第六話「流れを知る者」
森口家へ戻る頃には、空はすっかり沈んでいた。
雨は降っていない。
それなのに、車の下からはまだ水音がする。
ぴちゃ。
ぴちゃ。
実際の水ではない。
団子の土地で聞いた音が、まだ耳の奥に残っているだけなのか。
それとも、本当に何かが車の下をついてきているのか。
誰も、確かめようとはしなかった。
運転席の一樹は、前を見たまま黙っている。
助手席の三樹は、右手を握ったまま外を見ている。
後部座席では、二葉がその手を何度も見ていた。
三樹の手の黒い跡は、団子での処置で少し薄くなっていた。
けれど、消えてはいない。
五樹が後ろから身を乗り出す。
「三樹、手、痛い?」
「痛くない」
「二葉、今の信用できる?」
二葉は即答した。
「できない」
「だって」
三樹が振り返る。
「五樹、お前ほんと黙れ」
「二葉案件だから黙らない」
四葉が窓の外を見たまま言う。
「案件化しないで」
六樹がiPadを見ながら続ける。
「五樹の二葉関連発言、今日だけで記録更新」
「六樹、それ本当に記録してる?」
「してる」
「しないで?」
「必要」
「何に?」
「傾向分析」
五樹は胸を押さえた。
「俺の愛がデータ化されてる」
一樹が運転しながら言った。
「愛というより、過剰反応だ」
「一樹まで」
「事実だ」
いつものやりとり。
けれど、全員分かっている。
軽口で薄めても、団子の土地で聞いた声は消えていない。
——かえして。
——たかさを。
——ながれを。
——みずを。
あれは、人の声ではなかった。
二葉が言った通り、土地の声だった。
森口家の古い家は、神社の裏手にある。
森口神社の拝殿から少し奥へ入った場所。
石畳の先に、古い木造の家が続いている。
玄関の灯りはついていた。
中から、低い声がした。
「遅かったな」
三樹が靴を脱ぎながら言う。
「じいちゃん、起きてたのか」
廊下の奥に、祖父の森口樹蔵が立っていた。
背筋はまだまっすぐだ。
白髪混じりの髪。
深い皺。
目だけは鋭い。
先代当主。
森口家が何を見てきたのか、六人の誰よりも知っている人だった。
樹蔵は三樹の右手を見た。
「触ったな」
三樹は黙った。
五樹がすかさず言う。
「触ったどころか掴んだ」
「五樹」
三樹が低く言う。
「事実だし」
六樹が淡々と続ける。
「核を直接把持。黒の残留あり」
「六樹も言うな」
樹蔵は三樹を見たまま、短く息を吐いた。
「馬鹿者」
三樹は素直に頭を下げた。
「悪い」
二葉がすぐに言う。
「処置はした。でも、まだ残ってる」
樹蔵は頷く。
「中へ入れ。話す前に、手を見せろ」
「またか」
「まただ」
三樹は諦めた。
五樹が小さく笑う。
「三樹、今日はみんなに手を見られる日だね」
「お前も見せるか」
「俺は心が」
「五樹」
二葉が呼ぶ。
五樹は黙った。
樹蔵がそれを見て、わずかに目を細めた。
「五樹は相変わらず二葉に弱いな」
「弱くない。大事にしてるだけ」
「同じだ」
「なんだよ、じいちゃんまで」
「事実だ」
一樹が淡々と言う。
五樹は天井を見た。
「森口家、事実で人を刺しすぎ」
居間には、大きなテレビがある。
古い家屋には少し不釣り合いな、薄型の画面。
その横にApple TV。
部屋の隅にはHomePod。
六樹が整えた森口家の情報共有環境だった。
神棚。
古い柱。
畳。
そして、テレビに映る地図。
六樹がiPadを操作すると、Apple TVを通して画面がテレビに映った。
滝坂から菖蒲沢までの周辺の地図。
下宿。
中宿。
上宿。
菖蒲沢。
団子。
楯無堰。
竜地。
大溜井。
五樹が座布団に座りながら言う。
「こう見ると、うち、古いのか新しいのか分かんないよね」
四葉が答える。
「古いものを見るために、新しいものを使ってるだけ」
六樹が頷く。
「効率的」
三樹が台所の方を見る。
「飯は?」
二葉が言う。
「先に話」
「おにぎりは?」
「ある。でも先に手」
三樹は黙って手を出した。
樹蔵が三樹の手のひらを見た。
黒い跡は、薄い線のように残っている。
樹蔵は指先でその周囲に触れた。
「深くはない」
二葉が少し息を吐く。
「よかった」
「よくはない」
樹蔵は三樹を見る。
「次に同じことをすれば、手だけでは済まん」
