では、
水に道を作った。
ここでは違う。
すでに土地の中にある水の道を読み、
人の暮らしと重ならぬよう、
必要な場所にだけ線を置く。
大きな水から人を守る形は、
土を積むところから始まるのではない。
どこに土を置かないか。
そこを見極めるところから、
始まるのかもしれなかった。
〖後書き〗
今回のまとめ:
・水の逃げ道は、どこにでも作ればよいわけではない
・地面の高低や砂、草の倒れ方から、水が向かいやすい場所を読む必要がある
・守る土地と、水へ渡す土地を分けるだけでなく、流れを人の暮らしから少しずらすという考えが生まれる
・信玄たちは、土を積む前に「どこへ線を置き、どこへ置かないか」を考え始める
作者ノート:
前話では「あえて閉じない場所」が必要だと気づきました。
今回は、その場所をどう見つけるのか。
水を力で従わせるのではなく、土地がもともと持っている高低や流れを読み、それを利用するという考えへ進んでいます。
キーワード:
甲斐盆地/武田信玄/山本勘助/森口樹玄/六人/地形/土手/水の逃げ道/土地の高低/治水の理




