第四十九話「最初の訴え」
【前書き】
前回まで:
龍地には、下手から東南東へ二町ほど離れた場所に「責」が置かれた。
守れ。
聞け。
一鶴は、その場所で人の声を聞き、争いを分ける役を預かる。
だが、責は置いただけでは終わらない。
それは、すぐに試されることになる。
「聞け」と刻まれた札が立った翌日、龍地には最初の訴えが持ち込まれた。
下手で休んでいた男が、荷の一部が消えたと声を荒らげたのだ。
「ここに置いた。確かに置いたんだ」
男は草の上に広げた荷を指差した。
「干した布と、塩の小袋がない」
もう一人の男が、顔を赤くして怒鳴る。
「俺を疑うのか。俺は隣で水を飲んでいただけだ」
下手にいた者たちが、ざわめいた。
水桶を抱えた女。
荷を背負った若者。
腰を下ろしていた老人。
誰もが口を出しかけ、けれど、誰もが一鶴の方を見た。
五風が小さく笑う。
「ほら、来たぞ」
一鶴は表情を変えなかった。
「来ると思っていた」
「面倒だな」
「だから、分ける」
一鶴は男たちに向き直った。
「ここでは話をしない」
荷を失くした男が眉をひそめる。
「なぜだ」
「休む者の中で言えば、皆が口を出す。声が増えれば、何があったのか分からなくなる」
一鶴は、下手から少し離れた札を指した。
「話は、あちらで聞く」
信玄は少し離れた場所で、その様子を見ていた。
勘助は地図を畳まず、筆を持ったまま一鶴の動きを追っている。
四糸乃もまた、紙に指を添えていた。
二人の男は、不満げにしながらも、一鶴に従った。
守れ。
聞け。
二枚の札の前で、一鶴はまず荷を失くした男を座らせた。
「何を、どこに置いた」
「布を三枚、塩を小袋で二つ」
「いつ気づいた」
「水を飲んで戻ったら」
「誰に預けた」
男は口を閉じた。
一鶴は続ける。
「誰にも預けていないのなら、失くした荷は皆の責ではない」
男が顔をしかめる。
「だが、盗まれたかもしれん」
「だから聞く」
次に、一鶴は疑われた男を見る。
「お前は何をしていた」
「水を飲んでいた」
「どこで」
「上手の桶のそばだ」
五風が横から口を挟んだ。
「嘘じゃない。俺、見た」
勘助が五風を見る。
「お前はなぜ見ていた」
「揉めそうなやつは、だいたい分かる」
「便利だな」
「便利に使うな」
一鶴は五風の言葉を聞き、頷いた。
「なら、この者は荷のそばにはいなかった」
荷を失くした男が黙る。
けれど、まだ納得はしていない顔だった。
その時、樹玄が荷の置かれていた場所へ歩いた。
草の間に、白い糸が引っかかっている。
少し先には、破れた布の端。
さらにその向こうには、細い足跡があった。
「人じゃない」
樹玄が言った。
「獣か」
信玄が問う。
「たぶん。小さい。荷の匂いに寄った」
五風が草をかき分ける。
「あった」
低い茂みの奥に、布が一枚引っかかっていた。
塩の小袋も、ひとつだけ破れている。
五風はそれを拾い上げた。
「盗人じゃなくて、腹減った獣だな」
疑われた男が、ほっと息を吐く。
荷を失くした男は、気まずそうに目を伏せた。
一鶴は、破れた小袋を見た。
「荷を置く者は、荷場で印を付ける。預けるなら、預けた者の名を残す。何もせず置いた荷は、誰の目にも留まらない」
男は唇を噛んだ。
「俺が悪いと言うのか」
「すべてではない」
一鶴は静かに答えた。
「だが、責のない場所に置いたものは、守りようがない」
その言葉に、六嗣が顔を上げた。
「札が要ります」
五風がうんざりした顔をする。
「またか」
「要る」
六嗣は当然のように言った。
信玄が問う。
「何と刻む」
一鶴は少し考えた。
「預けよ」
勘助が低く笑った。
「また一つ、宿らしくなりますな」
六嗣は新しい木札を取り出し、小刀を当てた。
預けよ。
こん。
こん。
こん。
木を削る音が、龍地に響く。
四糸乃は筆を走らせた。
龍地。
荷を失う訴えあり。
聞き、分け、確かめる。
盗みにあらず。
獣によるものと知る。
荷は預け、名を残すべし。
信玄は一鶴を見た。
「よく聞いた」
一鶴は頭を下げる。
「まだ、決めただけです」
「それでよい」
信玄は、下手と責の場所を結ぶ細い道を見た。
「聞かぬまま裁けば、恨みが残る。聞くだけで終われば、乱れが残る。ならば、聞いて、分けて、次の決まりを置く」
五風がぽつりと言った。
「責って、増えるんだな」
一鶴は答えた。
「人が増えれば、増える」
「やっぱり面倒だ」
「だから、誰かがやる」
風が草を揺らした。
樹玄は耳を澄ませる。
水の音ではない。
荷の音だけでもない。
人の声が、沈まずにほどけていく音だった。
龍地はまたひとつ、人の流れを覚えた。
【後書き】
今回のまとめ:
・龍地で最初の訴えが起きる
・一鶴は休む場所から争いを分け、「聞け」の札の前で話を聞く
・盗みではなく獣によるものと分かり、新たに「預けよ」の札が置かれる
作者ノート:
今回は、第四十八話で置いた「聞け」が実際に機能し始める回です。
ただ争いを裁くのではなく、まず聞き、分け、確かめる。
そこで初めて、次に必要な決まりが見えてくる。
一鶴の役目が、少しずつ形になっていきます。
キーワード:
龍地/下宿/大屋敷跡/一鶴/五風/六嗣/武田信玄/山本勘助/預けよ