三樹は頷いた。
「分かった」
五樹が口を開きかける。
二葉が見た。
五樹は黙った。
六樹が小さく言う。
「十一回目」
「六樹」
五樹が言う。
「俺が我慢したのに」
「代わりに言った」
「優しさ?」
「記録」
「ですよね」
樹蔵は低く笑った。
「騒がしいな」
一樹が座る。
「じいちゃん。団子で、声を聞きました」
樹蔵の表情が変わった。
「何と言った」
二葉が答える。
「返して、と」
四葉が続ける。
「高さ、流れ、水、とも言っていました」
六樹がテレビに団子周辺の図を映す。
「団子石は、ひとつの石ではありませんでした。団子という土地に混じる、小さな軽石状の石です。石の表面の穴の奥に、山の記憶のような映像が出ました。富士山と八ヶ岳の背比べ。八ヶ岳が砕ける場面です」
五樹が言う。
「それから、楯無堰の線も反応してた。団子の一帯で、伝承の記憶と楯無堰の“届かなかった水”が絡まってる感じ」
樹蔵は黙って聞いていた。
三樹が聞く。
「じいちゃん。森口家は、一体何を封じてたんだ」
部屋が静かになる。
外から、水音がした。
ぴちゃ。
ぴちゃ。
樹蔵は、しばらく目を閉じた。
そして、ゆっくり口を開く。
「封じていたのは、黒ではない」
一樹が眉を動かす。
「黒ではない?」
「あれは結果だ」
樹蔵は言った。
「流れ損ねたものが、形を持っただけだ」
六樹が小さく頷く。
「やっぱり」
四葉が聞く。
「では、森口家が見てきたものは?」
「流れだ」
樹蔵はテレビに映る地図を見る。
「水の流れ。土地の流れ。人の願いの流れ。恨みの流れ。祈りの流れ。そういうものは、止めれば腐る。無理に塞げば、別の場所から噴く」
二葉が静かに言う。
「だから、流す」
樹蔵は頷いた。
「森口家は、封じる家ではない。流れを戻す家だ」
一樹が目を伏せた。
団子で自分が言った言葉。
森口家の役目は、封じることだけじゃない。
流れを戻すことだ。
その言葉が、今、祖父の口から返ってきた。
樹蔵は続ける。
「富士山と八ヶ岳の背比べは、ただの昔話ではない。森口家では、砕かれた山の記憶として伝えてきた」
五樹が小さく言う。
「高さを返して、か」
「そうだ」
樹蔵は頷く。
「高さを奪われた山の記憶。流れを乱された土地の記憶。水を待った人の記憶。それらが、ここら一帯には重なっている」
四葉がテレビを見つめる。
「そこに、楯無堰が重なった」
「人が水を通した」
樹蔵の声は低い。
「生きるためにな。水がなければ田は作れん。人は水を欲し、水を通した。楯無堰は、その願いの道だ」
六樹が言う。
「でも、届かない水もあった」
「竜地は末端だ」
樹蔵は静かに言った。
「届かぬこともあった。待っても来ない水があった。だから大溜井を作った。溜めて、使えるようにした」
三樹が短く言う。
「溜まった水」
「水だけならいい」
樹蔵は三樹を見る。
「溜まるのは、水だけではない」
部屋の空気が重くなる。
二葉が小さく息を吸う。
「届かなかった願いも、溜まる」
樹蔵は頷いた。
「そうだ」
五樹がスマホを伏せる。
「それが黒?」
「黒は、名前のない溜まりだ」
六樹が画面に団子の土地の写真を映す。
道端に混じる小さな団子石。
畑の端に転がる小さな団子石。
表面の穴。
その奥に残った黒い線。
「団子の一帯は、流れを受け止めていました」
「そう伝わっている」
樹蔵が答えた。
三樹が顔を上げる。
「石一個の話じゃないんだな」
「ああ」
樹蔵は頷いた。
「団子石はひとつの石ではない。団子の土地に混じる小さな石たちが、水も、声も、黒も、すぐに表へ出ないように受け止めていた」
四葉が低く言う。
「濾過層」
「そうだ」
樹蔵は四葉を見る。
「水も、声も、黒も、すぐには表に出ないように。団子の石が混じる層が受け止めていた」
六樹が淡々と続ける。
「でも、今は目詰まりしている」
「その通りだ」
樹蔵は頷いた。
「受け止めきれなくなった。だから菖蒲沢に漏れた」
二葉が呟く。
「だから、声が濁って聞こえた」
樹蔵は小さく頷いた。
「濁った流れは、人の声にも似る」
五樹が顔をしかめる。
「じゃあ、団子石を一つ拾ってどうこうする話じゃない」
「違う」
樹蔵は言った。
「土地ごと見なければならん」
