第四十四話「風の足」
【前書き】
前回まで:
信玄たちは、龍地で昼餉を取り、そこに人が休み、物が動き、名が残る気配を見た。
梅を食べ、楊枝を挿した種を土へ捨てた小さな出来事は、土地が人の記憶を抱き始める音となる。
水の道は、人の道へ。
龍地は、ただの原野ではなくなり始めていた。
楊枝を挿した梅の種は、翌朝には見えなくなっていた。
雨に流されたのか。
風に転がされたのか。
鳥がつついたのか。
誰にも分からない。
けれど樹玄は、土の前で少しだけ眉を寄せた。
「消えてない」
勘助が地図を広げながら問う。
「種がか」
「違う。音が」
樹玄は龍地の原野を見渡した。
「昨日より、人の音が近い」
その言葉どおり、朝の龍地には数人の村人が集まっていた。
水を運ぶ桶を持つ者。
薪を背負う者。
干した菜を包んだ者。
そして、その中に一人、やけに身軽な若者がいた。
年の頃は十六、七。
日に焼けた肌。
風に乱れた髪。
腰には短い縄と小刀。
肩には小さな荷をかけている。
若者は、武田の兵たちを見ても怯えなかった。
「御屋形様ってのは、あんたか」
周囲の兵が一斉に動きかけた。
だが信玄は手で制した。
「そうだ」
若者は信玄を上から下まで見て、あっさり言った。
「派手だな」
勘助が額に手を当てた。
「おい」
「事実だろ」
若者は悪びれない。
信玄は少しだけ口元を上げた。
「名は」
「五風」
「いふう?」
「風みたいに走るから、そう呼ばれてる。本名は別にあるけど、そっちはあんまり使わない」
四糸乃の筆が止まった。
五風。
その名を紙に置いた瞬間、樹玄がわずかに目を細めた。
「……風の音がする」
「そりゃ、そういう名だからな」
五風は笑った。
「で、あんたら、水を見るんだろ。なら、こっちじゃない」
勘助の目が鋭くなる。
「なぜ分かる」
「水を運ぶなら、通る道は決まってる。重い桶を持って、わざわざ遠回りする馬鹿はいない」
五風は足元の草を指した。
「ここは人が通る。あっちは荷が通る。で、向こうは雨のあとだけ水が来る」
「誰に聞いた」
「見りゃ分かる」
その答えに、勘助の口元がわずかに動いた。
気に入ったのか。
腹が立ったのか。
どちらとも取れる顔だった。
五風は歩き出した。
「こっち」
龍地の原野を横切ると、低い石が三つ並ぶ場所に出た。
その先には、細い道が二股に分かれている。
一方は村へ。
一方は山裾へ。
そして、もう一方は、まだ道とも呼べない草の切れ目として続いていた。
「ここで荷を置く」
五風は石を軽く蹴った。
「水も、薪も、野菜も。人が増えれば、ここで分ける」
信玄が静かに問う。
「なぜ、ここだ」
「風が抜ける。火の煙がこもらない。下へ行けば村、上へ行けば水。あっちは道を直せば荷車も通る」
五風は信玄を見た。
「宿にするなら、ここだろ」
兵たちがざわついた。
勘助は地図に線を引く。
「御屋形様」
「聞いた」
信玄の目は、すでに草の切れ目の先を見ていた。
「水の道。人の道。荷の道」
四糸乃が筆を走らせる。
龍地。
五風、道を示す。
水・薪・荷の分かれ。
樹玄は五風を見た。
「お前、何を聞いてる」
「聞く?」
「風じゃない。人の動き」
五風は少し考え、肩をすくめた。
「止まるとこが分かるだけだ。人がどこで楽をしたいか。どこなら揉めるか。どこなら通るか」
信玄が笑った。
「それが分かる者は、使える」
五風は露骨に嫌そうな顔をした。
「面倒事は嫌いだ」
勘助が低く言う。
「残念だったな。お前は今、面倒の中心に立った」
「最悪だな」
「諦めろ」
四糸乃は迷わずそのやり取りも書いた。
信玄は二股の道の前に立ち、兵へ命じた。
「石を動かすな。まずは草を払え。人が通った痕を消さぬように道を開け」
「はっ」
「水を奪う宿にはしない。人が水を運び、分け、休む場所にする」
風が吹いた。
五風の髪が揺れる。
樹玄の袖が揺れる。
四糸乃の紙が小さく鳴る。
勘助は地図に、新しい印を置いた。
「御屋形様。ここは、ただの休み場ではなくなりますな」
「そうだ」
信玄は龍地の原野を見た。
「ここに、人の流れを置く」
その瞬間、樹玄の耳に音が届いた。
水ではない。
黒でもない。
桶を置く音。
荷を下ろす音。
誰かが笑う音。
誰かが道を尋ねる音。
まだ遠い。
まだ細い。
けれど龍地は、確かに人の声を抱き始めていた。
【後書き】
今回のまとめ:
・龍地に村人たちが集まり始める
・水や荷の通り道を読む若者、五風が登場する
・信玄は龍地を「水を奪う宿」ではなく、人が水を運び、分け、休む場所にすると決める
作者ノート:
今回は、六つ子の前世につながる一人として五風を登場させました。
五風は、水を聞く者ではなく、人の動きや荷の流れを読む者です。
龍地がただの土地から、人が集まり、物が動く場所へ変わるための案内役になります。
水の流れから、人の流れへ。
そして龍地宿の気配へ、少し話を進めました。
キーワード:
五風/龍地/人の流れ/荷の道/宿の始まり/武田信玄/山本勘助/森口樹玄/四糸乃