一樹が静かに問う。
「目詰まりの原因は」
樹蔵はすぐには答えなかった。
その沈黙に、全員が気づく。
「自然に詰まったわけではないんですね」
一樹が言う。
樹蔵は、ゆっくり頷いた。
「誰かが触った」
三樹の目が鋭くなる。
「誰だ」
「まだ分からん」
五樹がスマホを見る。
「投稿の中に、団子石を持ち帰ったとか、掘ったとか、そういうのは今のところない」
四葉が言う。
「でも、直径二センチなら、誰かが拾っても不思議じゃない」
二葉の顔が曇る。
「小さいから、軽く扱われる」
六樹が淡々と続けた。
「小さいから危険。持ち運べる記憶」
五樹が顔をしかめる。
「最悪」
一樹が樹蔵を見る。
「じいちゃん。団子の一帯は、本来どういう役割だったんですか」
樹蔵は、テレビに映る地図の一点を指した。
「団子は、受け止める場所だ」
「受け止める?」
三樹が聞く。
「ああ」
樹蔵は言った。
「菖蒲沢で滲んだものを、団子で受ける。団子で濾しきれなかったものは、さらに竜地へ流れる」
六樹がすぐに地図を重ねる。
「だから、団子で一部だけ通った後、竜地の大溜井が反応した」
四葉が腕を組む。
「団子は途中の濾過層。竜地の大溜井は、さらに奥の溜まり」
「そうだ」
樹蔵は頷いた。
「団子で濾しきれなかったものは、竜地に沈む」
二葉が小さく言った。
「沈んだままなら、まだよかった」
樹蔵の目が、わずかに細くなる。
「そうだ」
一樹が問う。
「今は沈んでいない」
「動いている」
樹蔵は答えた。
「だから、大溜井を見なければならん」
三樹が立ち上がりかける。
「じゃあ行くか」
「今夜は行かん」
樹蔵の声が落ちた。
三樹が止まる。
「何でだ」
「夜の大溜井に、今のまま行くな」
「人が残ってるかもしれない」
「だから行くなと言っている」
樹蔵の声が強くなる。
「夜の水は、昼の水と違う」
部屋が静まり返った。
二葉が小さく言った。
「夜は、向こう側が近い」
樹蔵は頷いた。
「二葉は分かるな」
「……うん」
五樹が二葉を見る。
「二葉、顔色悪い」
「大丈夫」
「信用しない」
二葉は少しだけ笑った。
「今は、本当に大丈夫」
「今は、ね」
五樹はそれ以上言わなかった。
一樹が判断する。
「明朝、竜地の大溜井へ向かいます」
樹蔵が頷く。
「それがいい」
三樹は不満そうだったが、黙った。
一樹が見る。
「三樹」
「分かってる」
五樹が口を開こうとする。
三樹が先に睨んだ。
「言うな」
五樹は両手を上げる。
「何も言ってない」
六樹が淡々と言う。
「十二回目」
「六樹!」
五樹が笑う。
三樹は諦めたように座り直した。
二葉が台所へ立つ。
「おにぎりと味噌汁、温めるね」
三樹が即座に反応する。
「食う」
「三樹は先に手をもう一回見せて」
「……」
五樹が手を挙げる。
「俺も食う」
「五樹は手を見せなくていいけど、配膳手伝って」
「はい」
四葉が小さく笑う。
「二葉には素直」
五樹が振り返る。
「森口家全員、それ言うのやめない?」
六樹がApple Watchを見る。
SNOOPYが画面の中で小さく動いた。
「夕食、推奨」
三樹が言う。
「SNOOPYも飯って言ってる」
「言ってない」
六樹は即答した。
「でも、食事は必要」
一樹がテレビの地図を見つめていた。
楯無堰。
団子。
竜地の大溜井。
人が水を通した道。
届かなかった水が溜まった場所。
砕かれた山の記憶。
それらが、一本の線のように見えた。
いや。
線ではない。
流れだ。
森口家が、これから向き合わなければならない流れ。
その時、テレビ画面が一瞬だけ揺れた。
六樹が顔を上げる。
「今、触ってない」
画面に映っていた地図の上。
竜地の大溜井の場所だけが、黒く滲んでいた。
ぴちゃ。
HomePodから、水音がした。
誰も、動かなかった。
五樹が低く言う。
「……家の中まで来るの、反則じゃない?」
二葉が台所の入口で立ち止まる。
一樹が静かに息を吐いた。
「明朝まで、待ってくれる気はないらしいな」
樹蔵が地図を見たまま言った。
「水は待たん」
黒い滲みは、ゆっくり広がっていく。
画面の中で。
竜地の大溜井から、滝坂へ向かって。
逆流するように。
水音が、もう一度鳴った。
ぴちゃ。




